第3話
「……だから、何だって言うのよ。それでもあんたなら、その危険な場所にも行けるんでしょ?」
「いや、行けないな」
片桐は即座に否定した。
「アビスの深層へ潜るためには、ただ強い武器があればいいというものじゃない。それよりも重要なのは『兵站』だ」
「へいたん……?」
「物資の補給線のことだよ。何が起こるか分からないアビスの深層に、ありったけの荷物を持ち込んで探索するなんてことは不可能だ。動きが鈍れば、すぐに魔物の餌食になる」
片桐は煙を吐き出しながら語る。
「アビスの内部には、過去の構造変動で飲み込まれた地下鉄の駅やビルのフロアが、当時の原形を留めたまま残っている空間がある。ノイズの干渉が比較的薄いそういった場所を、ダイバーたちは『セーフルーム』として利用するんだ」
真白だけでなく、黙って横で聞いている有坂も、初めて知るアビスの深奥のシステムに聞き入っていた。
「焦熱まで潜るとなれば、黒縄や叫喚といった途中の階層にあるセーフルームに、先行して大量の水や食料、医療キットを備蓄しておく必要がある。戦闘に不向きでも生存能力に長けた異能力を持つ『補給部隊』が、そのためのルートを開拓し、セーフルームを維持するんだ。そうしなければ、どれほど優秀な戦闘部隊でも、道中の消耗だけで全滅する」
片桐は言葉を切り、真白を見た。
「今の俺は単独だ。自分の背中に背負えるだけの物資で焦熱まで降りて、手ぶらで生還できるほど、あそこは甘い場所じゃない。俺には、君の父親を探すための『準備』が物理的に不可能なんだよ」
アビスの現実を突きつけられ、真白は奥歯を噛み締めた。
「……でも!」
真白がソファから立ち上がる。
「それは普通のダイバーの話でしょ! あんたは『焦熱惨禍』から生還した、唯一の生き残りじゃない! 」
すがるような、悲鳴に近い声だった。
その叫びを聞いた片桐は顔を撫でた。
「……そうか。教団にいるなら、知っていて当然か」
「ええ、『弥生の理』にいれば、あんたの話は嫌でも耳に入るわ」
真白は片桐を睨んだ。
「あの地獄から、無能力者がたった一人生き延びるなんて絶対にあり得ないって。あんたは無能力者を装ってるだけで、本当は『異能力者』なんじゃないかって……教団はあんたを疑って、それで」
片桐は手を上げて真白を制した。
(……異能力、か)
脳裏をよぎるのは、焦熱惨禍を生き延びた直後の記憶。
無意識のうちに、視線が作業机の引き出しの奥――六條から買い続けている『錠剤』が隠されている場所へ向く。
教団の連中が己の生還を疑い、異常な執念で探りを入れてきた過去。
だが、そんなことを今ここで語るつもりはない。
片桐は短く息を吐き、真白の言葉を遮った。
「君は俺を買い被りすぎだ。俺はあの時たまたま生き延びただけの無能力者だし、今もただの何でも屋でしかない」
「でも、他に頼める人がいないのよ……!」
「それに、だ」
片桐は続けた。
数日前に等活で目撃したあの粘液の山と、連絡のつかない六條の顔がよぎる。
「俺は今、長期間この街を空けるわけにはいかないんだ」
蛭子が表層で活動していること。
その対応のために六條からの連絡を待っていること。
余計なパニックを引き起こさないため真白には伝えないが、それもまた、片桐にとって譲れない理由だった。
「この依頼は、今の俺には受けられない」
真白は顔を歪めた。
「……分かったわよ」
震える声で吐き捨てると、踵を返す。
「あんたなんかいなくても……自分でなんとかしてみせるから!」
乱暴に扉が開き、閉められた。
足音が遠ざかっていく。
有坂は戸惑ったように、扉と片桐を交互に見つめた。
「……片桐さん。真白さんのこと、放っておいていいんですか」
片桐はため息をついた。
「よくは、ないな。あの勢いのまま話をあちこちに持ちかければ、どこかで必ずカモにされる」
「だったら、僕も手伝いますよ? 真白さんを助けるために、その、兵站を作るのを」
片桐は有坂を見た。
「気持ちはありがたいが、君には無理だ」
「僕の脚なら、普通の人よりずっと早く潜れませんか?」
「アビスの中は狭いし障害物も多い。瓦礫や徘徊する魔物の中でどう立ち回る?」
「それは……」
「それに、アビスを生き延びるためには情報が要る。君にはそれがない」
「でも何かしないと……」
片桐は頭を掻く。
「有坂くん。しばらくの間、遠くから真白のことを見ていてくれないか。危ないところに近づきそうなときは止めてほしい」
「分かりました。……でも、大人しく僕の言うことを聞くとは思えませんけど」
「だろうな。だが、どう考えても『今』は、これ以上何もできない」
有坂は少し表情を緩めた。
「なんだ。片桐さん、結局見捨てるつもりはないんですね」
「助けられるなら助けたいさ。だが現実問題として、今の俺一人じゃどうにもならないんだよ」
「……そう、ですね」
「目立たないように注意してくれ」
有坂は頷くと、木箱を置いたまま、真白の後を追って事務所を出ていった。
一人残された片桐の指先から、紫煙が立ち昇っていく。
(……親子、か)
六條からの連絡は、未だにない。




