第2話
焦熱。
その忌々しい地名を聞いた瞬間、片桐は浅くため息をついた。
とんでもない貧乏くじを持ってきたものだ、と内心で悪態をつく。
今この場で、その名前の重みを理解している者は片桐だけだろう。
片桐にとって、その言葉を耳にすることは、自らの首に縄をかけられることと同義なのだ。
片桐はハンダゴテを置き、ゆっくりとソファの真白に向き直った。
「いきなり焦熱だと言われて、そのまま引き受ける奴はいない。まずは確認をさせてほしい」
片桐の声はどこまでも平坦だった。
依頼人を突き放すでもなく、かといって了承するわけでもない。ただ純粋に、ビジネスとしての事実関係を整理するためのトーンだ。
「父親の名前は?」
「……遠野、誠一」
真白は膝の上に置いた両手を握り締めながら答えた。
(遠野誠一……)
片桐は頭の中でその名前を反芻した。
しかし、記憶の網には何も引っかからない。
「いなくなったのはいつ?」
片桐の問いに真白は首を横に振る。
「分からないの。小学生の時にはもういなかった。でもいつからいなかったのかは、分からない」
そうか、と片桐は煙草に火をつける。
「じゃあ、当時のことはどこまで分かる?焦熱まで潜るダイバーならR.I.N.G.S.の所属で間違いないだろうが、どこの、誰のチームだったのか、とか、何か情報はないのか?」
「……それも、ないわ」
片桐は天井を見上げ、ため息とも取れるほど長く、煙を吐いた。
「この数年間、いろんな伝を頼って住民票の除票とか、残ってる記録を片っ端から集めたの。それで、ようやく分かったのはあたしが15歳の時に死亡認定が降りてるってこと。当時の所属企業はR.I.N.G.S.で合ってる。死因は『焦熱における作戦行動中の未帰還』ってなってた」
焦熱惨禍が7年前。
ならば今目の前にいるこの娘は22か23歳ということになる。
(思っていたよりもずっと若いんだな)
それで、と片桐は意識を目の前の真白へ戻す。
「写真や遺品とか、何か父親の特徴が分かるものは残っていないのか」
片桐が問いを重ねると、真白はギュッと唇を噛んだ。
「なんにも……ないのよ」
「そんなこと……」
「あるの。写真も、服も、あの人が家にいたっていう痕跡のすべてを……母さんが処分したの」
真白の声には、母親に対する静かな怒りと、深い戸惑いが混じっていた。
「ねえ、おかしいと思わない? いくら出ていった人間のことを忘れたいからって、普通、そこまで徹底的にやる? 家の中にあった父親の痕跡は全部消されて、母さんの知り合いも、周りの大人達も、最初からそんな人間はこの世にいなかったみたいに誰も父さんのことを口にしない。……それに」
真白は俯き、自分の頭を押さえた。
「あたし自身の記憶も、変なのよ。小さい頃の記憶にモヤがかかってるみたいで……笑ってる男の人や、肩車してくれてる記憶はうっすらとあるのに、肝心の顔や、どんな人だったのかが、どうしても思い出せないの」
真白はそれを「母親が自分から記憶を奪った」のだと解釈しているようだった。
だが、片桐の視点から見れば、それは異常な事態だった。
その時期により、ダイバーの選出基準は全然違った。
だがそれでも、ダイバーに選出されたという事実は、ある程度の人間性を担保しているはずだ。
そんな人間に対して、周囲の大人の隠蔽工作が徹底しすぎている。
まるで何かを覆い隠すような、隔離するような、そんな不自然さを感じる。
とはいえ、今の片桐にとって重要なのは真白の家庭の事情ではない。
問題は、「遠野誠一」という手がかりだけでは、あまりにも情報が少なすぎるということだ。
(焦熱惨禍でのダイバーの被害者は二十人を超える。俺のチームに一人、あだ名で通していた男はいたが……)
片桐は記憶を辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「硬化の異能力を持つ男だった。スキンヘッドで、鍛え上げられた肉体を持ち、仲間を守り続けたことで皮膚が破れ、裂け、全身がまだら模様になっていた。そんな自分のことを『斑さん』と呼ばせる豪快な気質の男だったが……それが君の父親の可能性は?」
真白は片桐の問いを鼻で笑う。
「そんな人だったらもっと強く記憶に残ってるわよ。あたしの父親はそんなんじゃなかった。普通の人よ」
(そうなると)
と片桐は思案する。
知っている人物に遠野という男はいない。
顔も特徴も分からない他所の部隊の死者となると、今の情報だけでは探しようがない。
もちろん、六條に頼んでR.I.N.G.S.の当時の人事データや末端の記録を探らせれば、何かしらの裏は取れるかもしれない。
だが、その六條とは依然として連絡が取れない状態が続いている。
片桐は無表情のまま、煙草をもみ消す。
現時点において、この依頼は完全に手詰まりなのだ。
それを真白に悟らせるために、片桐は冷徹な「事実」を積み上げることにした。
「一つ聞くが」
片桐はポケットから新しい煙草を取り出しながら、真白を見た。
「君、アビスのことはどこまで知っている」
「……何も、知らないわ。焦熱っていうのも、アビスの中の何処かってことくらいしか……あたしに知りようがないじゃない」
真白が少しふてくされたように顔を背ける。
「だろうな。それなら、よく聞いてほしい」
片桐は火をつけず、煙草を指先でもてあそびながら語り始めた。
「アビスの階層は、便宜上、古い八大地獄になぞらえて五つの名で区切られている。スクレイパーたちがうろついている表層が『等活』。その下にある地下鉄跡が『黒縄』、そこからアビス本体へと続く道が『叫喚』。そしてアビス深層である第四層が、君が探してくれと言った『焦熱』だ」
「一番下は?」
「『無間』と呼ばれている。もっとも、それは単に『アビスの底』を指す呼称に過ぎない。実際にそこまで到達した人間はいないからな。事実上、人間が観測できている最下層が、焦熱だ」
真白は黙って聞いている。
片桐は続けた。
「アビスの内部は超微細粒子の干渉が強すぎて、電波や音波を使った地形探査が一切通用しない。ならどうして『五つの階層』を割り出せたと思う?」
「……知らない」
「反射法地震探査だ。地質調査と同じやり方だよ。アビスを巨大な共鳴管に見立てて、地面を強烈な重機や爆薬で叩き、その衝撃波を奥深くへ送り込む。その振動が奥でどう跳ね返り、どう屈折して返ってくるかを計測し続けたんだ」
「……そんなので、何が分かるの?」
「密度だよ」
片桐は手の中の潰れた煙草を灰皿に放り投げた。
「アビスのノイズは下へ行くほど濃く、沈殿したように層を作っている。衝撃波は、密度の違う層――つまり『見えない断層』にぶつかると速度が変わる。水の中から空気に音が伝わる時に速度が変わるのと同じ理屈だ。その波形の変調ポイントが五つあったから、五階層に区切られた」
いいか、と片桐は真白の目を真っ直ぐに射抜いた。
「ただ階段を四階分降りるのとはわけが違うんだ。中は迷路のようになっていて、階層をまたぐたびに環境も、湧き出る魔物の質も変わる。君の父親が死んだという焦熱は、最下層にほど近い深度だ。……そこがどういう場所か、少しは想像をしてみてほしい」
真白の顔色が微かに青ざめた。
だが、彼女の瞳に宿る反抗の光は、まだ消えてはいなかった。
手癖で駄目にしてしまった煙草を恨めしそうに見ながら、片桐はまた、新しい煙草を取り出して火をつけるのだった。




