第1話
片桐はいつもと変わらない日常に戻っていた。
大過、蛭子の痕跡を目撃してから数日が経過したが、六條からの連絡は未だになく、端末の画面を眺める片桐の表情には微かに影が落とされていた。
だが、そればかりに気を取られているわけにもいかない。
何でも屋としての日常は淡々と続き、日々の仕事は絶え間なく舞い込んでくる。
事務所のガレージ。
薄暗い空間に、ハンダゴテの焦げた匂いと微かなオゾン臭が漂う。
片桐は作業机に向かい、古びた真空管アンプの基盤を覗き込んでいた。
人と物が集まっていた巨大都市、東京。
その街が滅んで久しい今、当時そこにあった様々な「物」は意外な価値を持つ場合が多い。
とはいえ、アビスの瓦礫や魔物の体内から引き揚げられた品の大半は、ガラクタ同然に壊れ果てている。
そんなガラクタを再び動く状態へと蘇らせるのも、片桐の仕事の一つだった。
ピンセットで微細なコンデンサを抜き取り、新しい部品を慎重に半田付けする。
その指先の動きには、一分の狂いもない。
「……よし」
片桐が小さく呟き、アンプのカバーを閉じる。
何でも屋という看板を掲げている以上、こうした骨董品の修理も重要な収入源だ。
だが何より片桐にとって、これは悪くない時間だった。
血生臭い仕事から切り離された、物理現象と論理だけで解決できる世界。
そこには、アビスの恐怖や暴力が入り込む隙間がないからだ。
「片桐さん、戻りました」
ガレージの重い扉が開き、有坂が額に汗を浮かべて入ってきた。その手には、ずっしりと重そうな、古びた木箱が抱えられている。
「故買屋の店主さん、相変わらずいい仕事だって、なんだか悔しそうに報酬を渡してきましたよ。あとこれ、次の修理品預かってきました」
片桐はアンプから視線を上げ、有坂から木箱を受け取る。
「ご苦労様。あそこのオヤジは、昔から難癖をつけて報酬をケチろうとしてくるからな」
「なるほど」と、有坂は軽く笑う。
荒れ果てたゲートタウンの道路では、車両などろくに動かせない。
大抵の住人は、徒歩か自転車で時間をかけて移動するしかない。だからこそ、有坂の存在は片桐にとって予想外に有用なものとなっていた。
「ところで有坂くん。その脚は、使ってないな?」
片桐の探るような問いかけに、有坂の笑顔が少しだけぎこちなくなり、視線が泳いだ。
「……使って、ないですよ。いつも通りちゃんと、歩いてきましたから」
だが、実のところ有坂の返答は半分嘘だった。
彼はこの数日間、片桐の雑用をこなしながら、密かに街の地理を頭に叩き込んでいた。
路地のショートカット、崩落したビルの隙間、本来なら人が立ち入らない危険な高台のルート。
『目立つなよ』
六條や片桐から厳重に口止めされている通り、有坂は街中では普通の人間を装っている。
だが、人目がない路地裏や瓦礫の山では話が別だ。
周囲の気配を確認し、誰もいないと判断すれば、力を爆発させて建物の壁面を蹴り上がり、一気に高層階へと飛び移る。
それは以前、徘徊者の群れから逃げ惑った時に見せた荒々しい動きとは異なり、無駄を削ぎ落とした静かな跳躍へと変化しつつあった。
(もっと速く。もっと上手に……)
有坂は街を移動するたび、常に意識していた。
あの日見た、蛭子に吐き出された粘液まみれの装備品の山。
再びこの街に危機が迫った時、自分の脚がどれだけの人を救えるのか。
片桐の言葉を借りれば、「距離感を見誤らない」ことこそが命綱だ。
だからこそ有坂は誰にも言わず、人気のない廃墟で、壁から壁へと飛び移る感覚を反復し続けていた。
重力に逆らい、一瞬でゼロから最高速へ達する感覚。
そのすべてを、「配達」という皮を被せて密かに磨き上げている。
片桐はそんな有坂の細かな変化や嘘に気づきながらも、あえて言葉にはしなかった。
成長しようと前を向いている人間を、正論で縛り付けて押さえ込むのは時に悪手となるからだ。
「これは棚に。次は、その懐中時計を持っていってもらえるかな」
「わかりました。じゃあまた、行ってきますね」
訓練を兼ねている有坂にとって、何度も街を往復する手間はむしろ有難いものだった。
有坂が木箱を棚に置き、懐中時計に手を伸ばした。
その時。
事務所の扉が乱暴に叩かれる音がした。
「——やっほう、来たわよ」
挨拶もそこそこに、派手に扉が開く。
そこに立っていたのは、遠野真白だった。
教団の巫女としての神秘的な気配は鳴りを潜め、いつものようにどこか抜けたような、あどけない表情を浮かべている。
「ほら、前に依頼したいことがあるって言ったでしょ」
彼女は片桐の返事など待たず、事務所の片隅にあるソファにドサリと腰を下ろした。
有坂が驚いて顔を向けると、真白は少し思い詰めたような真っ直ぐな瞳で片桐を見つめていた。
片桐は作業の手を止め、ハンダゴテを台に置く。
「依頼はいいが、こんな昼間からここに来て平気なのか?」
片桐の問いかけを、真白は鼻で笑って流した。
「大丈夫よ。あの夜のことはもう終わったの。あれからしばらくは警戒してたけど、結局何もなかったわ」
彼女は一呼吸置き、静かに言葉を紡ぐ。
「あのね、あんたにあたしの父さんを探してほしいの」
片桐は無表情のまま、その言葉を受け止めた。
「どこを探せばいい」
当然、人探し自体は請け負っている。
だが、単純に街中で迷子を探すような話ではないことは、真白の纏う空気を見れば嫌でも分かった。
「あたしもね、詳しくはわからないんだけど……なんて言ったっけ」
片桐の脳裏に、嫌な予感がよぎる。
「えーっと、あ、そうそう。……焦熱、だったかな」
頭痛がしそうだった。
とんでもない貧乏くじを持ってきたものだ、と片桐は内心で深くため息をつきながら、忌々しいその地名を頭の中で反芻した。




