凪 最終話
ブン、と片桐の胸元で短い振動音が鳴った。
アビスの深部に向かうにつれて通信状況は悪化するが、この表層付近であれば、不安定ながらも電波は届いている。
片桐は懐から携帯端末を取り出した。
(……六條か?)
しかし画面を見た片桐は微かに目を細め、小さく息を吐いた。
「……ジョン・ドウか」
「ジョン・ドウ?」
聞き慣れない名前に、有坂が首を傾げる。
「ああ……当然、偽名だがな。ほら、君の戸籍を改ざんして死んだことにした男だ」
片桐は端末の画面をスクロールさせながら、淡々と語る。
「あいつは元々、ファイブリングスの一角、『雷然ホールディングス』のリース部門にいた男だ。スクレイパーたちに法外な金利で武器や防具を貸し出している連中の元締めの一人だった」
等活を漁るスクレイパーたちの多くは、自前で高価な装備を揃える余裕がない。
そのため、ライゼンのような大企業から装備をレンタルし、命を懸けて持ち帰った物資の利益から莫大なレンタル費用と利子を差し引かれるという、終わりのない搾取構造のなかに組み込まれている。
「だが、あいつは途中でそのシステムに愛想を尽かして裏に回った。今は『デジタルの葬儀屋』を気取っている」
「葬儀屋、ですか……?」
「ああ」
片桐は視線を端末から外し、ドロドロに溶けたプロテクターの山へと向けた。
「スクレイパーがアビスで死ねば、当然装備は未返却となり、莫大な違約金と残債が発生する。企業はその借金を残された遺族や保証人に容赦なく請求する。……あいつは企業側のホストコンピューターに潜り込み、死んだスクレイパーの契約内容をこっそり書き換え、データの帳尻を合わせて借金を『消去』してるんだ」
有坂はハッと息を呑んだ。
法外なシステムに組み込まれ、死んだ後にまで骨の髄までしゃぶり尽くそうとする巨大企業。
その魔の手から、残された者を守るための暗躍。
それは確かに、死者の尊厳と遺族の生活を守る「葬儀屋」の仕事であった。
「で、そのジョン・ドウさんから、何の連絡が……?」
「『最近、行方不明者が多すぎる』とさ」
片桐は端末を操作し、メールの文面を読み上げる。
「『ライゼンリースから装備品を借りた連中が、何人もまとまって行方不明になっている。死んだ形跡も確認できず、誰からも報告がない。ただシステム上で未返却のログだけが異常なペースで積み上がっている。何か知らないか』……だそうだ」
そのメールの内容と、いま自分たちが立っている場所の状況。
二つの事実が、有坂の頭の中で最悪の形で結びついた。
「……それって、つまり」
有坂が震える声で呟くと、片桐は無言のまましゃがみ込んだ。
粘液まみれのゴミの山の中から、比較的原形を留めている胸部プロテクターの破片を拾い上げる。その表面には辛うじて読み取れる古い文字で『ライゼン』の企業ロゴと、リース品を管理するためのバーコードのような認識番号が刻印されていた。
片桐は端末のカメラを起動し、そのシリアル部分にピントを合わせてシャッターを切った。
無機質な電子音が鳴る。
「あいつへの返信はこれで十分だろう。これだけあれば、あいつもシステム上で誰が死んだのか特定できるはずだ」
片桐は撮影した画像をメールに添付し、テキストを打ち込んでいく。
有坂の目には、その画面の文字が冷酷なほどハッキリと見えた。
『探している連中は恐らく蛭子の餌食になった。人知れず殺された彼らの痕跡は、同じスクレイパーどもの小遣い稼ぎに消費されている。あとは、任せる。』
送信ボタンが押され、一瞬のタイムラグの後に「送信完了」の文字が表示される。
「……これで、何人かの家族は助けられたというわけですか」
「どうだろうな。ゲートタウンの外から来た連中ならこれで終わりだが、街の中に家族がいるのなら、借金がなくなったところでつらい現実は変わらない」
片桐は立ち上がり、汚れた手をズボンで適当に拭った。
「さて、そうなると問題は――」
片桐は端末の画面を切り替え、着信履歴とメッセージアプリの画面を表示させた。
そこには、依然として新しい通知は一つもない。
「……六條からは、何の連絡もないな」
片桐は微かに眉をひそめた。
六條がこれほど長く、こちらからの連絡を無視するのは珍しい。
いくらアビスに潜ることを生業とするダイバーとはいえ、今の六條にメールを読む時間すらないとは思えない。
蛭子が表層まで上がってきているという事実は、もはや疑いようがない。
だが、その存在を確定させる為に必要な情報を持つ六條と連絡が取れないのは、ゲートタウンに住む者にとっての死活問題になり得る。
「……少し、嫌な予感がするな」
片桐は独り言のように呟くと、通話アプリを開き、六條の番号を直接タップした。
端末を耳に当てる。
有坂も固唾を飲んで、片桐の表情を見つめた。
薄暗い廃墟のなか、片桐の持つ端末から漏れ聞こえてくるのは、規則的で無機質なコール音だけだった。
『プルルルル……、プルルルル……』
十秒、二十秒と時間が経過していく。
しかし、電話の向こうからは誰も応える気配がない。
周囲の空気に混じる赤ピンク色の超微細粒子が、ゆっくりとその濃度を増し始めているような気がする。
『プルルルル……、プルルルル……』
永遠に続くかと思われたコール音が、廃墟の静寂の中で不気味に反響し続ける。
片桐はゆっくりと端末を耳から離し、通話終了の赤いボタンをタップした。
「……出ないな」
その理由は分からない。
今はただ、その事実だけを受け入れることしかできないのであった。




