第8話
神経伝達を断たれた徘徊者たちは、錆びた鉄屑と腐肉の塊へと戻り、二階の縁や下の瓦礫に無惨に散らばっている。
一方的な解体作業が終わった時も、有坂は床に膝をついたまま、乱れた呼吸を整えている最中だった。
どれだけ肉体が強化されていたとしても、極限の死のプレッシャーから解放された反動は大きい。
全身が微かに震え、泥と冷や汗に塗れた顔を上げるだけでも一苦労だった。
目の前に広がるのは、自分を殺そうとしてきた群れが、瞬きする間にただの骸へと変わった光景。
それを成し遂げた片桐は、息一つ乱すことなく、再び懐から煙草を取り出して火をつけた。
(……同じ人間だとは思えない)
それは徘徊者をいとも容易く倒したことだけではなく、人の形を残すものに躊躇なく刃を立てられることもそうだった。
自分と彼との間に横たわる、埋められそうにない圧倒的な意識の差。
それを痛感させられながら、有坂はどうにか震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
「動けるようになったら、降りよう」
煙草があるからだろうか、片桐は特に急ぐ様子もない。
「大丈夫です。いけますよ」
その様子に僅かな対抗心を覚えながら、有坂はよろよろと歩き出す。
(とはいえ、ここを降りるのは一苦労だ)
有坂がそう思いながら登ってきた瓦礫の方へ向かおうとすると、片桐から「そっちじゃない」と手招きされた。
何のことはない。
有坂が気付いていなかっただけで、片桐が立っていた奥には十分に形を留めた階段があった。
「言ってくれれば、よかったのに」
階段の存在を知っていたら、こんなに苦労する必要はなかった。
だが片桐は片方の眉を上げながらとぼけたように言った。
「常に誰かが道を示してくれるわけではないからな」と。
「……さっきの話の続きだが」
二階から元の崩落跡――地下鉄の入り口へと戻ると、再びあの強烈な悪臭が有坂の鼻腔を殴りつけた。
腐ったような、それでいてひどく甘ったるい、ノイズの芳香が濃縮された酷い匂い。
ドロドロの半透明の粘液にまみれた空間には、古びたジャケットや使い古されたプロテクターなどの無機物だけが、無惨に吐き出され散乱している。
「徘徊者は単純だ。物理的に人間を破壊して終わる。だが、第一世代の魔物、大過達は少し違う」
片桐は粘液の溜まり場の縁に立ち、ブーツの先で溶け残ったプロテクターの欠片を小突いた。
「この痕跡は蛭子、と呼ばれる魔物のものだ。奴は巨大な粘体の化け物で、人や動物を呑み込み自分の身体を肥大化させる。そして、消化できないプラスチックや金属部品なんかは、こうして吐き出されるんだ」
その言葉の生々しさに、有坂は胃液がせり上がってくるのを感じた。
目の前にあるこのゴミの山は、つい先日まで生きて、息をして、ゲートタウンの酒場で酒を飲んでいたスクレイパーたちの成れの果てなのだ。
肉体も、骨も、彼らが存在したという証拠が全て、この甘ったるい粘液を持つ本体に完全に取り込まれてしまった。
「いずれ奴は街へ来る。その時、君がさっきのように足をすくませ動きが遅れれば、この吐き出されたゴミの山に、君や、シン、真白の着ている服が混ざることになる」
片桐の冷徹な声が、薄暗い廃墟に響く。
「直接戦えないならそれでもいい。ただし、せっかくの脚があるんだから、それを最大限、有意義に使ってくれ。距離感を見誤らず、敵を引きつけてくれれば、それだけで大勢の人間を助けることができる」
有坂は青ざめた顔で、何も言わずにただ無言で頷くことしかできなかった。
行き場を失い、ゲートタウンで生きていくしか道はなく、早々に片桐の事務所に転がり込めたのは良かったが、まさかこんなにも早くにアビスの脅威という巨大な問題に直面するなど思いもしなかった。
実地テストという名目で徘徊者の群れに放り込まれた理不尽さに対する怒りは、すでに完全に霧散していた。
分かってはいた。
片桐が単純な嫌がらせで有坂を試したのではないことを。
片桐は「アビスで生き残るためのルール」を、これ以上ないほど強烈な実体験として有坂の身体に刻み込もうとしたのだ。




