第7話
「む、無理です!」
悲壮な叫びが、崩落した駅ビルに虚しく響き渡る。
日常から一気に非日常へ。
その急激な変化についていけるほど、有坂はまだ場数を踏んでいなかった。
――ほんの数十秒前。
片桐に言われ、有坂が一歩を踏み出し、瓦礫の陰に立つ一体の魔物へ近づこうとした、その時だった。
ひび割れた不快な摩擦音が、廃墟の奥から連鎖的に鳴り始めた。
崩壊した壁の奥、大過の残した濃密な気配に引き寄せられるようにして、暗がりから次々と魔物が這い出してきたのだ。
錆びた鉄筋を背骨のように突き出させたものや、ひしゃげた看板と肉体が癒着した個体。
当初は一体かと思われていた徘徊者の数は、瞬く間に五体、六体と膨れ上がっていく。
「片桐さんッ!」
有坂がすがるように振り返ると、そこにいるはずの片桐の姿がなかった。
視線を巡らせると、片桐はいつの間にか、崩落したエスカレーターの残骸と剥き出しの鉄骨を登らなければ辿り着けない、駅ビルの二階部分の縁に移動していた。
手すりに寄りかかり、見下ろしてくる片桐の姿に、有坂は彼が意図的にこの足場の悪い地形を選んだのだと悟る。
『俺のところまで連れてくるのが、君の役割だ』
先ほどの指示が脳裏に蘇る。
あの意地悪な高台まで、この群れを引き連れて登れというのだ。
(や、やってやる)
そう意気込んだのも束の間、最も近くにいた個体が鈍い音を立てて腕を振り回した瞬間、有坂の決意はいとも容易くへし折られた。
風を切る重い音。
(……まともに当たったら、頭が砕ける)
ただの腕ではない。
コンクリートの塊やひしゃげた鉄筋を絡め取ったその部位は凶器そのものであった。
考えるよりも先に身体が動いた。
有坂は慌てて一気に距離を取り、その脚力で手近な瓦礫の上へとあっという間に逃げ登ってしまった。
途端に、標的を見失った徘徊者達は有坂に興味を失ったかのように、再びウロウロと無秩序に歩き出し、散開していく。
「有坂くん、のんびりしているともっと集まってくるぞ」
頭上から聞こえた声を見上げると、片桐は二階の縁で呑気に煙草を取り出し、火をつけていた。
赤ピンク色の超微細粒子が薄く漂う空間に、紫煙がゆっくりと立ち昇っていく。
泥に塗れ、心臓を早鐘のように打たせている有坂とは対照的な、圧倒的なまでの余裕。
そんな片桐に不満を言っている暇は、有坂にはなかった。
瓦礫の上から見渡す限り、崩れたビルの奥には確かにまだ何体もの徘徊者の影が蠢いている。
奴らが全て集まってしまえば、状況は今よりももっと絶望的なものになってしまう。
奥歯を強く噛み締める。
恐怖で震える太ももを、己の両手で一度だけ強く叩いた。
(行きますよ。行けば、いいんでしょ!)
ヤケクソ気味に内心で毒づき、有坂は意を決して瓦礫から跳び降り、再び徘徊者の中心へと身を晒した。
着地の音に反応し、最も近くにいた個体がヨタヨタと向き直る。
次の瞬間。
片桐の忠告通り、鈍重な動きをしていた魔物が、予想よりもずっと速く、錆びた鉄を纏った腕を脳天へと振り下ろしてきた。
有坂は爆発的な脚力で、地を蹴った。
迫る腕を紙一重のサイドステップで躱し、そのまま倒れた太い柱に足をかけて三角跳びの要領で方向を転換する。
「ハァッ、ハァッ……!」
一度でも当たれば殺される。
異能力によって強化された身体能力とは裏腹に、有坂の精神には確かなプレッシャーが重くのしかかっていた。
このまま一気に距離を引き離し、安全圏へ逃げ込むのは簡単だ。
しかし、ただ逃げるだけでは、先ほどのように歩みの鈍い魔物たちは追跡を諦め、再び散らばってしまう。
有坂は恐怖を押し殺し、わざと速度を緩めて足を止めた。
背後に迫る魔物が凶器を振り上げるのをギリギリまで引き付け、再び地を蹴って躱す。
だが、群れは一体だけではない。
着地の隙を狙うように、看板と癒着した別の個体が横から無言で突進してくる。
有坂は咄嗟に身を捻ってその突進をやり過ごすが、今度は退路を塞ぐように、三体目が錆びた鉄筋まみれの腕を振り下ろしてきた。
前後左右から迫る質量と、金属が軋む不快な摩擦音。
逃げ道を塞がれそうになるたびに、有坂は障害物を蹴って強引に包囲を抜け出し、また足を止めて魔物の注意を引く。
逃げては立ち止まり、引き付けては障害物を越える。
それは死と隣り合わせの、息の詰まるような時間だった。
平面での立ち回りを終え、いよいよ二階へと続くひしゃげた鉄骨に取り付く。
恐怖に駆られる本能は、一気に上まで駆け上がれと叫んでいた。だが、ここで自分だけが登り切ってしまえば、動きの鈍い奴らは追跡を諦めてしまう。
額から流れる冷や汗が目に入りながらも、有坂は這々の体で登る速度をわざと緩めた。
真下から、不快な音を立てて這い上がってくる魔物の群れ。
足首の数センチ下を、錆びた鉄筋となった指先が掠める。
掴まれれば、そのまま群れの底へと引きずり降ろされる。
極限の恐怖に耐え、ギリギリまで引き付けては登り、また引き付ける。
そうして地獄のような数十秒を耐え抜き、ついに有坂は片桐の立つ二階の縁へと飛び込んだ。
「ハァ、ハァ……! 連れて、きました……ッ!」
床に膝をつき、泥だらけになって肩で息をする有坂。
その後ろからは、完全に有坂を標的と認識した徘徊者の群れが、不気味な音を立てながら鉄骨をよじ登ってきている。
「よくやった」
片桐は咥えていた煙草を足元で揉み消すと、短く告げた。
両手に抜いた短剣を下げたまま、有坂とすれ違うようにして前へ出る。
そこからの光景は、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的で、静かなものだった。
片桐は一切の無駄な動きを見せなかった。
先頭の魔物が腕を振り下ろすより早く、その懐へと滑り込む。
狙うのは、強固な無機物の外皮ではない。
徘徊者を動かしている、首筋から露出した古い神経の束だ。
一閃。
無駄に金属に触れることなく、片桐の刃は正確に神経を両断する。
直後、魔物は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
その後も片桐の歩みは止まらない。
二体目の横をすり抜けざまに首筋を薙ぎ、三体目の突きを最小限の首の動きで躱しながら、その喉元へ刃を滑り込ませる。
そこには一切の派手さはない。
ただただ静かに、正確に、魔物の「命」を奪っていく。
有坂を死に物狂いにさせた恐怖の群れが、片桐にとっては単純作業のように味気ないものだった。
ものの十数秒。
最後の魔物が物言わぬ残骸へと変わると、片桐は刀身の汚れを払うように短剣を軽く振り、静かに鞘へと収めた。




