第6話
定食屋『徳』を出た二人は、いったん事務所に戻り装備を整えた。
とはいえ、片桐は2本の短剣を腰に差すだけであったし、有坂に至っては何の用意もしていないために、理由もわからぬまま動きやすい服装に着替えるくらいのことしかできなかった。
ゲートタウンの境界を越え、アビスの表層である『等活』へと足を踏み入れる。
かつての都市の残骸が折り重なる無人地帯。
その道中、片桐は何度か足を止め、一見すると何の変哲もない瓦礫や路地を静かに観察していた。
「どうかしたんですか?」
そんな有坂からの問いに、片桐は曖昧に返事を返して歩き出す。
有坂からはただの風化や崩落にしか見えないコンクリートの断面。
だが片桐は、そこに何か別の意味を見つけようとしているかのようだった。
加えて、僅かな風の違いを嗅ぎ分けるように、片桐は何度か進路を変える。
「有坂くん、君はこの臭い、どう思う?」
アビスから漂う超微細粒子の金木犀に似た芳香。
「あ、えっと……僕は結構、好きな匂いですよ?」
そう答える有坂に、片桐は口の片方だけを上げて笑う。
有坂には気づけない、その臭いに紛れて風下から僅かに届く、腐ったような甘ったるい異臭の痕跡を辿り、やがて二人は、旧新宿を丸ごと呑み込んだ巨大なクレーターの縁に辿り着いた。
酒場『ラスト・オーダー』のある丘からはただの広大な陥没穴にしか見えなかったが、こうして縁から底を覗き込むと、そのおぞましい正体の一端が目視できた。
深く抉られた虚空の底で、かつての都市の残骸を呑み込んだ巨大な肉塊が、薄暗がりの中で臓器のように鈍く蠢いているのが僅かに見て取れる。
あれが、アビスの本体だ。
先ほどから、周囲の空気に赤ピンク色の微粒子が薄っすらと混じり始めている。
アビスから絶えず噴き出し続ける超微細粒子、通称『ノイズ』だ。
片桐が無造作に懐から取り出した携帯端末の画面には細かな砂嵐が走り、電波状況の悪化を示していた。
兵器の照準や通信を狂わせるこの不気味な霧は、アビスの深部へ近づくほどにその濃さを増していく。
そのためにヘリを使った直接降下や、近代兵器による直接攻撃は尽く失敗してきた過去がある。
底知れぬ圧迫感に有坂が息を呑んでいると、前を歩いていた片桐が、クレーターの縁に建つ駅ビルらしき巨大な廃墟の前で立ち止まった。
その一階部分、地下鉄への入り口と隣接する分厚いコンクリートの壁が、まるで巨大な力で内側から押し破られたように崩落していた。
「……ここか」
片桐が短く呟く。
崩れた壁の向こう側から、鼻を突く強烈な異臭が漂ってきた。
腐ったような、それでいてひどく甘ったるい悪臭。
崩落跡の奥、ドロドロの粘液にまみれた空間には、古びたジャケットや使い古されたプロテクターなど、スクレイパーたちの衣服や装備品だけが無惨に吐き出され、散乱していた。
有坂は思わず口元を覆い、顔をしかめた。
「……さっき君が、好きだと言っていた匂いだ」
惨状に言葉を失う有坂を振り返り、片桐が淡々とした口調で言う。
「空気中に漂うノイズの匂いも、こうして濃縮されればただの悪臭になる。どちらも、出所は同じアビスだからな」
「あれ……でもこの匂い、どこかで……」
声を震わせながら有坂は、ふと、その匂いに強烈な既視感を覚えた。
記憶の糸が手繰り寄せられる。
以前、片桐から漂ってきた匂いだ。
シンが「臭い」と無邪気に笑い、有坂自身も同調してしまったあの時。
あの時片桐が纏っていた匂いの正体は、この悍ましい痕跡そのものだったのだ。
その事実に気づき、有坂の背筋に冷たい汗が流れた。
「これは大過――蛭子の痕跡だ」
片桐は遺品を一瞥し、静かな声で告げた。
「ここを通って地表まで這い上がり、スクレイパーを呑み込んでまた、地下へ戻ったんだろう。こういった、地上と地下を行き来する移動経路は他にもあるのかもしれないな」
人間を呑み込み、こうして不要な無機物だけを粘液と共に吐き出し、己の身体を肥大化させていく。
それが、アビス発生と同時に顕現した第一世代の魔物、大過――蛭子の生態だった。
「有坂くん」
振り返った片桐が平坦な声で続ける。
「今日君をここに連れてきたのは、いずれはこの魔物と対峙しなければならない時が来るからだ。こいつは近いうちに必ず、ゲートタウンまでやってくる。俺一人では守り切ることはできない。君も、君自身の身を守りながら誰かを助けられるようになっておいてほしいんだ」
その言葉の直後、ビルの瓦礫の奥から、金属が擦れるような鈍い足音が響いた。
現れたのは、鉄屑やコンクリートと融合した人型の魔物。
内部には乾いた筋繊維と変色した脊椎が残存し、神経伝達によって駆動する動く死体――徘徊者だった。
「ちょうどいい」
片桐はそう言うと歩き出した。
「あいつを、俺のところまで連れてくるのが、君の役割だ」
魔物を指さし、片桐は有坂に指示を出した。
「倒す必要はない。適度な距離を保って、あいつの注意を引きながら、俺のところまで誘導してくれ」
徘徊者のうつろな眼窩が有坂を捉え、ギグッ、と不快な音を立てて身じろぎする。
「あいつらは動きが鈍いから、逃げすぎれば追ってくるのをやめる。逆に近づきすぎると瞬間的な素早さで捕まることになる。捕まれば、終わりだ。だから君のその脚で、付かず離れずの距離をとるんだ」
それは、今後の戦いにおいて有坂に求められる役割を叩き込むための、文字通りの実地テストだった。
生々しい悪臭が立ち込める廃墟の前で、有坂は突然のことに身を固くし、息をすることさえ忘れていた。




