第5話
真白たちと別れ、定食屋『徳』の引き戸を開けると、胃袋を猛烈に刺激する油の匂いと、大勢の客の喧騒が押し寄せてきた。
店内には客が溢れていた。
長靴を泥だらけにしたスクレイパーたち、昼間から安い酒を煽る労働者、そしてインフラ整備を終えた弥生の理の一団。
パイプ椅子とプラスチックのテーブルが並ぶ雑多な空間の奥で、店主のトクさんが黙々と中華鍋を振るっている。
「トクさーん、飯まだかよぉ」
常連の間の抜けた声に、トクさんは背中越しに「うるせぇ、大人しく待ってろ!」と怒鳴りつける。
そんなシーンもここでは日常茶飯事だ。
口調こそ荒いが、遅くなった分ドンと出された皿には少しばかり具材がおまけされており、客もそれを分かっているのかニヤニヤと笑って飯をかっ込み始めた。
片桐は空いたカウンターに腰を下ろし、肉野菜炒め定食を注文し、有坂に促す。
有坂は隣に座り、出された冷たい水で喉を潤すと慌てて店内を見渡し、結局片桐と同じものを頼んだ。
一息ついたトクさんが、有坂の顔を見て声をかける。
「お、あの時の。元気でやってるか?」
「はい。片桐さんのところで、正式にお世話になることになりました」
有坂が報告すると、トクさんはニカッと笑った。
頭の中では冴木から聞かされた片桐の過去や、先ほど見たシンの生き様が渦巻いていたが、目の前に湯気を立てて運ばれてきた山盛りの定食を前にすると、そんな思考も一時的に隅へと追いやられた。
「ほら、就職祝いだ」
有坂の定食の白米は大盛りにされていた。
「いっぱい食っとかねぇと、片桐のところでやっていけねぇぞ」
トクさんはそう言って高らかに笑うと次の客の料理を作り始めた。
人生の迷いや憂いも、本能的な空腹には勝てはしない。
有坂は箸を割り、黙々と飯を口に運んだ。
その時、片桐の携帯端末が短く震えた。
それは見知った故買屋の店主からの着信だった。
片桐が耳に当てると、電話越しの店主が忌々しそうにこぼす。
「よう、片桐。ちょっと聞きたいんだがよ、最近等活に変わりはねぇか?」
「……どうして?」
「いやな、このところ持ち込まれる品の質が変わってきてんだよ。前は古い電子機器やら宝飾品やらがメインだったんだがよ、ここ数日、どこかの誰かのお下がりみたいな、個人の持ち物ばっかり持ち込まれるんだ。安っぽい時計とか、使い古した財布とかな。しかも、どれもこれも……なんか臭うんだよ」
「……どんな匂いだ」
「どんなって言われてもな……なんつうかこう、腐ったような、甘ったるいような、そんな悪臭だ。お前、よく行ってんだろ?何か知らねぇか?」
片桐の脳裏で、半ば確信に近い推測が組み上がる。
大過――蛭子の匂いが染み付いた個人の持ち物。
だがそれが蛭子に捕食され、衣服や装備品だけが吐き出された跡だということを知るスクレイパーはいない。
彼らはむしろ小物を拾えて運がよかった、とすら思っているだろう。
目の前の小銭目当てに遺品を漁る。
だが、身元が割れるものを持ち帰れば、面倒なことになると考え、身分証などには一切触れず、金目のものだけをかすめ取っていく。
スクレイパー達の想像力の欠如と浅はかな保身が、結果として「大過の痕跡」を隠滅し、ただの「行方不明者」として認識させる手助けをしてしまっている。
彼らは無自覚なまま、アビスで進行する異常事態から街の人々の目を逸らさせてしまっているのだ。
「……いや、何も知らないな。だが、よくあることだ」
片桐は周囲に聞かれないよう声を潜め、感情を交えずに言った。
「魔物を殺すのが下手な奴は無駄に体液を流させる。どうせ、買い取ってはいないんだろ?」
「気にしなくていい」と通話を切り、片桐が再び箸を持とうとした時、後ろのテーブルで管を巻いているスクレイパーたちの会話がふと耳を打った。
「……なあ、『穴』の向こう側、行ったか?」
酒焼けした声の男が、声を潜めるようにして相棒に語りかけている。
「穴の向こう側」というのはこの街から見えるアビスを挟んだ対岸、ということなのだろう。
「行ってねえよ。あの辺りは最近、変な噂が多いだろうが」
「俺、一昨日あそこから帰ってきたんだけどよ、途中の建物の壁が酷く崩れてたんだ。それだけじゃねぇ、周りになんかベタベタするのがついてて、おまけに……ひどく甘ったるい臭いがしたんだ。でな、その奥から足音じゃない、ズルズルと這いずるような音が聞こえてきてよ。気味が悪くてすぐに逃げてきたぜ」
「おいおい、冗談だろ。……いや、そういやそっちの方に行ったマツモト達、まだ戻ってきてないな……」
有坂もスクレイパー達の会話に耳を傾けていると、隣に座っていた片桐が静かに箸を置いた。
事務所の外から聞こえた噂、古買屋からの電話、そして今後ろで語られた崩壊跡と失踪。
独立していた不穏な情報が、時間が経つごとに一つの線に繋がっていく。
大過の痕跡が、明確な形を成そうとしている。
片桐は懐から紙幣を取り出し、伝票と共に無造作にカウンターに置いた。
「……食べ終わったら行こう」
片桐の冷たく、温度のない声に、有坂は慌てて残りの白米を飲み込み、立ち上がる。
「トクさん、ご馳走様」
片桐は席を立つと、振り返らずに店外へ向かって歩き出す。
「でも片桐さん、どこに……?」
有坂の問いに、片桐は重い引き戸に手をかけながら、短く答えた。
「等活だ」
確認しなければならないことがある。
それは大過の現状であり、有坂の現状でもあった。




