第16話
片桐は荒い息を吐き出しながら、ゆっくりと立ち上がる。
アドレナリンが引き始め、オオサキに肉を抉られた脇腹と背中の傷が、焼けるような激痛を主張し始めた。
コートの裏地はすでに赤黒く濡れそぼっている。
だが、立ち止まっている猶予はない。
片桐は壁際に寝かせていた日和の小さな身体を再び抱え上げると、血の匂いが漂う暗がりから無言で立ち去った。
ゲートタウンの一画。
不法増築が繰り返され、陽の光すら届かない九龍城じみたビル群の最下層。
湿気とカビ、そして得体の知れない薬品の匂いが入り混じる路地裏の突き当たりに、その地下クリニックはあった。
「……珍しく派手にやられたわね、宗介」
錆びた鉄扉を押し開けて転がり込んだ片桐を見るなり、白衣姿の冴木理香は、咥えていた細い煙草を灰皿に押し付けた。
「その子はベッドに寝かせて。あんた……はそこらへんの椅子にでも座ってなさい」
彼女は手早く医療用手袋を嵌めると、まずは片桐が降ろした日和のバイタルを確認し始めた。
「この子は……単なる気絶に思えるけど……これ、何?」
冴木が視線を向けたのは、日和の口元から全身にかけて付着した赤黒い液体だった。
「魔物の血だ」
片桐が短く答えると、冴木は微かに顔をしかめ、ピンセットで摘んだ滅菌ガーゼで即座に口元の汚れを拭き取った。
「食べた、ってこと?」
片桐が無言で頷く。
「困ったわね。吐き出させたいけど、これだけ衰弱してるとそれすらも危険だわ」
冴木は迷いなく点滴スタンドを寄せると、棚から二室に分かれた輸液バッグを取り出した。
仕切られた境界を両手で強く押し込み、隔壁を破って抗生剤と栄養剤を混合させると、手慣れた動作で日和の細い腕に針を穿刺した。
「で、あんたは?」
日和の容態を落ち着かせた冴木が、振り返って片桐を射抜く。
「脇腹と、背中」
「……なのにどうして脱がないの」
呆れたように息を吐く冴木の前で、片桐は血塗れのコートを脱ぎ捨て、シャツを捲り上げた。
「これも……何?」
「指の跡、だな」
「指……って、随分と深く抉られてるわね。……麻酔、いる?」
「いや、そのままやってくれ」
冴木はそれ以上何も聞かず、傷口の消毒を終えると、医療用の針と糸で肉を縫い合わせにかかる。
太い針が生身の肉を貫き、糸が引きつる。
片桐は短く息を吐き出し、額に滲む汗を拭うだけで、その激痛を静かに受け入れた。
「……はい、終わったわよ」
ハサミで糸を切る乾いた音が響く。
「こんな傷も、優子なら、あっという間に治せたんだろうけどね」
「……そうだな」
痛みを散らすように短く答えた片桐に、冴木は血のついた手袋をゴミ箱へ捨てながら背を向ける。
「あんた、またロクでもないことに首を突っ込んだんでしょ。……深く聞くつもりはないけど、成り行きついでに死なないように気をつけなさいよ」
片桐は「ああ」とだけ返し、痛む脇腹を押さえながらスマートフォンを取り出した。
冴木はそれを見届けると、日和の点滴の様子を確認しにベッドへ戻る。
コール音は三回で途切れた。
『……どうした?』
電話の主――六條の声は、深夜にも関わらずいつもと何ら変わりのないものだった。
「悪いな、こんな時間に。上川、まだ『弥生の理』にいるんだろ?」
『ああ、今では教団のお偉いさんだ。……急にどうした? あいつに何か用か?』
「上川の力を借りたい。だがずっと連絡を取ってなくてな」
片桐は自ら過去との繋がりを絶ち、ゲートタウンに引きこもっている。
その彼が信条を破ってまで元同期の力を借りようとしていることに、スピーカー越しの六條が小さく息を吐いた。
『……何があった?』
「弥生の理が儀式と称して、少女に魔物を喰わせてた。俺は教団内部の女の依頼で、『巫女』と呼ばれるその少女を奪還したわけだが……」
『それを上川に引き渡したい、と?』
「ああ」
『だが、そいつらはもう宗教の看板を掲げているだけの犯罪組織だぞ。娯楽を邪魔され、面子を潰された連中は、血眼になってお前とその子を探す』
「わかってる。だから上川に預けたいんだ」
『預けてどうなる。こんな事言いたくはないが、あいつは心を壊してダイバーを辞めた男だぞ。上川の懐に置いたところで、その子が安泰だとは思えん』
「いや、信仰を捨て、金の為に教団を利用するような連中の手が、幹部の懐まで届くことはない」
一瞬の沈黙。六條が、片桐の意図を推し量るための間だった。
「今回の儀式は一部の過激派の暴走だ。ゲートタウンの外にいる上川にとってみれば、この巫女は異端どもを粛清するための確たる証拠になる。幹部が動いて黒幕を処分してしまえば、あとは公にしたくない教団自身が俺のことも、教団員の死のことも全力で隠蔽する」
電話越しの六條が、小さく鼻を鳴らす音がした。
『……お前、誰を殺した』
「教団の実行部隊だ。オオサキと名乗っていた。聞いたことは?」
『いや、ないが……気にするほどの相手か?』
六條の問いに片桐は短く否定し、続きを促す。
『それに、上川に預けるにしても、あいつがどこまで動いてくれるかは分からないぞ。俺も頻繁に連絡を取ってるわけじゃないからな』
「一時とはいえ、俺たちと同じ釜の飯を食った男だ。やってくれるさ。……頼めるか」
『……わかった。連絡する。目処がついたら知らせるから、それまではどこか安全な場所に隠してろ。……それくらいはできるだろう?』
六條の短い挑発を最後に、通話が途切れた。
片桐がスマートフォンをポケットにしまうと、冴木がいつの間にか教団の白装束を脱がした日和の身体を拭き、毛布でくるみ終えていた。
「終わったなら、とっとと出ていきなさいよ。私のクリニックじゃあ争いごとはご法度なのに、あんたがいたら血の雨が降りそうだわ」
「恩に着る、理香」
「この子は置いていきなさい。それから治療費はツケにしておくわ。……いつものようにね」
冴木は再び細い煙草を取り出し、火を点けた。
片桐は静かに立ち上がると、地下クリニックの重い鉄扉を開けた。




