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REPAIR  作者: 明星
巫女
43/50

第15話

混乱に包まれた一階のフロアを背に、片桐は暗がりを駆け抜けた。

気を失った日和ひよりの身体は、予想できる年齢を考えるとずっと軽い。

女が事前に手引きしていたこともあり、今もバックヤードに警備の姿はない。

片桐は一分足らずで、搬入用の薄暗い従業員出入り口へと辿り着いた。

重厚な鉄扉のロックを解除し、外へと押し開ける。

冷たい夜気が頬を撫でた。

ショッピングセンターの裏路地。

街灯の光などない、深い暗闇が広がっている。

「――こんばんは」

闇の奥から、滑るような声が鼓膜を打った。

片桐の足がピタリと止まる。

数メートル先の暗がりの中に、一人の男が立っていた。

二十代半ばほどの、黒いスーツ姿の男。

その目は細く糸のように閉じられており、口元には不気味なほど平坦な笑みが張り付いている。

(……この声)

聞き覚えがあった。

そして片桐の直感が、警鐘を鳴らした。

銃を構えているわけではない。

殺気を放っているわけでもない。

ただそこに「立っているだけ」にもかかわらず、相手からは背筋が粟立つような底知れなさを感じる。

片桐は躊躇うことなく、抱えていた日和ひよりを出入り口横の壁際へ静かに横たわらせ、ゆっくりと男に向き直った。

「僕は自分の「勘」というものに自信があるんですけど、どうやらあなたも同類みたいだ」

糸目の男が、穏やかな声で言う。

片桐の中で、状況が繋がった。

十分ほど前、侵入した直後に聞いた声だ。

この男は、女に声を掛けていた「オオサキ」という人物で間違いない。

あの時、オオサキと呼ばれた男は取り繕う女に対し、言葉では納得しながらも、腹の底に僅かな違和感を抱えていたのだ。

『なぜ今、この場所にいるのか』と。

そして一階で騒ぎが起きた瞬間、彼はパニックに釣られることなく、その違和感の正体を確信し、最短距離でこの脱出ルートを塞ぎに来た。

「……若いのに大したもんだな」

片桐は低く呟いた。

その若さで、どれほどの修羅場をくぐり抜けてくれば、そんな異常な嗅覚が育つのか。

それは、不浄な組織の中で完璧に仕事をこなしてきた狂信者への、冷ややかな皮肉でもあった。

「褒められているわけでは、なさそうですね」

オオサキが、張り付いた笑顔のまま両手をスッと前に出す。

握り拳ではない。

指先を鋭く揃え、相手の肉を掴み、削り、潰すための「貫手」の構え。

「とはいえ、僕はこれくらいのことでしか役に立てませんので」

次の瞬間、オオサキが音もなく踏み込んだ。

喉元へ迫る指先を前腕で払い落としながら、片桐はがら空きになった顔面へ掌底を打ち込もうと踏み込む。だが、オオサキの腕は蛇のように軌道を変え、片桐の腕を絡め取ってきた。

関節を極められるより早く、片桐は肘を振り抜いて拘束を断ち切り、同時に足払いを放って体勢を崩そうとする。

しかしオオサキは不気味なほどの柔軟性でそれを受け流し、逆に片桐の眼球へと指先を滑り込ませてくる。

間一髪で首を逸らして躱し、互いに一歩も引かないゼロ距離での交錯が続く。

片桐の的確な打撃はオオサキの反射神経にことごとく弾かれ、オオサキの喉や水月を狙う致命の貫手も、片桐の練度によってミリ単位でいなされる。

互いの高い技術が拮抗し、決定打のない静かで高速な探り合いが続き、布が擦れる音と、足運びのくぐもった音だけが暗がりに響く。

だが、数十秒の均衡の末、その戦いに僅かなズレが生まれ始めた。

互いの呼吸が乱れて防御の精度が落ちる中、躱しきれなかった片桐からの肘打ちが、オオサキの肩口を重く捉えた。

鈍い音と共にオオサキの体勢が泳ぐも、彼は痛みを意に介さず、崩れた姿勢のまま強引に前へ踏み込んで片桐の両脇腹へ五指を突き立てた。

「ぐっ!」

指先がコートと衣服を越え、肉に深くめり込む。

刺される痛みとはまるで違う、強力な万力で筋肉や神経を直接握り潰されるような、鈍く息の詰まる激痛。

片桐は顔を歪めながらも、オオサキの胸ぐらを掴んで強引に引き剥がし、互いに数メートル距離を取った。

暗闇の中、荒い息遣いが響く。

オオサキは呼吸を整えながら、片桐の腰元へと視線を滑らせた。

「その腰の短剣は、抜かないんですか?」

攻撃の際に確認できた短剣を、片桐が使うつもりがないのを見てオオサキは僅かに語気を強めた。

「……勘違いするなよ。甘く見てるわけじゃない。素手を相手に刃物を抜きたくないだけだ」

片桐は傷口に手を当て、怪我の深さを確かめる。

(とはいえ、手を抜いてもいられないな)

素手で人間を出血させられる敵を相手に、これ以上生ぬるいことはしていられない。

「では、このまま続けても?」

片桐が頷くのを見て、オオサキの雰囲気が変わる。

技術の応酬は終わったのだ。

片桐は、自身の脇腹に滲む血の熱さを感じながら、眼前の相手を見据える。

「そういう意地、みたいなの、嫌いじゃないですよ」

オオサキが僅かに口角を上げ、地面を蹴ろうとした、その瞬間。

片桐は足元の砂利を掬い上げ、オオサキの顔面に向けて放つ。

「……ッ」

礫に顔を背けたオオサキの側頭部へ、片桐はすでに傍らから掴み上げていた拳大の石片を力任せに振り下ろしていた。

ゴッ、と鈍い音が響いてオオサキがたたらを踏む。

その体勢が崩れきるより早く、片桐は地を這うような低い姿勢で突進し、相手の鳩尾へと肩を深く突き刺した。

勢いを殺さず、そのまま背後のコンクリート壁へと強引に押し込んでいく。

だが、オオサキもただでは崩れない。

壁に打ち付けられながらも片桐の背中へと両手を回し、その指先をコート越しに背筋へと深く突き立てる。

ギリギリと骨を軋ませる息の詰まるような激痛。

しかし片桐は怯むことなく、もつれ合った至近距離のまま自らのひたいをオオサキの鼻柱めがけて叩きつけた。

顔面を砕くような音と共にオオサキの鼻血が噴き出し、背中を削り取ろうとしていた腕の力が僅かに緩む。

その瞬間、オオサキの顔から「薄ら笑い」がスッと消え失せた。

糸目が見開かれ、漆黒の瞳が片桐を真っ直ぐに捉える。

片桐は拘束が緩んだ一瞬の隙を見逃さず、オオサキの軸足を払ってアスファルトへ力任せに引き倒す。

そのまま離れざまにゴミ捨て場の錆びた自転車を掴み上げ、仰向けに転がったオオサキの胴体めがけて、金属の塊を叩き潰すように振り下ろした。

重い衝撃を、オオサキは両腕と引き上げた両膝で辛うじて受け止める。

痛みに顔を歪めながらも、彼はそのまま両足でフレームを強く蹴り上げ、のしかかる自転車を強引に撥ね除けた。

下から突き上げられる力に対して、片桐はあっさりとフレームから手を放すと、跳ね上がった反動を利用して前のめりに沈んでいた上半身を一気に起こし、鋭く一歩を踏み込んだ。

体勢を立て直した片桐の蹴りが、半身を起こしかけたオオサキの側頭部へ、重いサッカーボールキックとなって振り抜かれる。

頭蓋を砕きにきたその一撃を腕でガードしながら、オオサキは片桐の蹴り足のふくらはぎを両手で素早く捕獲する。

指が筋肉に深くめり込み、そのまま引きちぎろうと力が入る。

脚を潰される――そう判断するや否や、片桐は自らバランスを崩して倒れ込み、オオサキの肩口めがけて自身の肘を全体重と共に叩き落とした。

両者はアスファルトに倒れ込み、もつれ合う。

片桐は馬乗りになろうとするオオサキの襟首を掴み、後頭部を硬いアスファルトの地面へ幾度も力任せに叩きつける。

脳を揺らされ、顔を血で染めながらも、オオサキは痛覚が麻痺したように、片桐の喉笛に指をめり込ませようと腕を伸ばす。

片桐はその大振りの腕を払い退け、オオサキの頭部を自らの左脇下に深く抱え込んだ。

前方首絞め――ギロチンチョーク。

そのまま自身の体重をすべて掛け、オオサキの身体を引き倒すように地面へと密着する。

「っ……、ぐ……」

片桐の両腕が、オオサキの頸動脈と気管を容赦なく締め上げる。

オオサキの手が片桐の背中に回り、コートを通して肉に指を立てる。

だが片桐は一切の表情を変えず、さらに力を込めて首の骨をミシミシと圧迫し続けた。

十秒。あるいは、二十秒。

血走ったオオサキの目が限界まで見開かれ――やがて、背中を掻きむしっていた腕からストンと力が抜けた。

沈黙が降りた後、片桐はゆっくりと腕の拘束を解く。

冷たいアスファルトに仰向けに転がったオオサキの顔は、先ほどまでの剥き出しの殺意から一転し、登場した時と同じ「不気味なほど平坦な顔」に戻って、静かに事切れていた。

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