Side: キミトフ&マイルズ 背負う者たち
黄昏。仮設置された簡易兵舎の作戦室は窓に布が掛けられ、蝋燭一本の光だけが地図を照らしていた。
山の稜線、渓谷の曲がり、川の浅瀬、獣道。墨で引かれた線の上を、マイルズの細い棒が静かにすべった。
「敵は四十前後、野営地は渓谷の窪地。焚き火は三、見張りは交代制――二刻ごと。井戸のそばに小屋があり、人質はそこだ」
淡々と述べる声に、紙の上の駒がひとつ、またひとつと動く。
キミトフは腕を組んだまま、地図ではなく兵の眼を見ていた。
「目的は三つ。首魁の無力化、賊の排除、人質の救出。捕らえる余裕はない。時間は短い。火を使うな。音を立てるな。誰も逃がすな」
部屋にいたのは臨時特殊部隊――治安維持のために正規軍から選りすぐられた面々だ。鎧の金具には布が巻かれ、刃には薄く黒い塗料が塗られている。
マイルズが指先で三度机を叩く。
「編成――《突入部隊》八、《封鎖部隊》四、《救出部隊》四。《先行部隊》六は外周を担当。合図は梟。撤収路は北の獣道、第二は東の浅瀬。時刻合わせは――」
彼は掌の小さな砂時計を逆さにした。
「砂が落ちきった時が、作戦開始。以後、合図ごとに一回転。誤差は許されない」
短い沈黙。兵たちの視線が、自然とキミトフに集まる。
彼は蝋燭の炎を見据え、低く言った。
「狩る相手は人間だ。――だから、今夜は徹頭徹尾、悪でいろ」
誰も頷かない。だが誰も否定しない。
冗談の時間は、ここにはない。
月のない夜。
部隊は森の影から溶け出すように出立した。金具は布でくるまれ、靴底には麻布。顔は煤で汚され、白いものは一つとしてない。
馬は使わない。爪先から地を飲み込むように、影の列が山道を登っていく。
渓谷上の稜線でいったん停止。
キミトフは膝をつき、指二本で「前進」を描く。
マイルズは低く囁いた。「遠見は三。交代まで残り――約二十分。」
その言葉に、キミトフが掌の小さな砂時計を逆さにする。
砂が細く落ち始める音が、夜気の中でやけに大きく響いた。
「――時刻を合わせろ」
囁くような命令に、全員がそれぞれの時計を確認する。
誤差は許されない。呼吸のずれが、作戦全体を崩す。
静寂の中で、落ちる砂粒だけが時間の流れを刻んでいた。
《先行部隊》が闇を裂き、見張り台の背後に忍び寄る。
賊の口は布で塞がれ、刃が喉に添えられた瞬間、抵抗は終わった。地に落ちるのは、賊の体温と血の気だけ。
音も振動もなく、倒れた影は二度と朝を迎えない。夜は何も見なかったふりを続け、ただ風だけが細く鳴った。
枕木のように並ぶ野営地を、部隊は切り裂くように進む。
矢は消音措置が施され、弓は短く改造されている。遠距離は最低限、殺傷は近接で確実に急所を狙う。
《封鎖部隊》は同時に逃げ道を潰していく。罠を仕掛け、地形を利用して視界を遮断する。退路は音もなく閉ざされ、気づいた時にはもう道は存在しない。
砂が尽きる。遠くで梟の鳴き声が一度だけ響いた。
キミトフを含む《突入部隊》が岩場を駆け下り、影のように野営地へ滑り込む。最初の標的は焚き火だ。袋を被せ、灰が立つ前に革手袋で押し潰す。光を奪われた賊は、思考すら奪われる。
矢の射線はすでに測り尽くされている。闇は味方であり、距離こそが最大の敵だ。
光を制圧した影たちは、次の標的――野営地の中央に構える首魁の天幕へと音もなく歩を進めていた。
マイルズを含む《救出部隊》は井戸脇の小屋に取り付く。中から灯火が揺れ、寝息がかすかに漏れる。
マイルズは壁の隙間を覗き込み、指を三度曲げる――(中に三)。さらにもう一度――(奥に一)。
腰から針金を取り出し、閂を静かに押し上げる。「いま」
合図と同時に戸が開き、兵たちが闇の中へ溶け込む。賊が目を見開くより速く、喉元に刃が走る。声はない。あっては許されない。
マイルズは捕らわれていた子どもの縄を断ち、口布を外した。泣き出しかけた小さな顔に、人差し指を口元へ立てる。
――シー――
彼は掌で自分の胸を二度、静かに叩く。次の瞬間、その子の小さな背を抱き寄せ、腕の中に包み込んだ。低く刻む呼吸を示しながら、頭を胸元へとそっと預けさせる。
拍が重なり合うにつれ、張りつめた空気が吸い取られていく。震えは次第に収まり、嗚咽は静かな呼吸へと変わっていった。
谷を撫でる風が一瞬止まった。――その時だった。
「――て、敵襲だッ!」
短く鋭い声が、闇の野営地に弾けた。
しかしその声が続く前に、影が一つすでに走っていた。
封鎖部隊の兵が低く地を蹴り、倒れ込んだ賊の口を荒布で押し塞ぐ。刃が一閃、抵抗の気配は瞬時に途絶えた。
音は短く、命の流れはそこに留まらない。
だがその一声で、野営地の空気は確実に揺れた。
天幕の布がばさりと揺れ、暗闇の中で誰かが跳ね起きる。
沈黙を纏っていた谷に、ざわめきが一斉に走り出した。
その瞬間にはすでに、《突入部隊》は首魁の天幕へ到達していた。
キミトフの視線が部隊員らを射抜く。合図はない。合図はいらない。――想定外は、最初から計算に入れてある。
渓谷の中央――首魁の天幕がもぞりと動いた。
気配を殺した男が外に出る。
彼の肩が、夜の冷たさを知ろうとしたその瞬間、キミトフは背へと密着し、刃を頸に添えた。
囁きと同時に、刃は一息で喉を裂いた。
抵抗は短く、声は生まれない。首魁の影は崩れ落ち、地に沈んだまま動かなくなった。
中心が潰えたと同時に、その余波のように外周がざわめいた。
外へと駆け出そうとした賊が、前方で立ちはだかる黒い人影に気づいて足を止めた。
次の瞬間、その影が一歩踏み込み、刃が横薙ぎに閃く。
賊の喉から声は出なかった。身体は崩れ、地面に沈み込む。
《先行部隊》と《封鎖部隊》は円を描くように位置を詰め、外からじわじわと野営地を締め上げていく。
罠は音もなく機能し、絡め取られた賊がもがく間もなく地に沈む。
駆け足で逃げ出そうとした賊には、矢が無言で突き刺さる。
消音された弦がわずかに震えるだけで、走り出した足は空を切り、その体は土に吸い込まれるように崩れ落ちた。
一方、中央では《突入部隊》が首魁を処理した勢いのまま、天幕から放射状に広がっていた。
天幕の中に潜む賊が武器を取ろうとした瞬間、その動作ごと斬り伏せられる。
刃は深く入らない。必要な分だけで、動きは止まる。
中央から広がる影と、外周から迫る円が互いに重なり、野営地全体を押し潰すように制圧していく。
《救出部隊》は小屋から子どもを連れ出し、井戸の影を縫って北の獣道へ送る。
マイルズは先頭に立ち、ひとりの幼い子を背に負った。
小さな手が震えながらも彼の肩にしがみつく。マイルズは歩を乱さず、指先で合図を送りながら全員の歩幅を揃える。
背中越しに伝わる早い鼓動が、自らの呼吸に合わせるかのようにゆるやかに整っていく。
泣き出しかけた喉は落ち着きを取り戻し、すすり泣きは静かな息に変わった。歩調は乱れない。
やがて、賊の野営地は別の谷のように静かになった。
焚き火は冷えた灰へと変わり、天幕は風に撫でられているだけ。
耳に入るのは、草の擦れる微かな音と、遠い水音。人の声はどこにもない。
遠くで梟の鳴き声が二度響く。
「撤収」
マイルズの声は囁きに等しい細さでありながら、命令としての重さを帯びていた。
北の獣道。
列は途切れない。
前列が止まれば後列も止まる。
稜線を越え、森が深くなると、ようやく誰かが夜空を見た。星があった。
キミトフは最後尾で一度だけ振り返る。
渓谷には何事もなかったような静けさが戻り、ただ燃え尽きた灰の匂いだけが、短い時間の暴力を物語っていた。
兵舎の外れに着く頃には、夜の温度が僅かに緩んでいた。
列がほどけ、誰も声を上げないうちに、キミトフは黙って刃を布で拭った。
「……悪、ってやつは、慣れるものですかね」
臨時特殊部隊の若い兵が、誰にともなく呟いた。
キミトフは刃を見ずに答える。
「慣れてはいけない。だが、引き受けることはできる」
それから、少しだけ声を落とした。
「狩る相手は人間だ。だから俺たちは、必要な時に限って――悪でいろ」
扉の外では、夜風だけが鳴っていた。
任務は終わった。だが次の夜が来れば、また始まる。
闇は恐るべきものだが、闇にも役割がある。
誰かが安心して眠るために、誰かが起きている。
誰かの善を守るために、誰かが一時だけ悪を引き受ける。
砂時計を逆さにすると、砂はまた落ち始めた。
時は、彼らのために止まらない。
止まらないからこそ、彼らは正確であることを強いられる――闇夜に紛れて、狩るべきものを、過不足なく狩り尽くすために




