Side:執務室の黒い訪問者
昼下がりの執務室。
窓から差す光が、帳簿と地図の上に四角い明るさを落としていた。クラウディアは羽根ペンをいったん休め、湯気の消えかけたカップに指先を添える。
ノックの音。
「失礼いたします」
入ってきたマイルズの腕には、黒い毛玉――いえ、まだ子猫の黒猫がすっぽり抱えられていた。つややかな毛並みが、光にふわりと縁取りされる。
「……猫?」
クラウディアのまつげがかすかに揺れる。
「はい。以前、クラウディア様が『一度でいいから見てみたい』と仰っていましたので。お連れしました。名はタマ、と」
「覚えていたのね」
クラウディアは、頬の緊張をほどくように微笑む。
黒猫は細い首をのばし、蒼い丸い瞳で部屋を一巡した。「にゃ」とひと声。紙の匂いと陽だまりに、安心したようだった。
そこへ軽い足音。
「わぁー! 本当に猫っすか!?」
タリヤがひょいと顔を出し、勢いのまま手を伸ばす。
――しゅっ。
黒い背が丸くなる。小さな喉から凛とした威嚇の音が漏れた。「ウー……!」
「えっ、えぇぇ!? いきなり嫌われたっす!?」
タリヤは両手を宙で固めたまま固まる。
「騒がしいと思えば……猫か」
低い声とともに、キミトフが入室した。腕を組んで立ち止まると、黒猫は不思議そうに鼻先を近づけ――とことこ、と長靴へ寄り、前足でちょこん、と触れた。
「……」
キミトフはわずかに膝を折り、指先を出す。黒猫は頬をすりつけ、喉をころころと鳴らす。
キミトフが小声で笑った。
「見る目があるな」
「ふ、ふんっ……! これはタマからの挑戦状っす!」
タリヤは気を取り直し、腰のポーチをごそごそ探る。
「まずは――猫じゃらし代わりの靴紐! ほれっ!」
黒猫は一瞬、前足でちょい、と触れてから、ついと顔をそむけた。
「……敗北っす」
それでもタリヤはあきらめない。しゃがみ込んで目線を合わせ、そっと指の腹を見せる。
黒猫の耳がかすかに横へ倒れ――「シャーッ……!」と、もう一度。
その時、黒い影がふいと跳ねた。
――す、とクラウディアの椅子へ。
黒猫は軽やかに彼女の膝の上に飛び乗り、そのまま太ももの上で丸くなった。
布越しに伝わる重みと温もりに、クラウディアはわずかに目を瞬かせる。
「まあ……」
声にかすかな驚きが混じる。けれど黒猫は気にする様子もなく、安心しきったように喉をゴロゴロと鳴らしはじめた。
クラウディアは足を少し引き、邪魔をしないよう姿勢を正す。
「お行儀は、悪くないわね」
「うう……どうして自分だけ……」
タリヤの肩がみるみる沈む。
やがて、ふっと立ち上がった。
「――ちょっと失礼するっす!」
「どこに行くのかしら?」
クラウディアが不思議そうに目を上げると、タリヤは返事の代わりに親指を立て、廊下の向こうへ消えた。
やがて、ばたばたと戻る足音。
「た、ただいま戻ったっす!」
タリヤが胸元で大事そうに包みを抱え、ぱっと開く。
「厨房で分けてもらった、新鮮な魚! 猫は魚が好き……今度こそリベンジっす――!」
黒猫の鼻先がぴくり。……からの、くるり。
顔をそむけ、布の影に潜り込む。
「な、なんでぇぇ……!」
タリヤはその場に膝を落とし、肩をがっくり落とす。
指先は魚の香りでいっぱい、目の端は少し潤んでいた。
黒猫は布の影からそっと顔を出し、タリヤの落ち込んだ横顔を丸い瞳で見つめる。
それから――ちょん、と椅子から降り、タリヤの前に回り込む。
小さな肉球が、タリヤの頭にふわり、と乗った。
もう一度、ちょん。
「……っ」
タリヤの目がぱっと丸くなる。涙の粒が、笑いにほどけた。
「タマちゃん……良い子……!」
彼女がそっと手を伸ばした、その瞬間。
黒猫はすばやく一歩下がり、ちいさく「シャーッ」。
(そこまでは、だめ)と言うように。
「き、きびしい距離感……!」
タリヤは両頬を押さえ嘆いたが、今度は笑っていた。
黒猫は何事もなかったようにくるりと身を返し、今度はマイルズの足元へ。
裾、腰、肩――黒い流れがすべるように登っていく。
「おっと、タマ」
マイルズが体を傾けるより早く、黒猫は顔のあたりまで到達し、ぺろり。
猫の舌が、彼の頬をひとなめした。
マイルズが苦笑すると、黒猫は満足げに喉を鳴らし、胸もとへすとんとおさまる。
「やっぱりマイルズの元が一番安心するのね」
クラウディアは微笑み、机の端を軽く叩いて書類を整えた。
「――けれど、ここは執務室。いい子にしているのよ」
黒猫は返事のかわりに、ころんと丸くなる。
タリヤは魚包みをきゅっと結び直し、「厨房に返してくるっす」と立ち上がった。
その背中に、黒猫が一度だけちらりと目をやる。もう威嚇はしない。
午後の光は少し傾き、紙の白はあたたかな色を帯びる。
ペン先が静かにすべり、外からは風に揺れる木の葉の音。
黒猫は喉をころころと鳴らし、時おりひげがぴくりと動いた。
キミトフは窓を少しだけ開け、風の通りを整える。
マイルズは頬を指でこすりながら、どこか誇らしげに笑っている。
タリヤは扉の前で一度だけ振り返り、黒猫に小さく手を振った。黒い耳が、ぴこ、と返事をする。
なんでもない午後。
けれど、そんな午後がいちばん贅沢だと、誰もが知っていた。
執務室には、穏やかな呼吸と、のんびりとした余韻だけが、長く長く漂っていた。
前回が重かったので軽めに




