第45話「歪んだ執念」
御堂へ凛を託すと、俺は踵を返し、自動扉の向こうへ続く白い通路を全力で駆け出した。
無機質な壁と床が次々と視界の端を流れ、施設中へ響く足音だけが静寂を打ち破る。
途中、幾つもの分岐が現れるものの、御堂から聞かされた道順を頭の中で辿りながら、一切速度を緩めることなく走り続けた。
奇妙なほど静かだった。
強硬派の兵士も、研究員の姿もない。
ただ、俺を中央制御区画へ導くように長い通路だけがどこまでも続いている。
その不自然な静けさが、かえって胸の奥へ緊張を募らせた。
やがて通路の先に、幾重もの電子ロックが並ぶ重厚な扉が、すでに左右へ大きく開かれていた。
本来なら厳重に閉ざされているはずの扉だ。
……御堂が開けたのか。
そんな考えが一瞬だけ頭を過る。
だが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
俺は速度を緩めることなく、そのまま中央制御区画へ飛び込んだ。
「……ここが、中央制御区画」
そこは今まで通ってきた白い研究区画とはまるで別世界だった。
円形に広がる広大な空間。
その壁一面には無数の大型モニターが規則正しく並び、
複雑な数値や波形、施設内の監視映像が絶え間なく映し出されている。
天井近くまで積み上げられたサーバー群は低く唸るような駆動音を響かせ、
中央へ向かって幾本もの太いケーブルが床を這うように伸びていた。
まさに、この施設全てを制御する中枢。
その最奥に、一人の男が静かに佇んでいた。
白衣を纏った痩せた男。
短く切り揃えられた白髪に、銀縁の眼鏡。
その奥にある瞳はどこまでも静かで、目の前へ現れた俺を見ても驚き一つ見せることはない。
「来たか、被検体S-01……いや、天羽翔」
俺は男を真っ直ぐ見据えた。
「……アンタが?」
「いかにも。私がプロジェクト・キメラ最高責任者、一条蓮司だ」
その口調はどこまでも穏やかだった。
自らが数多の実験を指揮してきた張本人であるにもかかわらず、その表情には焦りも恐れも浮かんでいない。
「その顔……俺がここまで辿り着くことを予想していたみたいだな」
「無論だ。御堂が独断で君へ道を示したようだが、それも想定の範囲内だ」
一条は表情一つ変えず、淡々と答える。
「……何?」
御堂と別れてからここへ来るまで、兵士とも研究員とも一人として遭遇しなかった。
あの静まり返った施設。
あれは偶然なんかじゃない。
最初から俺を、この中央制御区画まで誘導するためだったのか。
「部下から報告は受けている。君は母親と決別し、父親とは死別したそうだね」
「……それがどうした」
「人は強い精神的刺激を受ければ、大きな変化を見せることがある。私はその結果を期待していた」
一条は僅かに目を細める。
「だが、私が期待したような変化は確認できなかった」
その眼差しには失望も怒りもない。
あるのは、実験結果を評価する研究者の冷静な視線だけだった。
「所詮、君はプロトタイプ。能力も、そこが限界という訳だ」
「……俺達を、人間じゃなく、実験動物としか見てねぇのか」
一条は眉一つ動かさなかった。
「研究とはそういうものだ。目的を達成するためには、相応の犠牲が必要になる」
「その目的って何なんだ!」
抑え込んでいた怒りが堰を切ったように溢れ出す。
「なんでこんなプロジェクトを立ち上げたんだ!」
怒声が中央制御区画へ響き渡る。
しかし、一条は微動だにしなかった。
「……君になら、話す資格はある。プロジェクト・キメラの始まり。そして、私がこの計画を立ち上げた理由を話そう」
一条は僅かに顔を上げ、遠い過去を思い返すように天井へ視線を向けた。
「実は私も、多重人格者なのだよ」
「……なんだって?」
思わず息を呑んだ。
目の前にいる男は、数え切れないほどの被験者を苦しめてきた張本人だ。
その男が、俺と同じ……多重人格者?
「今でこそ、多重人格は一つの精神疾患として認知されている。だが、私が幼い頃は違った。理解されることはなく、気味悪がられ、恐れられ、排除される存在だった。私は、そんな周囲と、自分の人格たちを憎んだ。しかし、NABへ入り研究者として邁進する中で、私は一つの可能性を見出したのだ」
一条は静かに言葉を切る。
その瞳には、過去を懐かしむ色ではなく、長年積み重ねてきた研究への確信だけが宿っていた。
「人格たちに異能を与えてやれば、私を虐げてきた連中など容易く見返せるとね」
「……は?」
思わず声が漏れる。
しかし、一条は俺の反応など意に介することなく、言葉を続ける。
「私は証明したかった!多重人格は欠陥などではない!奴らより優れた存在になれるということを!!」
一条の声には熱が宿っていた。
長年押し殺してきた感情が溢れ出したのだろう。
その瞳に宿っているのは怒りではない。
それは、何十年という歳月を経てもなお燃え続けてきた執念だった。
「……そんな、くだらない理由で……!」
喉の奥から絞り出すように声が漏れる。
胸の奥で燻っていた怒りが、一気に燃え上がった。
そんな理由のために、俺の人生は壊された。
人格達は、それぞれの苦しみを背負って生まれたんだ。
多くの被験者達は実験の果てに命すら奪われた。
そして――父さんは、命を落とした。
全ては、目の前の男が抱き続けてきた歪んだ執念のため。
俺は拳を強く握り締める。
爪が掌へ食い込むほど力を込めても、込み上げる憎悪は収まらない。
すると、その時だった。
『……ククッ』
頭の奥で、悪の権化の小さな笑い声が響く。
『やっぱり、許せないよねぇ。こんな奴、生かしておく価値なんてない。全部壊そうよ。ボクに任せてくれれば、一瞬で終わらせてあげる』
その囁きは、怒りに染まった心へ甘く染み込んでいく。
抗おうとする意識は、憎悪の濁流に呑み込まれていく。
『ククッ……翔。後はボクに任せるといい』
意識がゆっくりと闇へ沈んでいく。
代わりに込み上げてくるのは、底知れない憎悪。
『ようやく、ボクの出番だねぇ』
悪は目の前の一条を見据え、愉快そうに肩を竦めた。
一方、一条はそんな悪を静かに見つめ返す。
その表情に驚きはない。
まるで、この人格が現れることを最初から予測していたかのようだった。
「……BLACKか。プロジェクト・キメラが生み出した唯一の人工人格。その発想自体は実に興味深い」
俺には、悪が口元の笑みをさらに深くしたように見えた。
『ククッ……褒め言葉として受け取っておくよ』
しかし、一条はゆっくりと首を横へ振った。
「だが、感情に支配されすぎている。まだ未完成だ」
その言葉を聞いた瞬間、悪の笑みがわずかに歪んだ。
『……未完成、ねぇ』
低く笑うその声には、先ほどまでの愉快そうな響きとは違う冷たさが滲んでいた。
『だったら見せてあげるよ。君が"未完成"と切り捨てた、このボクの力をね』
軽い足取りで歩みを進める悪に対し、一条はその場から一歩たりとも動かなかった。
一条は微動だにしない。
ただその場に立ち続け、悪の接近を受け入れている。
その異様な落ち着きに、俺は僅かな違和感を覚えた。
悪はそんなことなど気にも留めず、一条の目前まで歩み寄る。
ゆっくりと右手を持ち上げ、その肩へ触れようと指先を伸ばした。
あと数センチ。
触れれば一条の精神へ直接干渉できる。
そう思った、その時だった。
僕『みんな……やられちゃったよ……』
お嬢『まさか、ここまで圧倒されるなんて……』
賢者『一条蓮司……想定を遥かに超える強敵です』
戦闘狂『チッ……まだ終わっちゃいねぇだろ!』
悪の権化『ククッ……さて、ここからどうするのかな?』
翔「次回、『絶望の果て』――俺は、まだ諦めない」




