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第44話「守るための拳」

目の前の景色が音もなく歪み、白い部屋が遠ざかっていく。

代わりに流れ込んできたのは、俺が失っていた記憶だった。


――小学校。

教室の隅へ追い詰められた俺を囲むように、何人もの同級生が嘲るような笑みを浮かべていた。


教科書は床へ散らばり、身体へ突き刺さる痛みに顔を歪めても、教室へ響くのは俺を嘲笑う声だけだった。

そんな俺の前へ、いつも一人だけ立ってくれる少女がいた。


【やめて!翔君は何も悪くないでしょ!】


小さな身体を精一杯広げながら、俺を庇うように立ちはだかる。

だが、一人では止め切れない。

少女が庇えば庇うほど、いじめは目の届かない場所で、より陰湿に、より執拗になっていった。


放課後。

人気のない校舎裏で泣きじゃくる俺の前に少女は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら呟いた。


【……ごめんね……全部、守れなくて】


胸の奥で、何かが繋がった。


「朝倉……凛」


その名前を口にした瞬間だった。

忘れていたはずの記憶が堰を切ったように溢れ出し、俺の意識は再び過去へと引きずり込まれていく。


――違う日。

凛の姿はどこにもなかった。

腹を蹴られ、背中を踏みつけられ、髪を掴まれて無理やり顔を上げさせられる。


【調子に乗るなよ】


【また朝倉に助けてもらうのか?】


教室へ下卑た笑い声が響く。

身体中を襲う痛みに歯を食いしばりながら、俺はただ震えることしかできなかった。

苦しくて、怖くて、それでも誰も止めてはくれない。


【……やめて】


震える声でそう呟いても、返ってくるのは嘲笑だけだった。

拳が振り下ろされる。

蹴りが叩き込まれる。


身体だけじゃない。

心まで少しずつ壊れていく。


――もう嫌だ。

――もう、やめてくれ。


やがて、頭の奥底で、何かが音を立てて弾けた。


――気付けば、教室は静まり返っていた。

机や椅子は無残に倒れ、窓ガラスは割れ、教室はまるで暴風でも吹き荒れたかのように荒れ果てていた。


そして、俺を囲んでいたはずの同級生達は、誰一人立っていなかった。


床へ倒れ込み、苦しそうに呻く者。

身体を押さえたまま動けない者。

泣きながら助けを求める者。


何が起きたのか分からない。

俺は震える身体で辺りを見回す。


その時、足元へ散らばった割れた窓ガラスが目に入った。

ガラスへ映り込んでいたのは、肩で荒く息をしながら立ち尽くす俺自身の姿だった。


【……え?】


震える手を上げると、その拳は赤黒い血で汚れていた。


【な、んで……】


何が起きたのか分からない。

俺がやったのか?俺が、みんなを?


バンッ!!


教室の扉が勢いよく開かれる。


【翔君!!】


息を切らしながら飛び込んできたのは、朝倉凛だった。

俺の姿を見つけるなり、その表情は安堵から驚愕へと変わる。


【翔君……その手……!】


凛の視線が、血に染まった俺の拳へ落ちる。

だが、その姿を見た瞬間――俺の中で何かが軋んだ。


また来た。

また俺を傷つける。

また殴られる。

また痛い思いをする。


そんな衝動だけが頭の中を埋め尽くしていく。


――戦わなきゃ。

――勝たなきゃ。


【翔君、違う!もう終わったから!落ち着いて!】


その声は耳に届いているはずなのに、意味として頭へ入ってこない。

目の前にいるのは敵。

俺を傷つける存在。

そうとしか思えなかった。


気付けば俺は床を蹴り、凛へ向かって一直線に飛び出していた。

拳を振り上げ、渾身の一撃を叩き込む。


しかし、凛は慌てることなく半歩だけ身体を開き、その拳を受け流した。

勢いを殺されないまま身体が流れ、次の瞬間には腕を掴まれていた。


【……!】


視界がぐるりと反転する。

身体は宙を舞い、そのまま教室の床へ激しく叩きつけられた。


身体は動かない。

ただ天井だけがぼやけて見える。

そんな俺の傍へ凛は駆け寄ると、その身体を強く抱き締めた。


【もうやめて、翔君!もう終わったから!お願いだから……戻ってきて!】


涙混じりの叫びが教室へ響く。

その温もりに触れた瞬間、頭の中を覆っていた黒い靄が晴れていく。

気付けば、俺はただ声を上げて泣いていた。


あの日、俺を守るために生まれた人格。

俺の代わりに怒り、俺の代わりに戦ってくれた人格。

それが――戦闘狂だった。


「――ッ!」


視界が大きく揺らいだかと思うと、教室の景色は一瞬で消え去り、俺は現実へ引き戻されていた。

視界へ飛び込んできたのは、無機質な白い壁と床に囲まれた研究施設だった。


「はぁ……はぁ……」


荒く息を吐きながら目の前を見る。

そこには、倒れたまま動かない少女――朝倉凛の姿があった。


「……凛」


自然とその名前が口から零れる。

今度はもう、迷わない。

頭の中で、戦闘狂の小さく鼻を鳴らす声が響いた。


『……思い出したかよ』


「ああ……彼女は俺を庇ってくれた……最後まで、俺を助けようとしてくれた。あの日、お前が生まれた理由も……全部、思い出した」


戦闘狂は少しだけ嬉しそうに笑った。


『ケッ……だったら、もう俺から言うことはねぇな』


俺は小さく息を吐き、改めて凛へ視線を向ける。

そこにいるのは、NABの実験体なんかじゃない。

幼い頃、たった一人で俺を守り続けてくれた、大切な人だった。


「……凛」


俺がその名を呼ぶと、凛の瞼が微かに震えた。

焦点の定まらない瞳はゆっくりと俺を映し、その口元が僅かに緩む。


「……よかった」


誰に向けた言葉だったのかは分からない。

それでも、その穏やかな表情は、俺の知る朝倉凛そのものだった。

瞼は静かに閉じられ、その身体からゆっくりと力が抜けていく。


「凛!」


思わず駆け寄ろうとした、その時だった。


「……馬鹿な」


天井のスピーカーから神崎の掠れた声が響く。

先程までの冷静さは完全に消え失せ、その声には隠し切れない動揺が滲んでいた。


「被験体R-02が……敗れただと……」


強化ガラス越しに見える神崎は、信じられないものを見るような表情で凛を見下ろしている。


やがて唇を強く噛み締め、小さく吐き捨てた。


「くっ……これで終わりだと思ったら――」


パァンッ!!


乾いた銃声が施設中へ響き渡る。


「――ぐっ!」


神崎の身体が大きく揺れ、その場へ崩れ落ちた。


「なっ……!?」


思わず強化ガラスの向こうへ目を向ける。


神崎の背後。

観察室の奥から、一人の男がゆっくりと姿を現した。


右手には、硝煙を漂わせる拳銃。

見覚えのある白衣姿の男は、倒れた神崎を一瞥すると、そのまま天井のマイクへ静かに歩み寄る。


やがて、聞き慣れた声が白い部屋へ響き渡った。


「お見事です、翔君」


強化ガラスの向こう。

倒れた神崎の傍らへ静かに歩み寄っていた男が、天井のマイクへ視線を向けていた。


「……アンタは。御堂!」


観測派のリーダー。

父さんとの面会時に別れて以来、その姿は忽然と消えていた。


「いやぁ……まさか私を置いて、ここまで単独で乗り込んでくるとは。正直、少々肝を冷やしましたよ」


「アンタ……どういうつもりだ?」


俺は思わず強化ガラスの向こうへ視線を向けた。

神崎はその場へ崩れ落ちたまま、身を起こす気配はない。


「あいつを撃ったよな。同じNABの人間なんだろ?」


御堂は俺の問いを否定することも誤魔化すこともなく頷いた。


「ええ、その通りです。ですが、彼と私は同じNABに所属していただけで、目指すものはまるで違いました」


一度だけ神崎へ視線を落とす。

その眼差しに哀れみはない。

あるのは、一つの障害が排除されたことを確認するような冷静さだけだった。


「それに、私の許可なく被験体R-02を実戦投入したことも看過できませんでしたからね」


あまりにも淡々とした口調だった。

まるで昨日の天気でも話しているかのように、人の生死すら事務的に語っている。


俺は思わず眉をひそめる。

観測派も強硬派も、結局は同じ穴の狢なんじゃないのか。


そんな考えが頭を過った。

すると御堂は再び俺へ視線を向け、静かに口を開く。


「さて、翔君。これから、どうするおつもりですか?」


「決まってる。プロジェクト・キメラを終わらせる」


「なるほど。つまり、無計画のまま殴り込みに来た、と」


「……うるせぇな」


思わず顔をしかめる俺を見ても、御堂は表情一つ変えない。


「では、一つ。あなたへ道を示しましょう」


御堂はそう言うと、倒れた神崎へ一瞥だけ視線を向け、再び俺を見据えた。


「プロジェクト・キメラ最高責任者は、この地下施設の最深部にいます。この先を真っ直ぐ進み、中央制御区画へ向かってください。そこが、あなたの目的地です」


俺は思わず眉をひそめた。


「……なんでそんなことを俺に教える?」


俺の問いに、御堂は小さく口元を緩める。


「決まっているでしょう。私は、あなたを”観測”したいのです。あなたが辿り着いた先で、何を選び、何を成し遂げるのか。あるいは、そこで倒れるのか。その結末も含めて、私は最後まで見届けたい。どんな結果になろうとも、それが私の役目ですから」


「……」


俺は思わず言葉を失う。

敵を助けているようでいて、助けている訳じゃない。


「アンタ……敵なのか味方なのか、本当に分かんねぇな」


思わず漏れた苦笑に、御堂は僅かに肩を竦める。


「その答えは、あなた自身で判断してください」


御堂はそれだけ言うと口を閉ざした。

俺もそれ以上は問い詰めなかった。


今の御堂から本心を聞き出せるとは思えない。

小さく息を吐き、足元へ視線を落とす。


そこには静かに横たわる凛の姿があった。

戦いの傷跡を残しながらも、その寝顔は穏やかだった。


「……分かった」


御堂の考えは理解できない。

理解するつもりもない。

それでも、これだけは伝えておきたかった。


「一つだけ、頼みがある」


御堂は僅かに首を傾げた。


「なんでしょうか」


「全部が終わったら、この子を……凛を解放してやってくれ」


その言葉に、御堂はすぐには答えなかった。

一度だけ倒れた凛へ視線を向ける。


その眼差しに浮かんでいたのは情でも憐れみでもない。

ただ、一人の被験体を観察するような、どこまでも冷静な視線だった。


「……私が、それをして何の得があるのです?」


やっぱり、そう来るか。

俺は自嘲気味に鼻を鳴らした。


「プロジェクト・キメラが終われば、アンタだって無傷じゃ済まないだろ。強硬派だけじゃない。観測派も責任を問われる。だったら、その時くらい……この子を自由にしてやれ」


白い部屋へ静寂が流れる。

御堂は何も答えず、俺をじっと見つめていた。

その表情から感情を読み取ることはできない。


数秒にも満たない沈黙だった。

それなのに、妙に長く感じられる。

やがて御堂は小さく息を吐き、僅かに口元を緩めた。


「……なるほど。最後まで、あなたらしいお願いですね」

戦闘狂『ケッ……俺が生まれた理由、ようやく思い出しやがったか』


僕『凛さん……ずっと翔を守ってくれてたんだね』


賢者『ですが、感傷に浸る時間はありません。最後の戦いが待っています』


お嬢『ええ。全てを終わらせる時ですわ』


悪の権化『ククッ……最後に待ってるのは、どんな化け物かなぁ?』


翔「次回、『歪んだ執念』――もう、誰も失わせない」

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