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第43話「拳の先、眼差しの先」

そこに広がっていたのは、真っ白な壁と床に囲まれた広い部屋だった。

無機質な照明が天井一面へ規則正しく並び、余計な物はほとんど置かれていない。


研究施設なのか、それとも訓練施設なのか。

地下通路とはまるで別世界のような、異様な静けさだけが部屋を支配していた。


戦闘狂は警戒を緩めることなく辺りを見回す。

この騒動など最初から存在しないかのように、その場所だけ時間が止まっていた。


『……誰もいねぇな。』


戦闘狂が辺りを見回したときだった。


──ブツッ。


天井のスピーカーから、小さなノイズが走る。


「聞こえていますか、被験体S-01」


静まり返っていた部屋へ、落ち着いた男の声が響き渡る。


『上か!』


部屋の奥、天井近くに設けられた大きな強化ガラス。

その向こうには、小さな観察室のような空間があり、一人の男が静かにこちらを見下ろしていた。


純白の白衣を羽織り、胸元にはIDカードを下げている。

白髪混じりの髪を綺麗に整えたその男は、一見すれば穏やかな研究者にしか見えない。


だが、その瞳だけは違った。

人ではなく、実験結果を観察するような、感情の温度を一切感じさせない視線だ。


男はスピーカー越しに口を開いた。


「初めまして。私は神崎玲司。プロジェクト・キメラ強硬派をまとめる者です。お見事です。ここまで単独で侵入してくるとは、予想以上でした」


地下施設へ侵入されているというのに、その態度から焦りは見られない。


「君は計画において、唯一の成功例ではあるものの、その実まだ未完成です。我々の実験を受ければ、更なる高みへ到達できるでしょう。人類の進化。その新たな可能性として」


あいつの目には、人間なんて映っていない。

映っているのは、一つの実験結果だけだった。


『ケッ……誰が好き好んで、テメェらの実験台になんか戻るかよ』


戦闘狂が獰猛な笑みを浮かべる。

神崎は小さく息を吐き、残念そうに肩を竦めた。


「……そうですか。ならば、これ以上の説得は不要ですね。多少手荒になりますが、実力行使へ移らせていただきます。被験体R-02」


――ウィィン。


神崎が呼び掛けると部屋の奥から電子音が響く。

それまで壁だと思っていた一角が左右へ開き、その奥から一人の少女が姿を現した。


短く切り揃えられた黒髪。

バトルスーツ越しにも分かる無駄のない細身の身体つき。


年齢は、俺と同じくらいだろうか。

感情を押し殺した静かな瞳だけが、真っ直ぐ戦闘狂を捉えていた。

少女は神崎へ返事をすることもなく、一定の歩幅でこちらへ歩み寄ってくる。


コツ……コツ……。


静まり返った部屋へ靴音だけが規則正しく響く。

やがて少女は俺達から数メートルほど離れた位置で立ち止まった。

両腕を自然に下ろしたまま、一切身構える様子はない。

それなのに、不思議と隙が見当たらなかった。


戦闘狂が、不意に小さく声を漏らした。


『……あの女。どっかで見たことがある気がするぜ』


「……俺は知らないぞ?」


俺も記憶を探ってみるが、思い当たる人物はいない。


『……』


戦闘狂にしては珍しく黙り込む。

何かが引っ掛かっているようだった。

だが、その正体までは掴めないらしい。


「被験体R-02。始めてください」


そんな俺達を見下ろしながら、神崎は淡々と命じた。

刹那、少女の姿が掻き消えた。


「――ッ!?」


目で追うよりも早く、少女は戦闘狂の眼前へ踏み込んでいた。

鋭く放たれた拳が戦闘狂の顔面を捉える。


『チッ!』


咄嗟に首を傾けて拳を躱したかと思えば、休む間もなく少女の膝が腹部へ迫っていた。


『ぐっ……!』


両腕を割り込ませて受け止める。

しかし、衝撃は殺し切れない。

戦闘狂の身体が数歩後退すると、少女は間髪入れず追撃へ移る。


そこからは一方的だった。

息をつく間もなく繰り出される拳と蹴り。


戦闘狂はその猛攻を捌きながら、何度も反撃を試みる。

だが、その拳が少女を捉えることはない。

少女は慌てることなく、十分な余裕を持って戦闘狂の攻撃を躱し続ける。


届きそうで届かない。

信じられないほど正確に、戦闘狂の攻撃だけを外していく。

攻防が幾度も繰り返される中、戦闘狂の表情が僅かに変わった。


『……この感じ。テメェは……まさか!』


その一瞬の隙を逃さず、少女は迷うことなく一歩踏み込んだ。

鋭く放たれた拳が腹部へ深々と突き刺さった。


ドォォンッ!!


『がっ……!!』


凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。

戦闘狂の身体は大きく吹き飛ばされ、そのまま白い壁へ激突した。

鈍い音が部屋中へ響き、身体は壁を滑り落ちるように床へ崩れた。


「戦闘狂!大丈夫か!?」


『……あの女。あん時の……!』


壁にもたれ掛かったまま、戦闘狂は少女を睨み続ける。

その表情には、先程までの獰猛な笑みはなかった。

驚愕と困惑が入り混じった眼差しで少女を見据え、小さく呟く。


「なんだ!?彼女を知っているのか!?」


戦闘狂は小さく舌打ちすると、視線を少女から逸らさないまま吐き捨てる。


『……テメェが思い出さねぇと話せねぇ』


「っ……!」


その一言で理解する。

人格達は、俺が思い出していない記憶を勝手に話すことはできない。


つまり――目の前の少女は、俺の失われた過去を知る人物。

だが、どれだけ記憶を探っても、その姿に覚えはなかった。


『今は戦いに集中しろ。アイツをぶっ倒した後なら、嫌でも思い出すだろ!』


その言葉と入れ替わるように、頭の中で賢者の声が静かに響いた。


『……戦闘狂。一つだけ、試していただきたいことがあります』


『あァ?』


『次の攻撃は、何も考えず身体を動かすのではなく、一度心の中で組み立ててから仕掛けてください』


戦闘狂は露骨に嫌そうな顔をする。


『チッ……めんどくせぇな。』


「戦闘狂!賢者の言う通りにしてくれ!」


俺は思わず口を挟んだ。


『……ケッ』


戦闘狂は不満そうに鼻を鳴らし、小さく肩を竦める。


『わーったよ。一回だけ聞いてやるぜ!』


そう言い放つと、戦闘狂は再び少女へ向かって駆け出した。

そして右拳で牽制し、左の回し蹴りへ繋ぎ、最後に肘打ちと、少女へ怒涛の連撃を叩き込んだ。


だが、少女はその全てを、まるで最初から分かっていたかのように余裕を持って躱していく。


大きく動くことはない。

最小限の歩幅で間合いを外し、身体を僅かに傾けるだけで、戦闘狂の拳も蹴りも届かない。

組み立てたはずの攻撃は、一撃たりとも少女を捉えることなく空を切った。


『チッ……!』


戦闘狂が舌打ちしたと同時に、少女は一気に懐へ踏み込んできた。

鋭く放たれた拳が戦闘狂の胸元を打ち抜く。


『ぐっ……!!』


衝撃と共に身体が宙へ浮き、そのまま床を激しく転がる。

口元の血を親指で拭いながら、小さく吐き捨てた。


『チッ……これで満足かよ』


賢者は静かに考え込む。


『……こちらの思考を読んでいるのでしょうか』


『だったら最初の攻撃はどう説明すんだ?俺ァ何も考えてなかったぜ』


『……』


賢者はそれきり言葉を発さなかった。

頭の中からも気配が薄れ、思考の海へ沈み込んでいくような静寂が訪れる。


俺も口を挟まない。

今の賢者は、俺達とは別の世界で思考を巡らせているようだった。


『……だとすれば。もしや――』


長い沈黙を破るように、賢者の声が再び頭の中へ響いた。


「何かわかったのか?」


俺が問い掛けると、賢者は落ち着いた様子のまま答えた。


『思考を読んでいるのであれば、こちらが何も考えずに仕掛けた最初の攻防まで回避できた説明がつきません。加えて、戦闘狂の攻撃を何度も捌けるほどの技量を持つ者も、そうはいません』


一拍置き、賢者の声が再び頭の中へ響く。


『……ならば、答えは一つです。戦闘狂。相手は恐らく、未来を視ています』


『……んだとぉ?』


戦闘狂が低く唸る。


「そんな能力……本当にあるのか?」


俺は思わず賢者へ問い掛けた。

未来を見るなんて、そんな異能が本当に存在するというのか。


『断定はできません』


賢者は冷静な声色のまま続ける。


『ですが、ここはNAB。そのような異能の使い手がいたとしても、不思議ではないでしょう』


「そんな相手……どう倒せばいいんだ?」


未来が見えているなら、どんな攻撃だって先に読まれてしまう。

俺の頭には、勝つ方法なんて一つも思い浮かばなかった。

すると、戦闘狂が口元を獰猛に吊り上げる。


『ケッ……んなもん、簡単じゃねぇか』


「え?」


『未来が見えてるってんなら――』


低く呟いた戦闘狂は、その身体が弾けるように飛び出した。


『どこまで捌けるか試してやるよォ!!』


戦闘狂は爆発するように床を蹴った。

怒涛の連撃が少女へ襲い掛かる。


先程までとは比べものにならない速度だ。

一撃が終わる前に次の一撃が迫り、休む間もなく攻撃が繋がっていく。


少女はなおもその全てを捌き続ける。

だが、その動きに初めて乱れが生まれた。


一瞬、ほんの僅かに重心が遅れる。

戦闘狂はその隙を見逃さなかった。


『もらったァ!!』


渾身の蹴りが少女の脇腹へ叩き込まれた。


ドォォンッ!!


少女の身体は勢いよく吹き飛び、壁際まで弾き飛ばされる。


『終わりだァ!!』


戦闘狂は間髪入れず追撃へ移ろうとする。

しかし、一歩踏み出したところで動きが止まった。


『……っ!』


表情が歪み、咄嗟に腹部を押さえ、その場へ片膝をついた。

少女から受けた攻撃が、確実に戦闘狂の身体を蝕んでいた。


視線の先では、少女もまた脇腹を押さえながら苦しげに立ち上がる。

互いに満身創痍。

それでも、その瞳から戦意は消えていなかった。


「戦闘狂!交代するんだ!」


俺は思わず叫ぶ。

これ以上戦えば危険だ。

そう分かっていても、戦闘狂は不敵に笑った。


『ハッ……馬鹿言うんじゃねぇ。これは俺と、あの女の闘いなんだ。ケリは俺につけさせろ』


戦闘狂はゆっくりと立ち上がる。

口元から流れる血を乱暴に拭い去ると、不敵な笑みを浮かべながら少女を睨む。


『……来いよ』


低く吐き捨てるようなその一言に応えるように、少女も腰を落とす。

互いの間に張り詰めた空気が一気に研ぎ澄まされていく。


次の一撃で、この勝負は決まる。

そう直感した瞬間、二人は示し合わせたわけでもないのに、同時に床を蹴っていた。


一気に縮まる間合い。

少女は一切の迷いなく拳を突き出す。


鈍い音が部屋中へ響き渡り、その拳は狙い違わず戦闘狂の顔面を捉えた。

衝撃で頭が大きく仰け反り、鮮血が宙へ舞う。


普通なら、その一撃で勝負は決していたはずだった。


だが――。


『……ハッ。捕まえたぜ!』


戦闘狂は血に濡れた口元を吊り上げると、拳を打ち抜いた少女の手首を逃がすまいと力強く掴んだ。


「――っ!」


初めて少女の表情が大きく揺らぐ。

手首を振りほどこうともがくが、その拘束は微動だにしない。


『未来が見えてても……』


戦闘狂はそのまま少女を力任せに引き寄せる。


『捕まっちまえば終わりだァ!!』


咆哮と共に放たれた渾身の右拳が、少女の腹部へ深々と突き刺さった。


ドォォォンッ!!


凄まじい衝撃が部屋中へ轟き、少女の身体はくの字に折れ曲がる。

そのまま勢いよく吹き飛ばされ、床を何度も転がった。


少女は床へ倒れたまま小さく血を吐き出し、苦しそうに何度も咳き込んだ。

震える腕で何とか身体を起こそうと力を込めるものの、思うように身体は動かない。

一度は上半身を浮かせかけたものの、その腕から力が抜けると、再び床へ崩れ落ちた。


そんな少女のもとへ、戦闘狂は歩み寄る。

足取りは重いが、それでも最後まで立ち続け、倒れた少女を見下ろした。


『……今度は俺の勝ちだ』


少女は答えない。

苦しそうに呼吸を繰り返しながら、僅かに視線を戦闘狂へ向けるだけだった。

戦闘狂はそんな少女をしばらく見つめると、小さく息を吐いて口元を緩める。


『……ただ、テメェとは、こんなんで闘いたくなかったけどよ』


その言葉を最後に、戦闘狂の気配が遠ざかっていく。

自分の身体の感覚が少しずつ戻り始め、俺は再び目の前の少女を自分自身の意思で見つめていた。


戦闘狂が『あの時の女』とまで口にした相手。

それなのに、俺にはまだ何一つ思い出せない。


少女を見下ろしていると、不意に閉じていた瞼が開いた。

焦点の定まりきらない瞳が、それでも真っ直ぐ俺を映す。

少女は震える唇を開け、小さく掠れた声を漏らした。


「……翔……君?」


「……!」


胸の奥が大きく脈打つ。


「君は……」


「……ごめんね」


少女の唇が微かに震える。

焦点の定まらない瞳は俺ではなく、どこか遠い過去を見つめているようだった。


「……全部、守れなくて」


その掠れた声が耳へ届いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


「――ッ!」

僕『あの子……翔のことを知ってるの?』


戦闘狂『……ケッ。ようやく、その時が来たってだけだ』


お嬢『ようやく、戦闘狂が胸に秘めていた翔の過去が明らかになりますのね』


賢者『ええ。失われた記憶が、ようやく繋がるでしょう』


悪の権化『ククッ……どんな過去でも、もう目を逸らせないよ?』


翔「次回、『守るための拳』――俺は、自分の過去と向き合う」

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