第37話「苦渋の決断」
教団での一件から数日後。
御堂の指示のもと、俺と澪は今、父親に会うため都内のホテルへ向かっていた。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていると、不意に昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
◇ ◇ ◇
「私も一緒に行くわ」
迷いのないその一言に、御堂は僅かに目を細めた。
「今回はその必要はありません。澪君には施設で待機していただきます」
その返答にも、澪は一歩も引こうとはしなかった。
「でも、翔が父親と会って精神的に不安定になった時、誰が止めるのかしら」
静かな口調だった。
けれど、その瞳に迷いはなく、真っ直ぐ御堂を見据えている。
「そちらの部下達だけで、本当に翔を止められるの?」
その問い掛けに、御堂はすぐには答えず、小さく目を伏せた。
やがて諦めたように息を吐くと、御堂は顔を上げた。
「……確かに、一理ありますね。澪君は現在、翔君の精神状態を最も近くで観察している人物でもある」
御堂は一度言葉を切ると、顎へ手を添え、小さく何かを考え込むように視線を落とした。
やがて頷き、改めて澪へ視線を向ける。
「万が一に備えるという意味では、同行していただいた方が合理的でしょう」
そこまで言うと、一拍置いて言葉を続ける。
「但し、こちら側からも数名の部下を同行させます。それが条件です」
「ええ、それで構わないわ」
◇ ◇ ◇
意識を現実へ戻す。
車内へ流れるのはエンジン音だけだった。
窓の外では高層ビル群や街灯が次々と後ろへ流れていくが、その景色を眺める余裕はなかった。
膝の上で組んだ手へ自然と力が入り、知らず知らずのうちに拳を握り締めている。
母親との過去を思い出し、教団で真実の一端へ触れたばかりだというのに、今度は父親と向き合わなければならない。
そんな俺の様子を察したのか、不意に助手席から穏やかな声が掛けられた。
「翔君。緊張していますか?」
不意に助手席から掛けられた声に顔を上げる。
振り返った御堂と目が合い、俺は苦笑混じりに肩を竦めた。
「……多少はな」
「無理もありませんね」
御堂はそれ以上踏み込むことなく、小さく頷くだけに留める。
その時、不意に御堂が耳元へ手を添えた。
イヤホン越しに何か連絡が入ったのだろう。
「……私です」
耳を傾けながら相手の報告を聞いていた御堂の表情が、ほんの僅かに険しくなる。
「分かりました。そのまま監視を継続してください」
短いやり取りを終えると通信は切れ、車内へ再び静寂が戻った。
その微妙な空気の変化を感じ取った俺は、思わず御堂へ視線を向ける。
「何かあったのか?」
「……少々、強硬派に動きがありましてね」
その一言に反応したのは、隣に座る澪だった。
「……強硬派?」
御堂は小さく息を吐くと、こちらを振り返ることなく言葉を続けた。
「あなた方が気にする必要はありません。こちらで対処します」
その口調に焦りはない。
だからこそ、かえって胸の奥に小さな違和感が残る。
本当に問題ないのなら、わざわざそう言い聞かせる必要などないはずだ。
窓の外では何事もないかのように街並みが流れていくが、胸の内へ芽生えた不安だけは、拭い去ることができなかった。
◇ ◇ ◇
車がゆっくりと速度を落とし、高級ホテルのエントランス前で停車する。
黒服が先に車を降りると、周囲へ鋭い視線を巡らせ、安全を確認した後で後部座席のドアを開けた。
俺と澪は車外へ足を踏み出す。
目の前にそびえ立つホテルは、都内でも有数の格式を誇るのだろう。
磨き上げられたガラス張りの外壁が朝の光を反射し、その堂々たる佇まいだけで場違いな場所へ来てしまったような気分になる。
ふと車内へ目を向けると、御堂は降りてくる気配を見せず、そのまま助手席へ腰掛けていた。
「……アンタは来ないのか?」
俺が問い掛けると、御堂は穏やかな笑みを浮かべたままこちらへ視線を向ける。
「ええ。私がいては話しづらいこともあるでしょう」
その言葉に、一瞬だけ返す言葉を失う。
御堂は小さく目を細めると、静かな口調のまま続けた。
「それに、用心に越したことはありませんからね。何かあれば、すぐに対応しますのでご安心ください」
そう言って軽く会釈すると、御堂は再び前方へ視線を戻した。
その横顔を見つめた後、俺は隣に立つ澪と小さく目を合わせる。
互いに無言のまま頷き合うと、入口付近で待機していた黒服達に促されるようにしてホテルの中へ足を踏み入れた。
ロビーの入り口を抜けると、豪華なシャンデリアが目に飛び込んでくる。
磨き上げられた大理石の床。
落ち着いた色合いで統一された内装。
ここが並の人間には一生泊まれないレベルのホテルだと俺でも分かる。
だがそこにいるのは一定間隔で配置された黒服達だけ。
どこにも一般客の姿は見当たらず、フロントすら無人だ。
まるでホテル全体が別の施設へ姿を変えてしまったかのような光景だった。
「……随分と物々しいな」
思わず漏らした呟きには、誰も答えなかった。
◇ ◇ ◇
最上階のランプが点滅して、ちん、とエレベーターの扉が開いた。
広々とした廊下の先には重厚な両開きの扉が見える。
廊下の左右には数名の黒服が立ち、その間を歩く俺たちを目線で追ってくる。
カーペットなのに、自分の足音がやたらと耳についた。
「ここだ」
短く告げられた言葉に、自然と喉が鳴った。
目の前にある扉一枚を隔てた先に、父親がいる。
「……」
何かが手に触れた。
澪の指だ。
無意識に握り締めていた手の力が抜ける。
細い指の冷たさを確かめながら、澪を見た。
――大丈夫?
その目の問いかけに俺は頷いて答えた。
ふ、と息を吐いて、澪の手を離す。
そして俺は、扉を押し開けた。
何もない、広い部屋だった。
部屋の奥、街を見下ろす大きな窓の前には、一人の男が背を向けて立っている。
あれが……?
鼓動が早まるのが分かった。
覚えていなければ知らない他人と同じ……そう思っていたはずなのに。
でももう、後戻りはできない。
澪と二人、黒服の視線を背中に受けながら近づくと、男はこちらへ振り返った。
初老の、男性だ。
短く整えられた黒髪には白いものが混じり、その顔には深い皺が刻まれている。
そして、その鋭い眼差しからは、有無を言わせない威厳が滲み出ていた。
険しい表情からは、生き別れの息子と再会した感動も驚きも読み取れなかった。
――この人が俺の父親……なのか?
「来たか……」
低く落ち着いた声だった。
歓迎でも拒絶でもない。
感情を押し殺したようなその一言だけが、静まり返った部屋へと溶けていく。
俺は息を吸い込み、目の前の男から視線を逸らさないまま問い掛けた。
「……アンタが、俺の親父なのか?」
答える前に、雅人の視線だけが俺の足元から顔へと動いた。
「そうだ……久しいな、翔」
……静寂。
言いたいことも聞きたいことも、いくらでもあったはずなのに。
口の開き方を思い出せないまま、俺は雅人を、その目を見続けた。
「……」
雅人も何も言わず、首を傾けて俺の隣、澪を見た。
「……君は?」
俺も澪を見る。
その視線と一瞬だけアイコンタクトを交わして、澪は雅人を見た。
「私は……翔の家族です」
その言葉で、不思議と俺の中の緊張も和らいだ気がした。
雅人はただ目を細め、ひと言。
「……そうか」
それだけ。
……いや、何だよ。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、あるいは何も言わない俺に業を煮やしたのか、雅人がため息を一つついた。
「翔……言いたいことがあるなら口に出せ」
その言葉、どこかで聞いたことがある。
そして頭の奥でぼやけた景色が浮かび上がってきた。
幼い頃の俺が、俯いたままその場へ立ち尽くしている。
何を叱られていたのかは思い出せない。
ただ、足が地面へ縫い付けられたように動かず、何も言い返せないまま黙り込んでいた。
【翔……言いたいことがあるなら口に出せ】
これは記憶――か?
「翔?」
心配そうな澪の声が耳へ届き、俺はようやく現実へ引き戻された。
「……いや、大丈夫だ」
俺は息を吸い込み、一度だけ拳を握り直す。
もう逃げるつもりはない。
聞かなければならない。
たとえ、その答えがどれほど残酷だったとしても。
「俺をNABに引き渡したのは……アンタだって聞いた。それは本当なのか?」
「……そうだ」
迷いのない返答だった。
言い訳も弁解もしない。
すると胸の奥へ押し込めていた感情が、一気に溢れ出してきた。
「……なんでだよ」
声が掠れていた。
「なんでそんなことしたんだよ!」
怒鳴り声の残響に、自分の荒い息遣いが混じった。
「アンタのせいで、俺は……!」
……俺は?
言葉を繋げられないまま、雅人が口を開く。
「……全ては、お前を思っての判断だった」
その一言で、胸の奥で燻っていた感情が完全に弾けた。
「ふざけんなよ!ならあんな連中へ渡したりしないだろ!」
「……変わらないな、お前は」
「何?」
「感情だけで物事を判断する。その癖は昔からだ」
【――この程度で満足するな】
【――また問題を起こしたのか】
【――失望したぞ】
【――期待した私が馬鹿だった】
「っ……」
こめかみを押さえながら、それでも俺は雅人から視線を逸らさなかった。
むしろ、その痛みを怒りの燃料にした。
隣に澪がいなければ、きっと言葉でなく拳が飛び出していた。
それを知るはずもなく、雅人は言葉を続ける。
「……お前は覚えていないだろう」
突然の雅人の言葉に、思わず眉をひそめる。
何を言い出すつもりなのか分からず、俺は黙って続きを待った。
「幼い頃から、お前は時折、別人のように口調や態度を変えていた。
ある時は、年齢に似合わぬほど落ち着いた口調で大人のように話し、ある時は妙に気高く振る舞う。
そして学校では、お前自身も覚えていない問題を何度も起こしていた」
まるで自分の知らない“俺”の話を聞かされているようで、戸惑いだけが胸の内へ広がっていく。
脳裏には断片的な記憶が浮かびかけるものの、それらは形を成す前に霧の中へ沈んでいった。
「当時の私は、それを思春期特有の反抗や成長過程の一つだと考えていた。
子どもの頃にはよくあることだと。時間が経てば自然と落ち着くものだと判断していた。
だから、特別気に留めることもしなかった。しかし、それは誤りだった」
そこで初めて、雅人の声色がほんの僅かだけ低くなる。
「お前の症状は治まらなかった。むしろ、日を追うごとに顕著になっていった」
「医師へ相談したのも、その頃だ。結果、お前は解離性同一性障害――いわゆる多重人格である可能性が高いと診断された」
多重人格。
その言葉自体に驚きはない。
だが、自分が幼い頃からそうだったと改めて突きつけられると、胸の奥へ鈍い重みが沈んでいく。
「そして既に人格は深く定着しており、通常の治療だけで改善できる段階ではない、とも言われた」
雅人は僅かに間を置くと、再び言葉を紡いだ。
「どうすればお前を救えるのか。その答えを探し続けていた頃、私の前へある団体が接触してきた。自分達なら、お前を救える可能性がある――そう告げてな」
そこまで聞いて、胸の奥を嫌な予感が静かに過ぎった。
「……それが、NABだったのか」
思わず漏れた俺の問いに、雅人は静かに頷いた。
「ああ。連中は全く別の架空の組織名を掲げ、お前を救うための研究機関だと説明していた」
そこまで聞いていた澪が、初めて静かに口を開く。
「……それでも、身元の分からない組織へ翔を預ける判断をしたんですか?」
澪の言葉に、雅人は肩をすくめた。
「当然、私も最初は疑った。身元の確認も行った。しかし、何も出てこなかった。一般人が疑って、その暗部に辿り着けるレベルではなかった」
理性で納得しそうになるのに、感情が追いつかない。
澪を見る。
ああ、頼む……。
目を開けて、こっちを見てくれ。
孤立無援になって、俺は何とか言葉だけを絞り出す。
「そう、だとしても……!」
「ああ、そうだ。だが問題は、家の中にもあった。詩織だ」
御門詩織――俺の母さんだった人。
「彼女は宗教へ深く傾倒していた。あの思想へ、お前を近づけるわけにはいかなかった。だからもう…当時の私には、そうするしかなかった」
その言葉に、すぐ返すことはできなかった。
俺は認めなければ、ならないのか?
俺の父親が、俺を救おうとしてくれていたことを。
僕『……よかった。ちゃんと伝わったんだね』
お嬢『ようやく親子として向き合えましたわ』
賢者『ですが、まだ終わりではありません』
悪の権化『ククッ……平穏なんて長く続かないよ』
戦闘狂『チッ、嫌な予感がしやがる』
翔「次回、『父と子』――この手を、離したくなかった」




