第38話「父と子」
「俺は……どうやって連れて行かれたんだ?」
その問いを口にした瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
――見覚えのない建物。
いや、違う。
見覚えがないんじゃない。
忘れていただけだ。
幼い俺が、父さんの手を握っている。
【……すぐ帰れる?】
不安げに尋ねる俺に、父さんは少しだけ間を置いて答えた。
【治療が終わればな】
その言葉に小さく頷いた俺は、繋いでいた手を離し、白衣を着た誰かに手を引かれて建物の中へ入っていく。
何度も振り返ったが、その度に見えたのは、同じ場所に立ち尽くし、ただ黙って俺を見つめ続ける父さんの姿だった。
◇ ◇ ◇
「――っ」
今のは記憶だ。
忘れていたはずの、あの日の光景。
「…思い出せたか?」
雅人の問いに、俺は小さく頷いて息を吐く。
「……ああ。だけど、聞かせてくれ……アンタは、その後どうしたんだよ」
「私は連中を信じ、その場を後にした。定期的に経過を報告すると約束されていたからな」
「それで……本当に連絡は来たのか?」
「最初のうちはな…だが、それは長くは続かなかった」
それまで終始変わらなかった表情に、ほんの一瞬だけ苦い色が差す。
「違和感を覚えた私は連絡を取ろうとした。しかし繋がることはなく、自ら施設へ赴いても門前払いされ続けた。連中に疑念を抱き始めた私は、独自に調査も試みた。だが、表の手段では何も掴めなかったのだ……最後は裏の人間を頼り、そこで初めて、自分が騙されていたことを知った」
何も言えなかった。
頭では理解できる。
けれど、その事実をどう受け止めればいいのか分からない。
自分の中で渦巻く感情を、どうこの人にぶつければいいのか――その答えだけが、どうしても見つからなかった。
『……でしたら、その役目は、わたくしが務めますわ』
胸の奥から、お嬢の穏やかでありながら芯の通った声が響く。
俺はゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……お嬢……頼む」
『お任せくださいまし』
優しく、それでいて揺るぎない返答。
その声を最後に、俺の意識はゆっくりと奥へ沈んでいく。
代わりに、身体の奥底から柔らかな光が溢れ出した。
白銀にも似た淡い輝きが全身を包み込み、まるで繭を作るように俺の姿を覆い隠していく。
突然の異変に、雅人が僅かに目を見開いた。
「……何だ、それは」
普段の冷静さを崩さぬ低い声。
それでも、その表情には隠し切れない動揺が滲んでいた。
やがて光が収束していく。
その中心に立っていたのは、先ほどまでそこにいた俺ではない。
気品ある佇まいで前を見据える一人の少女。
お嬢はスカートの裾をそっと摘み、優雅に一礼した。
『ごきげんよう、雅人様』
「……君は、いったい」
それまで冷静さを崩さなかった雅人にしては珍しく、その問いには困惑が滲んでいた。
『お嬢ですわ。もっとも、この姿でお会いするのは初めてですけれど』
その返答を聞いた雅人は、お嬢の姿を改めて見つめ直す。
幼い頃に見てきた人格交代とは明らかに異なる現象。
そして一つの可能性へ辿り着いたのか、ゆっくりと息を吐いた。
「……まさか、これが実験の影響なのか」
『ええ。流石は雅人様、お察しが良くて助かりますわ』
穏やかな口調だった。
それでいて、その一言には微かな皮肉が滲んでいるようにも聞こえた。
『さて、雅人様。少々、お聞きしたいことがございますの』
「何かね?」
『雅人様は翔様を愛していらしたのですか?』
「ああ、当然だ」
お嬢の問いに、雅人は表情一つ変えなかった。
『そうでしょうね。翔様を救おうとなさったことも、今のお話で理解は出来ましたわ』
そこまで言うと、お嬢は真っ直ぐ雅人を見据えた。
『ですが――本当に翔様を見ておりましたの?』
「……どういう意味だ」
僅かに眉をひそめる雅人へ、お嬢は言葉を続ける。
『雅人様はご趣味で映画をご覧になっていましたよね?』
「ああ。それがどうした」
『わたくしは、その映画の主人公達を元に、【こうなれば振り向いてもらえるのではないか】と翔様が考えた末に生まれた人格ですの』
「……何を、言っている」
流石の雅人も、その言葉には困惑を隠せなかった。
『翔様は幼い頃から、貴方様に見て欲しかったのです。だから貴方様のお好きなものを真似しようとなさった』
「……」
雅人は何も答えない。
お嬢はそんな彼を見つめたまま問い掛ける。
『それでも、貴方様は翔様を見ていたと仰いますの?』
「ああ。私は翔を見ていた」
即座に返ってきた答えだった。
だが、お嬢は首を横へ振る。
『でしたら――何故、翔様はそうまでして貴方様に見て欲しかったのでしょう』
その一言に、雅人は僅かに言葉を詰まらせた。
だが、すぐにお嬢を見据え返す。
「……だからといって、私がお前を見ていなかったことにはならない」
『そうでしょうか』
「私は私なりに翔を愛していた。私は父親としての責務を果たそうとしてきたつもりだ」
揺るぎない声だった。
お嬢はしばらく雅人を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。
『なるほど。でしたら、この話はわたくしだけでは結論が出ませんわね』
お嬢は小さく微笑むと、胸の奥へ向けて呼び掛けた。
『賢者様、お願いできますか?』
『承知しました』
賢者の落ち着いた声が響くと同時に、お嬢の身体が再び淡い光に包まれた。
「……また変わるのか」
雅人が思わず呟く。
やがて光が収束すると、そこに立っていたのは先程までのお嬢ではない。
知的な雰囲気を纏った青年――賢者だった。
『話は聞かせていただきました』
知性を感じさせる眼差しで雅人を見据えながら、賢者は続ける。
『私は賢者、貴方の期待から生まれた人格です』
「期待から生まれた人格?」
『ええ。翔は幼い頃より、貴方から優秀であることを求められてきました』
「それは親として当然のことだ」
『確かに、子へ期待を掛けること自体は間違いではありません。ですが、それはいささか行き過ぎたものではなかったですか?』
「……何が言いたい」
雅人は表情を崩さない。
だが、賢者もまた淡々と言葉を続けた。
『翔は何度も貴方の期待に応えようとしました。勉学も。振る舞いも。貴方の理想とする息子であろうと努力した。ですが、それでも貴方の満足は得られなかった』
「……」
『もっと優秀でなければならない。もっと結果を出さなければならない。いつしか翔はそう考え、自らを追い込みました』
静寂が落ちる。
雅人はしばらく何も言わなかったが、やがて口を開く。
「私は、そんなつもりでは――」
『でしょうね。貴方に悪意はなかったのでしょう。翔を思ってのこと。それも事実です。ですが、貴方が見ていたのは翔そのものではなく――"理想の息子"ではなかったのですか?それでもなお、貴方は翔を見ていたと言い切れますか?』
「……」
『それは、本当の愛情といえるのでしょうか?』
重い沈黙が落ちた。
雅人は何も答えない。
ただ視線を落としたまま、何かを考えるように黙り込んでいる。
そんな姿を見るのは初めてだった。
やがて雅人は小さく息を吐く。
「……そうか。私は、翔を見ているつもりだった。父親として愛しているつもりだった。
だが実際は、君の言う通りだったのかもしれんな」
落としていた視線をゆっくりと上げ、雅人は賢者を見る。
「NABに渡す以前に、この悲劇を生んだ原因は私にあったのだな」
『貴方にすべての責任があったわけではありません。母親からの虐待などもありましたからね。人格形成に影響を与えた要因は一つではありません。ですが――』
賢者は眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
その瞳は少しも逸れることなく雅人を見据えていた。
『貴方が翔へ与えた影響もまた、確かに存在していたのです』
「……」
雅人はしばし賢者を見つめていた。
やがて、その口が静かに開く。
「私は――」
『その先は、翔へ直接お伝えください』
賢者の声が、雅人の言葉を遮った。
『翔、後はお願いします』
その言葉を最後に、賢者の身体が光に包まれていく。
そして身体の主導権が戻ってきた感覚を確かめながら、俺は顔を上げる。
視線の先には雅人がいた。
俺を見つめるその表情は、先程までとはどこか違って見えた。
「……翔。すまなかった」
その言葉はあまりにも唐突で。
けれど、それ以上に真っ直ぐだった。
「……今更だろ」
「ああ」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで十分だった。
「……もう、責める気はねぇよ」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に口から出た。
過去は消えない。
無かったことにもならない。
それでも、過去に囚われる気持ちは不思議と湧いてこなかった。
「俺は俺の人生を生きる。だから、これは俺が背負っていく」
静かに告げると、雅人は何も言わなかった。
ただ、その表情から僅かに力が抜けたように見えた。
「……翔」
雅人は何かを言おうとしているようだった。
だが、言葉は続かない。
俺は小さく息を吐く。
「……父さん」
その一言に、雅人の目が僅かに見開かれた。
そして――ほんの少しだけ、表情が和らぐ。
やがて雅人はゆっくりと手を差し出す。
俺もまた、その手へ向けて腕を伸ばそうとした。
――その瞬間だった。
僕『どうして……僕の力が……』
戦闘狂『そんなこと気にしてる暇はねぇ!』
お嬢『今はお父様をお守りすることが先ですわ!』
賢者『急がねば手遅れになります』
悪の権化『ククッ……運命って、本当に残酷だねぇ』
翔「次回、『凍てつく襲撃』――父さん、俺は!」




