第36話「束の間の安らぎ」
礼拝堂での騒ぎを受けてか、施設内は慌ただしい空気に包まれていた。
信者達があちこちを行き交い、開門派や粛清派の人間達も慌ただしく動いている。
そんな混乱に紛れるように、俺と澪は観測派の女スパイに案内され、人気の少ない通路を進んでいた。
角を曲がるたびに周囲へ視線を走らせ、誰もいないことを確認してから再び歩き出す。
やがて施設の裏手へ辿り着くと、外灯の明かりも届きにくい場所へ一台の黒い車が停まっていた。
車体へ寄り掛かっていた黒服の男が俺達へ気付き、小さく会釈する。
「お待ちしておりました」
短くそう告げると、男は後部座席のドアを開いた。
俺は澪と顔を見合わせ、小さく頷き合う。
もう、この場所に留まる理由はない。
静かに車へ乗り込むと、澪もその後へ続いて隣の席へ腰を下ろす。
女スパイは最後に周囲を一瞥した後、自らは乗車せず、一歩だけ後ろへ下がった。
「私はここまでです」
その言葉に、俺は開いた窓越しに彼女へ視線を向ける。
教団へ潜入してから彼女には何度も助けられた。
彼女がいなければ、ここまで辿り着くことすらできなかっただろう。
「……ありがとうございました」
短く礼を告げると、女スパイは小さく頭を下げた。
やがてドアが閉まり、エンジン音が夜の静寂を小さく震わせる。
車は走り出し、福音の門の施設を後にした。
窓の外へ目を向けると、夜闇の中でも巨大な聖堂だけははっきりとその姿を浮かび上がらせていた。
高くそびえる尖塔も、白く輝く外壁も、幻想的に灯る明かりも、まるで何事もなかったかのように静かに佇んでいる。
胸の奥には、今も言葉にできない感情が静かに渦巻いていた。
幼い頃の記憶や母親との真実。
そして、『僕』が生まれた理由。
それでも、不思議と後悔だけはなかった。
遠ざかっていく聖堂を見つめながら、俺は息を吐く。
もう振り返ることはない。
しばらくの間、車内にはエンジン音だけが静かに響いていた。
運転席と助手席に座る黒服達は一言も口を開かない。
バックミラー越しにこちらを窺うこともなく、ただ黙々と車を走らせている。
その沈黙がかえって居心地の悪さを際立たせていた。
窓の外へ流れていく夜景をぼんやりと眺めていると、不意に隣から小さな声が聞こえた。
「……聞いてもいい?」
そう口にした澪は、それ以上すぐには言葉を続けなかった。
俺の表情を窺うように視線を向け、今この話題へ踏み込むべきか迷っているのだろう。
どこか遠慮がちな空気が、その沈黙から静かに伝わってきた。
「何を?」
「礼拝堂で何があったのか」
詩織と向き合ったあの時間、澪は意識を失っていた。
目を覚ました時には、全てが終わっていたのだから当然だろう。
俺はすぐには答えられなかった。
窓へ映り込む自分の顔を見つめながら言葉を探す。
「……思い出したんだ」
その一言に、澪は何も返さない。
急かすことも、続きを促すこともなく、ただ静かに俺の言葉を待っていた。
「全部じゃない。でも、一番知りたくなかったことだけは思い出した」
喉の奥が少しだけ詰まる。
それでも、不思議と口にすることへの抵抗はなかった。
「俺は、小さい頃……母さんに虐待されてた」
車内へ再び静寂が落ちる。
走行音だけが一定のリズムで耳へ届く中、隣から手が伸びてきた。
そっと重ねられた温もりに視線を向けると、澪は何も言わず、ただ静かに俺の手を握っていた。
その沈黙が、今は何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
車が停止した振動に、小さく身体が揺れる。
窓の外へ目を向けると、観測派のプレハブ施設が夜闇の中へ静かに佇んでいた。
「到着しました」
運転席の黒服が短く告げる。
俺と澪は顔を見合わせ、小さく頷き合うと車を降りた。
夜風が頬を撫でる。
教団の張り詰めた空気とは違う。
無機質なプレハブが並ぶだけの景色に安らぎを覚える自分がいることへ、思わず苦笑が漏れた。
案内されるまま施設の中へ入ると、見慣れた部屋の扉が開く。
そこには、以前と変わらぬ様子でコーヒーカップを片手に座る御堂の姿があった。
「お帰りなさい」
穏やかな声だった。
まるで俺達が危険な宗教施設へ潜入していたことなど、最初からなかったかのような落ち着きぶりだ。
「……あんたが望んだ通り、母親と会ってきたぜ」
「それは何よりだ。それで……どうだった?」
御堂の短い問い掛けに、俺は少しだけ視線を伏せた。
礼拝堂での光景が脳裏をよぎる。
「母さんとの過去を思い出した」
その瞬間、普段は滅多に表情を変えない御堂の目が僅かに見開かれる。
「おお……!」
興味を隠し切れない様子で僅かに身を乗り出すと、そのまま畳み掛けるように言葉を続けた。
「では、能力やお身体に何か変化は見られたかね?」
「いや……特にはないけどよ」
そう答えると、御堂は顎へ手を添え、何かを考え込むように視線を落とす。
「ふむ……そうか」
「心配するのは俺の能力の方かよ」
皮肉混じりにそう言うと、御堂は顔を上げる。
「うむ。君は『プロジェクト・キメラ』の唯一の成功者だからね。観測派として些細な変化も見過ごす訳にはいかないのだよ」
その言葉に嘘はないのだろう。
だからこそ、この男は厄介だった。
感情ではなく事実を積み重ねて物事を判断し、その先にある結果だけを淡々と見据えている。
その瞳に浮かんでいるのは、俺という人間への気遣いじゃない。
研究者としての興味――ただそれだけなのだろう。
「しかし……だとすれば……」
御堂は顎へ手を添え、何かを考え込むように小さく呟いた。
その声音はあまりにも小さく、最後までは聞き取れない。
「なんだって?」
思わず聞き返すと、御堂は我に返ったように顔を上げた。
「……いや、こちらの話だよ」
それ以上は語ろうとせず、いつもの穏やかな表情へ戻る。
その様子に少し引っ掛かるものを覚えたが、追及したところで答えてくれる相手ではないだろう。
やがて御堂は軽く咳払いを一つすると、改めて俺達へ向き直った。
「今回の件については、こちらでも改めて整理と分析を行う」
淡々とした口調のまま言葉を続ける。
「お二人には追ってご連絡をしよう。それまではしばし休息を与えよう」
ようやく解放されるのかと思い、小さく肩の力を抜きかけた、その時だった。
御堂が何かを思い出したように静かに口を開く。
「ああ、一つだけ…逃げようなどとは考えないことです」
その一言に、思わず眉をひそめた。
御堂の視線は俺ではなく、隣に立つ澪の手首へ向けられている。
そこには観測派によって取り付けられた生体モニター付きのブレスレットが、室内の照明を受けて静かに鈍く光っていた。
「言うまでもないとは思いますが、そのブレスレットの存在をお忘れなく」
穏やかな笑みを浮かべたまま告げられたその言葉は、脅しというより事実の確認に近い。
だからこそ余計に質が悪かった。
俺は何も答えず、ただ小さく息を吐く。
教団を後にした今もなお、俺達は観測派の掌の上にいる。
その現実だけが、静かに胸へ重くのしかかっていた。
◇ ◇ ◇
案内された部屋へ入ると、俺はようやく張り詰めていた力を抜いた。
室内は簡素な造りで、ベッドが二つと小さな机が置かれているだけだった。
「なんか、疲れたわね……」
澪はそのまま自分のベッドへ腰を下ろし身体を預ける。
「ああ……そりゃあんな目に遭ったんだし、疲れるさ」
苦笑混じりに答えながら、俺も向かいのベッドへ腰を下ろした。
教団へ潜入してから今日まで、たった数日しか経っていない。
それなのに重い出来事ばかりだったのだから、疲れない方がおかしかった。
「そうね。でも、翔こそ疲れてるでしょ?私を助けるために必死に戦ってくれたんだから」
澪は少しだけ申し訳なさそうに微笑みながら言う。
「戦ったのは俺じゃなくて、こいつらだけどな」
そう言って、自分の頭を人差し指で軽く叩く。
「そうね。みんなにも助けられたわね」
澪は優しく微笑みながら、小さく頷いた。
「あの子達がいなかったら、私も今こうしてここにはいなかったと思う」
その言葉を聞き、俺も自然と笑みを浮かべる。
けれど、その穏やかな空気は長くは続かなかった。
澪も同じことを考えていたのだろう。
ふと左手首へ視線を落とすと、生体モニター付きのブレスレットが静かに光を放っている。
「……でも、まだ安心はできないのよね」
小さく零れたその一言に、俺も頷く。
教団を離れたとはいえ、俺達はまだ観測派の管理下に置かれている身だ。
御堂の言葉も、このブレスレットも、それを嫌というほど思い出させてくる。
「ちょっとくらい気を緩めてもいいんじゃないか?」
冗談半分にそう言ってみたものの、澪は静かに首を横へ振った。
「そういう訳にはいかないわ。観測派の連中だって、何をしてくるか分からないもの」
真剣な口調だった。
その言葉を聞いてしまえば、軽口を叩いた自分の方が場違いに思えてくる。
「それは……そうだけどよ」
俺は言い返せず、苦笑混じりに肩を竦めた。
部屋の中へ再び静かな空気が流れる。
その沈黙を破るように、不意に頭の奥から聞き慣れた声が響いた。
『……翔』
控えめで、どこか遠慮がちな呼び掛け。
その声だけで、誰なのか分かった。
(どうした?僕)
頭の中で問い返すと、少し間を置いてから、おずおずとした声が返ってくる。
『あのね……少しだけ、代わってもいい?』
(どうしたんだ、急に……いいけどさ)
思わず眉をひそめる。
何か理由があるのだろうか。
そんな考えが頭を過ったが、問い詰める気にはなれなかった。
『うん……ちょっと』
それだけ言うと、僕はまた口を閉ざした。
「どうしたの?」
黙り込んでしまった俺を見て、不思議そうに澪が首を傾げる。
「ああ、悪い。ちょっと代わるわ」
軽く頭を掻きながら、小さく息を吐いた。
「えっ?」
突然の言葉に、澪は驚いたように目を丸くする。
その反応を最後に、俺は意識を奥へ沈めていった。
身体の感覚が少しずつ遠のき、代わるように別の意識が前へ出てくる。
『……やぁ、澪さん』
僕の控えめな挨拶に、澪は一瞬だけ目を丸くした。
けれどすぐに表情を和らげ、小さく微笑む。
「……僕くんだったのね」
『うん、驚かせてごめんね?』
申し訳なさそうに視線を伏せる僕を見て、澪は首を横へ振った。
「いいのよ。それで、どうしたの?」
優しく問い掛けられた僕は、すぐには答えなかった。
何かを言おうとしては口を閉じ、視線を泳がせて俯いてしまう。
言葉にならない様子を見て、澪はどこか察したように表情を和らげた。
「……こっちにおいで?」
澪はそう言うと、ベッドへ腰掛けたまま少しだけ身体をずらした。
僕がおずおずと近付いてくるのを確認すると、今度は自分の膝を軽くぽんぽんと叩く。
「疲れたでしょ?」
その仕草を見た僕は、ぴたりと足を止めた。
『えっ……』
思いもよらなかったのだろう。
驚いたように目を丸くし、澪とその膝を何度も見比べている。
けれど、澪は何も言わなかった。
急かすことも、無理に促すこともせず、ただ穏やかな眼差しのまま僕を待っている。
その静かな優しさに背中を押されるように、僕は恐る恐る歩み寄り、澪の膝へ頭を預けた。
『……あったかい』
ぽつりと零れた呟きに、澪は優しく目を細める。
「そう?」
『うん……こんなの、初めてかも』
照れくさそうにそう答える僕の髪を、澪はゆっくりと撫でる。
「助けてくれたご褒美よ」
その言葉に、僕は驚いたように小さく身体を震わせた。
『そんな……僕はただ、やれることをやっただけで』
どこか申し訳なさそうに俯きながら、小さく首を横へ振る。
すると澪は困ったように微笑み、撫でる手を止めることなく静かに口を開いた。
「遠慮はナシ。今はただ、甘えていいのよ」
『……いいの?』
「ええ」
恐る恐る問い掛ける僕に、澪は迷うことなく頷いた。
「あなたも、大切な家族なんだから」
その一言を聞いた瞬間、僕は何も言えなくなった。
やがて、胸の奥から込み上げてくるものを噛み締めるように小さく目を閉じ、安心したように澪の膝へ頬を預けた。
『……ありがとう、澪さん』
掠れた声で紡がれたその言葉に、澪は何も返さない。
ただ優しく微笑みながら、幼い子どもをあやすように僕の髪を静かに撫で続けている。
『……あれ?』
不意に、身体の奥で小さな違和感が走る。
まるで見えない何かに腕を掴まれ、無理矢理引き戻されるような感覚。
『えっ、ま、待っ――』
戸惑う間もなく意識が揺らぎ、景色がぐにゃりと歪む。
「……え?」
気付けば身体の主導権は俺へ戻っていた。
目の前には驚いた表情の澪。
そして自分の頭は、変わらず彼女の膝の上へ預けられている。
「翔?」
困惑したように名前を呼ばれ、俺は小さく瞬きを繰り返した。
状況を理解できないまま、頭の奥へ意識を向ける。
(……僕。もういいのか?)
『えっ……あ、あの……』
返ってきたのは、僕自身も状況が飲み込めていないような、戸惑いに満ちた声だった。
「どうしたの?」
心配そうに覗き込んでくる澪へ、俺は小さく首を横へ振る。
「……いや、なんでもない」
そう答えるしかなかった。
今の出来事をうまく言葉にできず、俺はただ小さく首を傾げることしかできなかった。
僕「翔……次は、お父さんと会うんだね」
お嬢「どんな真実が待っていようとも、臆してはなりませんわ」
賢者「感情に囚われず、常に冷静にです」
悪の権化「ククッ……どんな真実が飛び出すか、楽しみだねぇ」
戦闘狂「ケッ、受け止める覚悟はできてるんだろうな?」
翔「……ああ。もう逃げない」
翔「次回、『苦渋の決断』――父さん、本当のことを聞かせてくれ」




