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第35話「母との決別」

禍々しい笑みを浮かべた悪の権化が、ゆっくりと右手を持ち上げる。

その手が御門詩織の肩へ静かに触れた瞬間だった。


「……っ!」


詩織の身体がびくりと震える。

その表情が苦悶に歪み、頭を押さえるように両手を添えた。


「ぐっ……ぁ……!」


一歩、また一歩と後ずさる。

その姿を見て、思わず頭の奥へ問い掛ける。


「悪……何をしたんだ?」


『ボクの力で、彼女が自分の奥底へ押し込めていた記憶と感情を、ちょっと揺り起こしただけさ』


悪の権化はまるで他人事のように肩を竦め、愉快そうな笑みを浮かべる。

その視線の先では、御門詩織が苦しげに頭を押さえ、肩を大きく震わせていた。

まるで固く閉ざされていた扉が無理やりこじ開けられたかのように、その表情は見る見るうちに歪んでいく。


『ククッ……これで思い出せるかな?』


その囁きが引き金になったかのように、詩織の唇が小さく震えた。


「違う……違います……」


掠れた声が静まり返った地下礼拝堂へ零れ落ちる。

首を横へ振り、何かを振り払おうとするように両手で頭を抱え込む。


「私は……私は……」


穏やかだった面影は既になく、その瞳には隠し切れない動揺と混乱だけが浮かんでいた。


『じゃ、翔。後はヨロシク~』


軽い調子でそう言い残した瞬間、禍々しい気配が静かに薄れていく。

それと入れ替わるように自分自身の感覚がゆっくりと戻ってくる。


目の前では、詩織がその場へ崩れ落ちそうになりながらも必死に身体を支えていた。

肩は小刻みに震え、乱れた呼吸だけが静まり返った地下礼拝堂へかすかに響いている。


「母さん……?」


自然と口をついて出た呼び掛けに、詩織の身体がびくりと跳ねた。

ゆっくりとこちらへ顔を向ける。

そこにあったのは、先程まで大司教として浮かべていた穏やかな表情ではない。

激しく揺れ動く瞳と、歪んだ顔だけだった。


「触るな!」


鋭い叫び声が礼拝堂へ響き渡り、思わず伸ばしかけた手が止まる。

しかし、その叫びはそこで終わらなかった。


「近づくな!」

「静かにしろ!」

「手を出すな!」


感情のまま吐き出される拒絶の言葉が、堰を切ったように次々と溢れ出していく。

それは先程まで戒律として俺たちへ向けられていたものと同じはずなのに、今は命令でも術式でもない。

理性を失った末に吐き出された、生々しい拒絶だった。


「逃げるな!」

「私の目を見ろ!」


頭を抱えたまま首を振り、詩織は何かを振り払うように苦しみ続ける。

その姿を見つめるうち、胸の奥で言いようのない違和感がゆっくりと広がっていく。


――知っている。

――この言葉を、俺は知っている。

――どこで聞いた。

――いつ聞いた。


思い出そうとすればするほど、胸の奥がざわつき、頭の奥が鈍く痛む。


「……母さん」


もう一度だけ、小さく呼び掛ける。

その一言が最後の引き金になった。


「うるさいッ!!」


詩織は耳を塞ぐように頭を抱え込み、そのまま半ば悲鳴にも似た声を張り上げる。


「なんでアンタは――!!」


言葉は途中で詰まり、喉の奥から苦しげな息だけが漏れた。

それでも感情の奔流は止まらない。

震える唇が無理やり次の言葉を紡ぎ出す。


「アンタなんか――」


呼吸が乱れ、肩が大きく上下する。

そして、押し殺していた全てを吐き出すように叫んだ。


「生むんじゃなかった!!」


その叫びが地下礼拝堂へ響き渡った瞬間、世界が止まった。

呼吸が止まり、心臓が大きく脈打つ。

胸の奥へ押し込められていた何かが音を立てて砕け散った。


「――っ!」


激しい頭痛が走る。

視界が歪み、目の前の景色が砕け散るように崩れていく。

そして、忘れたはずの過去が断片となって押し寄せた。


薄暗い部屋。

部屋の隅で膝を抱え、小さく身体を震わせている幼い俺。


【触るな!】


怒鳴り声と同時に、伸ばしかけた腕を強く払いのけられる。

勢いのまま小さな身体は床へ転がり、痛みよりも恐怖で声が詰まった。


【近づくな!】


怯えながら一歩踏み出した瞬間、胸元を突き飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられる。


【静かにしろ!】


乾いた音が響き、頬に熱が走る。

何が悪かったのか分からない。

分からないまま、ただ涙だけが零れていく。


【手を出すな!】

【逃げるな!】

【こっちを向きなさい!】


拒絶と叱責の言葉が何度も何度も浴びせられ、その度に小さな身体は震え、心は少しずつ擦り切れていった。


震えながら顔を上げる。

そこにあったのは優しい母親の笑顔ではない。

冷たく、怒りだけを宿した瞳。


【アンタなんか――生むんじゃなかった!】


怖い。

痛い。

苦しい。

助けて。


その願いが心の奥底から溢れ出した、その時だった。


『……大丈夫』


優しい声が聞こえた。

真っ暗な世界の中へ、小さな光が灯る。


『僕がいるから』

『僕が代わるよ』

『だから、もう泣かなくていい』


そっと差し伸べられた手を握った瞬間、目の前が白く染まり、恐怖も痛みも遠ざかっていった。

真っ白に染まった視界がゆっくりと色を取り戻すと、そこには先程と同じ薄暗い部屋が広がっていた。


けれど、目の前に立つ母さんの表情はさっきまでとはまるで違う。

怒りに歪み、俺へ拒絶の言葉を浴びせていた顔ではない。

どこか恍惚とした笑みを浮かべたまま、ゆっくりと幼い俺の肩へ手を置き、まるで大切な宝物でも見つめるような眼差しを向けていた。


『あなたは特別な存在なのよ』


穏やかな声だった。

それなのに、その言葉は妙に耳へまとわりつき、背筋をぞくりと震わせる。


『門へ至ることのできる、選ばれた子』

『人々を救済へ導く、大切な存在』


何度も、何度も。

呪文のように繰り返されるその言葉を、幼い俺はただ俯いたまま聞いていた。


――ガンッ。


不意に何かが床へ落ちる音が響く。

その音を境に景色が大きく揺らぎ、薄暗い部屋は砕け散る硝子のように崩れ始めた。


視界が再び白く染まり、次の瞬間には地下礼拝堂へ引き戻されていた。

目の前の詩織を見つめながら、胸の奥で一つの確信が静かに形になっていく。


そうか。

俺は幼い頃から、母さんに虐待を受けていた。


耐え切れなくなった心は、自分自身を守るために別の人格を生み出した。

あの優しい『僕』は、あの日生まれたんだ。


……認めたくなかった。

頭では理解している。

けれど、心のどこかが必死に否定している。

それでも、押し寄せる記憶は残酷なほど鮮明で、俺に逃げ道を与えてはくれなかった。


やがて母さんは宗教へとのめり込み、その思想を俺へ植え付け始めた。


忘れたかった。

いや、忘れることでしか生きられなかった。


だから、自分の手で心の奥底へ閉じ込めた。

母さんとの記憶を――今、思い出した。


『……翔』


不意に、頭の奥から僕の遠慮がちな声が聞こえてくる。


『……ごめんね』


小さな謝罪に、胸が締め付けられる。


「……なんで謝るんだよ」


絞り出すように問い返すと、僕は少しだけ言葉を探すような間を置いてから静かに口を開いた。


『僕は……知ってた。翔くんが何をされてきたのかも、どうして僕が生まれたのかも』


その告白に、頭の奥から賢者の静かな声が重なる。


『以前にもお話ししたように、翔自身が受け止められない情報は、私たちも口にできないようです』


賢者は落ち着いた口調のまま、事実だけを淡々と告げた。


『それが、私たち人格に課せられた制約なのでしょう』


静かな説明を聞き終えた瞬間、不思議と胸の中に引っ掛かっていたものがすっと消えていく。


「……なら、やっぱり僕は悪くねぇよ」


責める気持ちなんて、最初からどこにもなかった。

むしろ、幼い頃のあの恐怖も苦しみも、一番近くで抱え続けていたのは僕だったのだ。

そう思うと、胸の奥が締め付けられる。


「ありがとな……」


返事はない。

けれど、頭の奥からどこか安堵したような、柔らかな温もりだけが静かに伝わってきた。

その沈黙を破るように、お嬢の穏やかな声が響く。


『わたくし達も、まだお話しできない記憶はございますわ』


その一言だけで十分だった。

胸の奥には、まだ開かれていない扉が残っているのだと、自然に理解できた。


『ああ、そん時が来ても壊れんじゃねぇぞ?』


ぶっきらぼうな戦闘狂の声が続く。

励ましているつもりなのか、それとも挑発しているだけなのか。

その境界は相変わらず曖昧だったが、不思議と嫌な気はしなかった。


『ククッ……ボクはそれを期待してるんだけどねぇ』


最後に聞こえてきたのは、悪の愉快そうな笑い声。


『残りの記憶まで辿り着いた時、君がどんな顔をするのか……楽しみで仕方ないよ』


相変わらず性格の悪い言葉だった。

それでも今だけは、その声に飲み込まれることはない。


俺はゆっくりと顔を上げる。

視線の先には、なおも苦悶の表情を浮かべ、頭を押さえ続ける御門詩織の姿があった。


その痛々しい姿を静かに見つめていても、胸の奥から怒りや憎しみが込み上げてくることはない。

ただ言葉では言い表せないほど複雑な感情だけが静かに渦巻いていた。


やがて俺はゆっくりと視線を外し、そのまま踵を返す。

もう、この場所で交わす言葉は残っていない。


祭壇へ歩み寄ると、そこには変わらず静かに眠る澪の姿があった。

乱れた様子はなく、穏やかな寝息だけが小さく聞こえてくる。


その姿を目にした瞬間、張り詰めていた心がほんの少しだけ和らいだ。

俺はそっと肩へ手を置き、小さく名前を呼ぶ。


「澪」


返事はない。

もう一度だけ、今度は優しく肩を揺する。


「……澪、起きろ」


その呼び掛けに応えるように、長い睫毛がわずかに震えた。

ゆっくりと瞼が開き、焦点の定まらない瞳が彷徨ったあと、やがて俺の姿を映し出す。


「……翔?」


「大丈夫か?」


問い掛けると、澪はまだ状況を整理しきれていない様子で小さく瞬きを繰り返し、それから静かに頷く。


「……うん」


短い返事を聞き届けた俺は、そっと右手を差し出した。


「行こう」


澪は何も尋ねなかった。

ただ俺の手を静かに握り返し、小さく頷くと、その手を借りてゆっくりと立ち上がった。


まだ完全に力は戻っていないのだろう。

僅かによろめいた身体を、俺は咄嗟に支えた。


「大丈夫か?」


「……うん。ありがとう」


小さく微笑む澪の表情を見届けると、俺も静かに頷く。

祭壇を離れ、重厚な扉の前まで辿り着く。


背後ではなおも詩織の苦しげな声が微かに聞こえていた。


「違う……私は……」


掠れたその声に、俺はゆっくりと立ち止まる。


振り返ることはしない。

もう、見る必要はなかった。

胸の奥へそっと息を落とし、誰にも聞こえないほど小さく心の中で呟く。


――さよなら、母さん。


それは自分自身で終止符を打つための別れの言葉だった。


静かに目を閉じ、再び前を向く。

もう振り返らない。

俺は澪と共に一歩を踏み出し、そのまま地下礼拝堂を後にした。

澪「翔、本当にお疲れ様」


翔「俺だけじゃない。みんなのおかげだ」


僕『ぼ、僕も……?』


澪「もちろん。あなたも大切な家族なんだから」


翔「次回、『束の間の安らぎ』――優しさは、心を癒してくれる」

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