第34話「母の戒律」
重い石扉へ手を掛け、力を込めて押し開ける。
鈍い音を響かせながらゆっくりと開いていく扉の先には、静寂だけが支配する地下礼拝堂が広がっていた。
薄暗い空間の中央――祭壇の上には、静かに横たえられた澪の姿がある。
胸は微かに上下しているが、目を閉じたまま身じろぎ一つしていない。
その傍らには一本の杭が静かに置かれていた。
嫌な予感が胸を締め付ける。
「澪……!」
思わず名を呼ぶものの、返事はなく、静まり返った礼拝堂へ虚しく声だけが溶けていった。
祭壇の前では、詩織が両手を胸の前で組み、祈りを捧げている。
純白の法衣を纏ったその姿は神々しいほどに静かで、まるで一枚の宗教画を切り取ってきたかのようだった。
やがて祈りを終えた彼女は、ゆっくりと瞳を開き、穏やかな所作でこちらへ振り返る。
「お待ちしておりました」
落ち着いた声音には敵意も焦りも感じられない。
まるで俺がここへ辿り着くことさえ、最初から分かっていたかのように、彼女は静かに俺を見つめていた。
「……澪をどうするつもりだ」
問い掛ける自分の声は、思っていた以上に低く、掠れていた。
「澪さんは、貴方を繋ぎ止めている存在です」
詩織は祭壇へ横たわる澪へ静かに視線を向ける。
まるで目の前にいるのが一人の人間ではなく、取り除くべき障害物であるかのように、あまりにも穏やかな声で言葉を紡いでいく。
「彼女という楔がある限り、貴方は門へ辿り着けません」
淡々と告げられたその言葉に、胸の奥がざわついた。
「彼女から解放された時、貴方は人々を救済へ導く存在となるでしょう」
静寂に包まれた地下礼拝堂へ、その声だけが静かに響いていく。
――そのためなら、澪を犠牲にするというのか。
以前、詩織が口にしていた『特別な存在』。
その言葉の意味を理解した上で、胸の奥から込み上げてきたのは悲しみではない。
どうしようもない怒りだった。
拳を強く握り締め、爪が掌へ食い込む。
それでも痛みなど感じないほど、目の前の思想はあまりにも非人道的だった。
「そんな存在になるつもりはない」
「彼女は、貴方を縛る鎖なのですよ?」
その一言が、胸の奥へ静かに突き刺さる。
俺は拳を震わせながら、首を横に振った。
「違う!」
彼女は澪を『鎖』と呼び、迷うことなく切り捨てようとしている。
しかし、俺にとって澪はそんな都合のいい言葉で片付けられる存在じゃない。
共に過ごした日々も、支えてくれた時間も、交わした言葉も、その全てが俺の中で確かな絆になっている。
「澪は、俺の家族だ!アンタがその気なら、力尽くでも取り戻してみせる!」
迷いはない。
たとえ相手が母親だとしても、澪を犠牲にしてまで受け入れられる救済など存在しない。
俺の覚悟を真正面から受け止めた詩織は、それでも表情一つ変えず、ほんの僅かに目を細めるだけだった。
「よいでしょう。ならば見せてください。貴方の秘められし力を」
その声音は驚くほど穏やかで、怒りも失望も感じさせない。
むしろ、長く待ち望んでいた答えを聞けたことを喜んでいるようにさえ見えた。
『なら、遠慮なくいかせてもらうぜ!』
高らかな笑い声と共に、身体の主導権を握った戦闘狂が石床を蹴る。
爆発的な脚力で一気に距離を詰め、その拳を詩織へ向けて振り抜こうとした。
「──手を出してはいけません」
詩織は避ける素振りすら見せず、穏やかな声音でただ一言だけを告げる。
次の刹那、何もなかった空間が淡く揺らぎ、眩い光が一本の線となって走った。
『……っ!?』
戦闘狂が反応するよりも早く、その光は鞭のようにしなりながら身体を横薙ぎに打ち据えた。
轟音と共に吹き飛ばされた戦闘狂は、そのまま礼拝堂の壁際まで弾き飛ばされる。
『チッ……何だ今のは』
瓦礫を払いながら立ち上がった戦闘狂が舌打ちを漏らす。
「大丈夫か!?」
思わず頭の奥で呼び掛けると、返ってきたのは不敵な笑いを含んだ声だった。
『どうってことねぇ!』
その言葉を聞いた直後、祭壇の前へ静かに立つ詩織が小さく口を開く。
「──逃げてはいけません」
穏やかな声音と共に、何もなかった空間へ淡い光が集まり始める。
すると幾筋もの光が鋭い刃となって宙へ現れ、その切っ先を真っ直ぐ戦闘狂へ向けた。
『チッ!』
反射的に横へ駆け出す。
しかし、光刃は勢いを失うことなく軌道を変え、獲物を追うように戦闘狂の後を追従してきた。
『追っかけてきやがんのか!』
距離を取っても振り切れない。
そう判断したその時、頭の奥からお嬢の凛とした声が響く。
『戦闘狂、変わりなさい!』
身体の主導権が滑らかに切り替わる。
振り向きざま、お嬢の手へ深紅の粒子が集束し、一挺のショットガン――ウィンチェスターM1887が生成された。
『そこまでですわ!』
轟音と共に放たれた散弾が光刃へ正面から叩き込まれ、眩い閃光を散らしながらそれらを次々と撃ち砕いていく。
お嬢は砕け散った光刃を一瞥すると、手にしていたウィンチェスターM1887を深紅の粒子へと還元した。
そして新たに一挺のリボルバー――S&W M29を生成して静かに詩織へ照準を合わせた。
祭壇の前へ立つ詩織は、その様子を見ても身じろぎ一つしない。
ただ穏やかな表情のまま、静かに口を開いた。
「──静かにしなさい」
その言葉を聞いても、お嬢は一切躊躇わなかった。
『残念ですが、お断りですわ』
引き金が立て続けに引かれ、放たれた弾丸が一直線に詩織へ襲い掛かる。
しかし、詩織を中心として目に見えない衝撃が爆発するように広がる。
飛来していた弾丸は全て軌道を乱されて明後日の方向へ弾き飛ばされた。
しかも衝撃はそれだけに留まらない。
礼拝堂全体を薙ぎ払うように押し寄せた見えない力が、お嬢の身体までも容赦なく飲み込み、その華奢な身体を大きく吹き飛ばした。
『きゃあっ!なんですの、今の……』
困惑を滲ませた声が頭の奥へ響く。
その直後、落ち着いた声が静かに割って入った。
『お嬢、私が対応してみます』
身体の主導権が賢者へ移り変わり、手の中へ一冊の魔導書が現れる。
ゆっくりと頁を開いた、その瞬間だった。
「──私の目を見なさい」
詩織の穏やかな声が礼拝堂へ響く。
賢者は反射的に視線を逸らした。
術式を読む以上、視界を封じられるわけにはいかない。
すると、詩織の周囲の空間が静かに歪み、何もない宙へ巨大な一つ目がゆっくりと姿を現した。
直後、その瞳孔が眩く輝く。
『――浮遊』
足元へ風が渦巻き、身体がふわりと宙へ浮き上がった。
ほぼ同時に、巨大な瞳から放たれた白い光線が石床を一直線に薙ぎ払い、礼拝堂の壁へ深い焼け跡を刻む。
体勢を立て直す暇もなく、二射、三射と光線が続けざまに放たれる。
賢者は足元へ風を纏わせ、宙を舞うように軌道を変えながらその全てを紙一重で回避していく。
その最中も、詩織ではなく周囲の現象へ注意を向け、冷静に観察を続けていた。
そして一瞬だけ、詩織へ視線を戻した、その時だった。
それまで絶え間なく放たれていた光線が、不意にぴたりと止む。
『……なるほど』
静かな呟きが、頭の奥へ響いた。
「何か分かったのか!?」
思わず問い掛けると、賢者はなおも詩織を観察したまま、落ち着いた口調で答える。
『これは……戒律ですね』
「戒律?」
聞き返した俺へ、賢者は小さく頷いた。
『恐らく、戒律を破った者へ自動で裁きが下る術式なのでしょう。そして、これまでの戒律を聞く限り恐らく……』
「なんだ!?」
焦るように問い返す俺へ、賢者はすぐに答えを示さなかった。
『翔。これまでの言葉に、聞き覚えはありませんか?』
その問いに促されるように、頭の奥で先程までの言葉がゆっくりと蘇ってくる。
──手を出してはいけません。
──逃げてはいけません。
──静かにしなさい。
──私の目を見なさい。
断片的な言葉が、何度も何度も脳裏を巡る。
その響きはどこか奇妙なほど耳に馴染み、幼い頃、誰かに何度も言い聞かされていたかのような錯覚を覚えた。
だが、どれだけ記憶を辿ろうとしても、その先だけは濃い霧に覆われたように掴めない。
『……思い出せなくても構いません』
そんな俺の様子を察したのか、賢者は穏やかな声で言葉を続ける。
『今は過去を探る時ではありませんから』
思考を切り替えるように魔導書を閉じ、静かに詩織へ視線を向ける。
「どうしました?もう、お終いですか?」
その様子を見ていた詩織は、穏やかな微笑みを浮かべた。
『ええ、もう解は導きましたから』
その問い掛けに、賢者はわずかに口元を緩める。
冷静な分析を終えた者だけが持つ、確かな確信が滲んでいた。
そして、賢者は慌てることもなくゆっくりと歩みを進める。
詩織へ不用意に近づき過ぎることもなければ、逆に距離を取り過ぎることもない。
まるで実験結果を確かめる研究者のように、一定の間合いを保ったところで静かに足を止めた。
『僕、貴方の出番ですよ』
『うん、任せて』
柔らかな返事と共に身体の主導権が僕に移り変わる。
「僕……大丈夫か?」
思わず頭の奥で問い掛ける。
『怖いけど……絶対、守るから』
小さく息を呑み、それでも僕は真っ直ぐ前を向いた。
淡い光が幾重にも重なり合い、透明なバリアが身体を包み込む。
そのまま詩織の瞳を見据え、一歩、また一歩と静かに歩みを進めた。
「──近づいてはいけません」
詩織は宣告と同時に、周囲に淡い光を広げ、球状の結界を形成させた。
するとそれまで空中に浮かんでいた巨大な瞳は、役目を終えたかのように音もなく霧散していく。
『……やはり。一度に維持できる戒律は一つだけです』
賢者は静かに確信を口にする。
「僕、そのまま進むんだ!」
『うん!』
僕を包む透明なバリアが、詩織を守る淡い結界へ静かに触れた。
二つの光は互いを押し潰そうとすることなく、触れ合った境界から少しずつ溶け合う。
まるで互いを打ち消すように静かに消滅していき、わずかな道がゆっくりと開いていく。
「そんなはずは……」
初めて詩織の表情が揺らぐ。
中和された結界の隙間を縫うように、僕は歩みを止めることなく前へ進み続けた。
そして、とうとう詩織の目の前まで辿り着く。
僕は静かに頷くと、頭の奥へ向かって小さく呼び掛けた。
『悪さん』
僕の穏やかな気配が静かに薄れ、それと入れ替わるように悪の権化が禍々しい笑みと共に胸の奥から滲み出してくる。
『ククッ……待ってたよ』
僕『……もう、大丈夫?』
翔「ああ。お前がいてくれたから、ここまで来られた」
戦闘狂『へっ、ようやく前を向けそうじゃねぇか』
お嬢『ですがこれで終わりではありませんわ』
賢者『残る真実も、いずれ明らかになるでしょう』
悪の権化『ククッ……ボクは、その時を楽しみにしてるよ』
翔「次回、『母との決別』――さよなら、母さん。」




