第30話「奪われた家族」
誰かが俺の名前を呼んでいる。
最初は夢の中の出来事だと思った。
遠くから聞こえるその声はひどく曖昧で、耳に届いているはずなのに意味を結ばない。
だが、その声は何度も繰り返し俺を呼び続け、徐々に輪郭を持ち始めた。
「――翔さん」
肩を揺さぶられる感覚と共に、重たい意識がゆっくりと浮上していく。
まぶたを開くと、ぼやけた視界の向こうに人影が見えた。
数度まばたきを繰り返して焦点を合わせる。
そこに立っていたのは、観測派のスパイとして教団へ潜入している女性だった。
「……あんた、か……」
自分でも驚くほど掠れた声が漏れる。
身体を起こそうとしたが、頭の芯に鈍い重さが残っていて思うように力が入らない。
まるで何時間も眠り続けた後のような、それでいて不自然な気怠さだった。
ぼんやりとしたまま部屋へ視線を向ける。
窓の外はまだ暗く、どうやら夜は明けていないらしい。
夕食を食べて自室へ戻ったところまでは覚えている。
だが、それ以降の記憶が妙に曖昧だった。
何かを思い出そうとすると頭の奥がじくりと痛み、うまく考えがまとまらない。
そんな俺の様子を見ながら、女スパイはどこか焦りを滲ませた表情で口を開いた。
「翔さん。落ち着いて聞いてください」
その声音を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
理由は分からないが何かがおかしい。
そう本能的に感じた。
「開門派が動きました」
「……何?」
まだ働き切らない頭で聞き返す。
しかし次に続いた言葉は、その鈍さを一瞬で吹き飛ばした。
「澪さんが連れ去られました」
「……は?」
反射的に周囲へ視線を走らせる。
向かい側のベッド。
机の傍。部屋の隅。
いつもなら視界に入るはずの姿を探すが、どこにもいない。
そこにいるはずの人だけが、綺麗に消えていた。
「……どういうことだよ」
言葉は自然と口から零れ落ちた。
澪が連れ去られた。
女は確かにそう言ったはずなのに、その事実だけが妙に現実味を持たず、頭の中で何度も空回りしている。
「恐らくですが、お二人の夕食に睡眠薬が仕込まれていたのでしょう」
「睡眠薬……?」
そう言われれば、身体に残る妙な気怠さにも説明がつく。
夕食の後から記憶が曖昧なのも、そのせいなのだろう。
だが、そんなことを理解したところで胸のざわめきは少しも収まらなかった。
「ええ。開門派は大司教様の命で――」
「そんなことはどうでもいい」
気付けば女の言葉を遮っていた。
睡眠薬がどうだとか、どうやって連れ去っただとか、そんな説明を聞きたいわけじゃない。
今の俺の頭を埋め尽くしているのは、たった一つだった。
「なんで澪なんだよ」
握り締めた拳に自然と力が入る。
「なんで澪が連れ去られなきゃいけないんだ!」
胸の奥で膨れ上がる不安はもはや抑えようがなく、大切な人だけが奪われたという事実が、焦燥となって全身を焼いている。
何故澪なのか。
開門派が何をしようとしているのか見当もつかない。
なのに、こうしている間にも時間だけが過ぎていく。
その事実がどうしようもなく俺を苛立たせた。
女スパイはそんな俺を見つめたまま、一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せる。
そして苦々しい表情を浮かべながら、小さく首を横に振った。
「……分かりません。私は何も聞かされていませんので……」
その返答を聞いた瞬間、奥歯を強く噛み締めた。
期待していたわけじゃない。
それでも、何か理由があるなら知りたかった。
澪がどこへ連れ去られたのか。
何をされようとしているのか。
ほんの少しでも手掛かりが欲しかった。
「クソッ……」
「ですが、一つだけ心当たりがあります」
「なんだ?」
女スパイは真っ直ぐ俺を見据えながら続けた。
「開門派が重要な儀式や計画を行う際、地下礼拝堂が使われることがあります。確証はありませんが、澪さんは恐らくそこへ連れて行かれたのだと思います」
地下礼拝堂――。
その名を聞いた瞬間、脳裏にあの空間が蘇る。
地下深くに広がる礼拝堂。
異様な熱気に包まれた信者達。
そして、壇上から信者達を見下ろしていた大司教の姿。
「あそこか……」
握り締めていた拳を解き、そのまま部屋の扉へ向かう。
胸の奥では不安が渦巻いている。
焦りもある。
それでも足は止まらなかった。
今この瞬間にも、澪が危険な目に遭っているかもしれない。
そう思うだけで、じっとしていることなど出来なかった。
勢いよく扉へ手を掛けた、その時だった。
「敵が待ち構えているかもしれません!」
その警告は正しいのだろう。
開門派が澪を連れ去ったのなら、当然こちらが動くことも想定しているはずだ。
罠があるかもしれない。
待ち伏せがあるかもしれない。
そんなことは考えなくても分かる。
「それでも、澪が危険な目に遭ってるかもしれないんだ!行くしかないだろ!」
振り返りざまに叫ぶと、俺は勢いよく扉を開いた。
冷たい廊下の空気が肌を撫でる。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
今の俺の頭にあるのは、澪を助けるということだけだった。
冷たい廊下の空気を切り裂くように駆ける。
睡眠薬の影響なのか、身体にはまだ気怠さが残っていた。
頭の芯にも鈍い重さがこびり付いている。
それでも足を止める気にはなれなかった。
今は一秒でも早く澪の元へ辿り着きたい。
その思いだけが胸の中を支配し、焦燥に駆られるまま廊下を駆け抜ける。
もし既に危険な目に遭っていたら。
そんな考えが頭を過ぎるたびに不安は膨れ上がり、自然と足にも力が入った。
『早く澪さんを助けないと……』
不意に僕の声が頭の中で響いた。
その声には隠し切れない不安が滲んでいる。
それはきっと僕だけの感情じゃない。
今の俺自身が抱えている焦りや恐怖を、そのまま言葉にしたような声だった。
『地下礼拝堂への道は大聖堂から続いています。このまま大聖堂へ向かってください』
続いて聞こえてきたのは賢者の声だった。
普段と変わらない冷静な口調だったが、その奥には僅かな緊張が感じられる。
「分かってる!」
そのまま廊下を駆け抜けると、大聖堂の入口が視界へ飛び込んできた。
勢いのまま扉を押し開け、中へ足を踏み入れる。
「……?」
嫌な予感がした。
大聖堂を満たす不自然な静寂が、その予感をさらに強くしている。
胸の奥に広がるざわめきを押し込めながら中央通路を進んでいると、不意に視界の端で何かが動く。
柱の陰から一人の男が姿を現した。
それを合図にしたかのように、長椅子の影、大扉の脇、礼拝堂の隅々からも次々と人影が現れ始める。
まるで獲物を待ち伏せていた猟師のように。
気付いた時には既に遅かった。
退路は塞がれ、俺は完全に包囲されていた。
現れた者達は全員が武器を手にしており、その装備には見覚えがあった。
「……粛清派か」
教団の中でも武力による粛清を担う過激派――粛清派。
地下礼拝堂へ向かう俺を止める為に待ち構えていたのだろう。
手にしているのはメイスや斧といった近接武器だけではない。
後方に控える兵士達の中には既にクロスボウを構えている者もいて、その切っ先は真っ直ぐこちらへ向けられていた。
次の瞬間には考えるより先に身体が動いていた。
近くにあった長椅子へ飛び込み、その影へ滑り込むように身を隠す。
直後、鋭い風切り音が大聖堂へ響き渡った。
放たれた矢はほんの一瞬前まで俺が立っていた場所を次々と貫き、石床へ突き刺さっていく。
もし反応が少しでも遅れていたら。
そう考えただけで背筋が冷たくなった。
「チッ……」
とりあえず身を隠すことには成功したが、それで状況が好転した訳じゃない。
クロスボウの射線を切ることは出来ても、このまま隠れているだけでは近接兵達に距離を詰められて終わりだ。
焦りを押し殺しながら状況を整理しようとするが、答えは簡単には見つからなかった。
「どうする……」
『翔様』
俺の声を待っていたかのように頭の中でお嬢の声が響く。
その声音には不安も焦りもない。
むしろ舞台の幕が上がるのを待っていた役者のような高揚感すら感じられる。
『わたくしの出番ですわね!』
思わず口元が歪んだ。
「ああ、まとめてぶっ飛ばしてやれ!」
視界が揺らぎ、身体の主導権が切り替わる。
次の瞬間には、俺の身体はお嬢の姿へと変わっていた。
『今日の気分はこれですわね』
楽しげに微笑むお嬢は、長椅子の影へ身を隠したまま右手を前へ差し出す。
すると掌の上へ深紅の光が集まり始めた。
小さな光は次第にその輝きを増しながら形を持ち、やがて一本の銃へと姿を変えていく。
木製の銃床。
長い銃身。
第二次世界大戦を代表する名銃――M1ガーランドだ。
完成した銃を軽く握り直したお嬢は、そのまま長椅子の影から優雅に立ち上がる。
その堂々とした立ち振る舞いを内側から見つめながら、思わず苦笑が漏れた。
――やっぱり、お嬢らしい。
『さて、まずは貴方達からですわね』
お嬢は後方でクロスボウを構える兵士達へ照準を合わせると、迷いなく引き金を引いた。
轟音が大聖堂へ響き渡り、放たれた弾丸は真っ直ぐ兵士の喉元を貫いてその身体を大きく仰け反らせる。
その正確無比な射撃に改めて息を呑む。
兵士達が為す術なく倒れていく光景に、改めてお嬢の実力を思い知らされた。
「がっ……!?」
苦悶の声が上がる。
だが、お嬢はそれを気に留める様子もなく次の標的へ銃口を向け、そのまま続けざまに発砲した。
再び鳴り響く銃声と共にクロスボウ兵が吹き飛び、手から武器を取り落としながら床へ転がっていく。
突然の反撃に男達の顔色が変わる。
つい先程まで長椅子の影へ追い込まれていた獲物が、突如として牙を剥いたのだから無理もない。
『狙いが甘いですわね』
楽しげに笑うお嬢はそのまま引き金を引き続ける。
クロスボウ兵達を慌てて身を隠し、その射線は次々と潰れていった。
「近接班!前へ出ろ!」
もはやまともな援護射撃が期待できないと判断したのだろう。
兵士達の中から一人の男が前へ出ると、怒号にも似た号令を飛ばした。
その言葉を合図にするように、今度はメイスや斧を手にした者達が一斉に前へ躍り出し、後方のクロスボウ兵を守るようにしながらお嬢との距離を詰め始める。
『あらあら、気が短い殿方は嫌われましてよ?』
迫り来る兵士達を前にしても、お嬢は軽口を叩きながら引き金を引く。
轟音が大聖堂へ響き渡り、放たれた弾丸は先頭を走る兵士の額を正確に撃ち抜いた。
兵士の身体が後方へ仰け反る。
勢いそのままに数歩よろめき、やがて力を失った人形のように床へ崩れ落ちた。
お嬢は落ち着き払った様子で銃口を動かすと、迫り来る兵士達へ向けて次々と引き金を引く。
轟音が響くたびに兵士達の足は鈍り、先頭を走っていた男が体勢を崩した。
そこへ続く一発が叩き込まれ、さらに後続の兵士達が足を止めた。
銃弾そのものよりも、お嬢の正確な射撃が突撃の勢いを削いでいく。
それでも兵士達は前へ出る。
数の力で押し潰すつもりなのだろう。
次々と現れる粛清派の面々を前にしても、お嬢は一歩も退かなかった。
『無粋ですわね』
呆れたように呟きながら最後の弾丸を撃ち放つ。
弾丸は兵士の胸を打ち、その身体を後方へ吹き飛ばした。
そして――。
キィィン。
乾いた金属音が大聖堂へ響き渡る。
空になったクリップが排出された音だった。
『おや』
お嬢は手元のガーランドへ視線を落とし、小さく肩を竦める。
その間にも男達は距離を詰め続け、既に銃撃だけで捌ける距離ではなくなっていた。
しかし、お嬢は慌てることもなく、どこか楽しげに微笑む。
『ここからは”専門家”にお任せいたしますわ♪』
お嬢の言葉と共に、身体の感覚がゆっくりと移り変わっていく。
ほんの僅かな時間だった。
それでも、その華麗な立ち回りは内側から見ていた俺の脳裏へ強く焼き付いていた。
戦闘狂『シャアッ!次は俺の出番だぜぇ!』
賢者『いえ、今回は力任せだけでは解決できません。少し頭を使っていただきます』
戦闘狂『あぁ?面倒くせぇな!ぶっ飛ばしゃ終わりだろ!』
賢者『その考えでは勝てませんよ』
翔「次回、『獣と知略』――力と知恵、その両方で道を切り開く」




