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第29話「澪の答え」

自室へ戻った俺達は、しばらく言葉を交わさなかった。


窓際へ立った澪は、静かに外の景色を眺めている。

夕暮れが近づき始めた空は茜色へ染まりつつあり、その光が部屋の中へ柔らかく差し込んでいた。


そんな澪の横顔は、いつもと変わらないように見える。

俺はベッドへ身体を投げ出し、そのままぼんやりと天井を見上げた。


頭の中では、さっきから詩織の言葉だけが何度も繰り返されている。


――貴女が、彼を繋ぎ止めているのですね。


あの場では深く考える余裕なんてなかった。

けれど静かな部屋へ戻ってきた今になると、その言葉だけが妙に耳へ残って離れない。


俺はゆっくりと顔を横へ向けた。

窓際へ立つ澪の表情からは、何を考えているのか読み取れない。


記憶を失って目覚めたあの日から、俺の傍にはいつも澪がいた。

右も左も分からなかった俺へ、普通の生活を教えてくれた。


そして日常が壊れたあの日からも、澪はずっと俺の隣にいた。

だからきっと、俺にとって澪は大切な存在なんだろう。


だけど――。


(繋ぎ止める、か……)


俺には、まだその意味がよく分からなかった。

ただ一つだけ言えるのは、あの言葉が妙に引っ掛かっているということだ。


「なぁ、澪」


「ん?」


窓の外を眺めていた澪が、ゆっくりとこちらを振り返る。

夕陽を受けた黒髪が、わずかに揺れた。


「さっき言ってたよな。大切な家族って」


俺がそう言うと、澪は一度だけ目を瞬かせた。


「そうよ。それがどうかした?」


「いや……なんていうか」


言葉が続かない。

自分でも何を聞きたいのか上手く整理できていなかった。

ただ、あの言葉が思った以上に胸へ残っていて、そのままにしておけなかった。


澪はそんな俺を見て、小さく肩をすくめる。


「なによ。まさか、その場しのぎの嘘だと思ってる?」


「そんなことねぇよ……ただ、素直に嬉しかった」


その言葉に、澪はほんの少しだけ目を見開いた。

やがて視線を逸らすように窓の外へ向けると、小さく呟く。


「……そう」


夕暮れの光が部屋を静かに染めていた。

窓の外では風に揺れる木々の影が伸び始めている。

そんな景色を眺めながら、澪は何かを考えるように黙り込んだ。

しばらく続いた沈黙の後、不意に澪が口を開く。


「最初は……違ってたわ」


不意に零れたその言葉に、俺は思わず身体を起こした。


夕陽に染まる澪の横顔。

その視線は窓の外へ向けられていたけれど、本当に見ているのは今の景色じゃない気がした。

もっと昔の――俺と出会った頃の記憶を見つめているような。


「違ってた?」


澪はほんの少しだけ目を伏せ、何かを確かめるように静かに息を吐く。


「一緒に暮らし始めたころは、償いだって言い聞かせてたわ」


静かな声だった。

けれど、その言葉には確かな重みがあった。


俺を施設から連れ出したこと。

研究員だった過去。澪が抱え続けてきた後悔。

その全てが滲んでいるような気がした。


「だから、せめて普通の生活くらいは送らせてあげたいって思ってた」


自嘲するような微かな笑みが浮かぶ。


「でも、一緒にいる時間が長くなると、別の想いが芽生えだした」


その声はどこか懐かしいものを思い返しているようだった。


「貴方を家族として、見守りたいって」


胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

何かを言おうとしても上手く言葉にならない。


ただ、その言葉が思っていた以上に嬉しかった。

澪はそんな俺の様子に気付いているのかいないのか、静かに続ける。


「勿論、それで私の罪が許されるわけじゃないのは分かってる」


その声に迷いはなかった。

自分の過去から目を逸らさず、それでも前を向こうとしている声だった。


「でもね?」


そこで初めて澪がこちらを振り返る。

夕陽を映した瞳が真っ直ぐ俺を見つめていた。


「貴方を大切だって思ったのは、本心だから」


静かな部屋の中で、その言葉だけが不思議なほど鮮明に響く。


「だから――あんまり一人で抱え込まないで」


少しだけ表情を和らげた澪が、優しく言った。

返事はすぐにはできなかった。


「……ありがとう」


それが今の俺に言える精一杯だった。

澪は何も言わずに、ただ少しだけ表情を和らげる。

それだけで十分だった。

胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がする。


すると――。


『えへへ……よかったね、翔』


頭の奥で、僕が嬉しそうに笑った。


『彼女の発言に虚偽反応は確認できません。事実、本心なのでしょう』


続けて聞こえてきたのは賢者の冷静な声。


『やはり、わたくしが見込んだだけはありますわね』


どこか誇らしげなお嬢の声が続く。


『ハッ、まぁ……いいんじゃねーの?』


最後に戦闘狂がぶっきらぼうに呟いた。


「……お前らなぁ」


思わず額を押さえる。

せっかく少し真面目な空気になっていたっていうのに。

そんな俺の反応を見て、澪が不思議そうに首を傾げた。


「また人格達がなにか?」


「聞くな。色々台無しだ」


半ば呆れながら答えると、澪は一瞬きょとんとした顔を見せた。


「ふふっ」


澪の小さな笑い声が部屋に零れる。

それはどこか肩の力が抜けたような、柔らかな笑みだった。


張り詰めていた空気はいつの間にか消え、代わりに穏やかな静けさが広がっていた。

こうして他愛のないやり取りを交わせる時間が、少しだけ懐かしく感じる。


追われる日々が始まってから、俺達はずっと何かに急かされ続けていた。


だからだろうか。

今この瞬間だけは、そんなことを忘れていられる気がした。


しばらくの間、俺達は他愛のない話を交わした。


特別な話じゃない。

本当に、どうでもいいような会話ばかりだ。

それでも不思議と居心地が良かった。


やがて壁掛け時計へ目を向けた澪が、小さく呟く。


「もうこんな時間だったのね」


気付けば夕食の時間が近付いていた。


「そういや昼もまともに食ってなかったな」


「今日は色々あったもの」


澪は苦笑しながら窓際を離れた。


「食堂へ行きましょうか」


「ああ」


ベッドから立ち上がり、俺も後に続く。

部屋を出る直前、何となく振り返った。


夕陽に染まる部屋。

ついさっきまでいた場所。


理由は分からない。

けれど、その光景が妙に印象に残った。

俺は小さく首を振ると、澪と共にダイニングルームへ向かった。


◇ ◇ ◇


夕食時ということもあって何人かの信者達の姿が見えた。

食事を取りながら談笑している者もいれば、静かに祈りを捧げている者もいる。

昼間よりもどこか落ち着いた空気が流れており、窓の外から差し込む夕暮れの光が室内を穏やかに照らしていた。


俺と澪は空いている席へ腰を下ろす。

すると周囲の視線がわずかに集まった。


もっとも、それも一瞬だけだ。

救済派の信者達だろうか。

こちらへ関心がない訳ではないのだろうが、だからといって詮索してくる気配もない。

俺達が席へ着いたことを確認すると、それぞれ自分の食事や会話へ意識を戻していった。


だが、その一方で別の種類の視線も感じる。

ちらちらとこちらを窺うような視線。

興味と好奇心を隠そうともしないそれは、おそらく開門派の信者達だろう。


敵意がある訳ではない。

それでも、まるで珍しい動物でも観察するかのような目で見られるのは、あまり気分の良いものではなかった。


「見られてるわね」


「まぁな」


肩を竦めながら答えた。

気分の良いものではないが、今さら気にしていても仕方がない。

そんなことを考えていると――。


「ここ、いいですか?」


不意に聞き覚えのある声がした。

顔を上げると、そこには観測派の女スパイが立っていた。


「どうぞ」


澪がそう答えると、女性は軽く頭を下げて席へ腰を下ろした。

そして周囲へさりげなく視線を巡らせる。

誰かに聞かれていないか確認しているのだろう。

その仕草は自然だったが、観測派らしい慎重さも感じられた。


やがて女性は少しだけ声を落とす。


「どうでしたか?」


「どうでしたかって?」


問いの意図が分からず聞き返す。

すると女性は苦笑を浮かべながら続けた。


「大司教様との面会です」


その言葉に、俺と澪は顔を見合わせた。


「あまり気持ちの良いものではなかったわね」


先に口を開いたのは澪だった。

女性は予想していたかのように小さく笑う。


「でしょうね」


短い返事だった。

だが、その言葉には妙な納得が滲んでいた。

まるで最初からそうなることを知っていたかのように。


「大司教様は何か言っていましたか?」


女スパイの問いに、澪は少しだけ考えるような素振りを見せた。

大司教との面会で交わした言葉は少なくない。

その中から何を口にするべきか選んでいるのだろう。


「私が彼を繋ぎ止めている、と」


その言葉を聞いた瞬間、女スパイの表情が僅かに強張る。

その瞳の奥で何かが揺らいだように見えた。


「そんなことを……」


思わず漏れたような呟きだった。

驚きなのか、それとも別の感情なのか。

少なくとも、予想していなかった反応であることだけは伝わってくる。


「何か知ってるのか?」


女スパイはすぐには答えなかった。

視線を落とし、手元のカップへ目を向ける。

まるで頭の中で言葉を選んでいるかのようだった。


周囲では他の信者達の話し声が聞こえている。

けれど、この席だけは妙な静けさに包まれていた。

やがて女スパイは小さく息を吐く。


「……気をつけてください」


その言葉は独り言のようにも聞こえた。

あまりにも唐突で、あまりにも曖昧だったからだ。


「何をだ?」


思わず聞き返すが、女スパイは困ったように微笑むだけだった。

その表情からは、本当に確証がないのだということが伝わってくる。


「いえ……杞憂だといいのですが」


何かを警戒している、不安げな声音だった。

けれど、その正体までは掴めていない。

そんな印象を受けた。


俺と澪は顔を見合わせる。

しかし、それ以上問い詰めても答えは返ってこない気がした。


◇ ◇ ◇


自室へ戻った頃には、すっかり日が落ちていた。

窓の外には夜の帳が降り始めている。


ダイニングルームでの会話を思い返しながら椅子へ腰を下ろすと、身体の奥からじわりと疲労感が広がっていくのを感じた。


これからどうするのか。

考えなければならないことは山ほどあるはずなのに、不思議と今は何も考える気が起きない。

ただ、妙な倦怠感だけが身体へまとわりついていた。


「今日は色々ありすぎたわね」


窓際へ立ったまま夜空を見上げていた澪が、ぽつりと呟く。


「ああ……」


返事をしたつもりだった。

けれど自分でも驚くほど声に力が入らない。

喉の奥に重りでも詰め込まれたような感覚があり、言葉を発するだけで妙な疲労を覚える。


澪もそれに気付いたのだろう。

不思議そうにこちらを振り返る。


「翔?」


その声が少し遠く聞こえた。

額へ手を当てるが熱がある訳じゃない。

頭痛もない。


それなのに、身体の感覚だけが妙に鈍くなっていた。

まるで深い眠気の中へ引きずり込まれているような感覚だった。

瞼は鉛のように重く、視界の輪郭もどこかぼやけて見える。


「……なんだ、これ」


小さく呟きながら立ち上がろうとする。

しかし足へ力が入らない。

身体が自分のものではないみたいだった。

ぐらりと視界が揺れ、慌てて近くのベッドへ手を伸ばしたものの、そのまま身体を支え切れずに倒れ込む。


柔らかな感触が背中を受け止めたが、安心する余裕はなかった。

全身から力が抜けていき、意識がゆっくりと沈んでいく。


眠い。

ただ眠いだけなら良かった。


だがこれは違う。

本能だけが警鐘を鳴らしていた。


この眠気はおかしい。

何かを見落としている。

そんな焦りだけが頭の片隅へ残っていた。


「澪……」


かすれる声で名前を呼ぶ。

すると視界の端に映った澪もまた壁へ手をつき、苦しそうに眉を寄せていた。

立っているのも辛そうで、必死に意識を保とうとしているのが分かる。


「翔……?」


その声を最後に、世界が急速に遠ざかっていった。

意識は暗い水底へ沈むように落ちていき、身体は指一本動かせなくなる。

抗おうとしても無駄だった。

暗闇が全てを飲み込もうとしていた、その時――。


『ククッ……やれやれ。やっぱり始まったねぇ』


悪の権化の、どこか呆れたような、それでいて妙に愉快そうな声だけが、薄れゆく意識の中で不気味なほど鮮明に響いていた。

悪の権化『ククッ……やっぱり始まったねぇ』


僕『そんなこと言ってる場合じゃないよ!』


賢者『地下礼拝堂へ急ぎましょう』


お嬢『皆様、お覚悟はよろしくて?』


戦闘狂『シャアッ!戦いが待ってるぜぇ!』


翔「次回、『奪われた家族』――絶対に澪を助け出す!」

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