第28話「繋ぎ止める者」
「俺だよ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
司祭が息を呑み、ユーディアの視線も鋭くなる。
それでも止まらなかった。
「アンタが言ったんだ!何度も……何度も!」
胸の奥へ押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出していく。
「俺は思い出したんだ!少しだけだけど……確かに思い出したんだ!」
夕暮れの部屋で頭を撫でる温かな手。
『貴方は特別な子なのよ』
優しく微笑む母親の顔。
あれは間違いなく本物だった。
「なのにアンタは――」
感情が制御できなかった。
冷静でいようとしていたはずなのに、もう限界だった。
このままでは何かが壊れてしまいそうなほどに。
『――あぁ。そうだよね』
不意に、頭の奥で悪の権化の声が響いた。
いつもの軽薄な笑い声ではない。
それは傷付いた子供へ語り掛けるような、妙に優しい声音だった。
『思い出したのは君だけ。期待したのも君だけ。可哀想だねぇ』
その言葉が胸の奥へ染み込んでくる。
否定したかったのに、その言葉はあまりにも痛いほど胸へ突き刺さり、否定することができなかった。
『せっかく思い出したのに。せっかく会えたのに。全部、無駄だった』
胸の奥で何かが軋むような不快感が広がり、その感情の濁流に呑まれるように視界まで僅かに揺らぎ始める。
『だったらさ。全部壊しちゃえばいいじゃないか』
その声は甘く、胸の奥で燻っていた感情へ静かに寄り添うように響くせいで、毒だと分かっていても抗うことができなかった。
『そんな母親なんて。そんな記憶なんて。そんな教団ごと』
ズキリ――と頭の奥へ鋭い痛みが走り、激しく脈打つ心臓に合わせるように、身体の奥から黒い何かが溢れ出し始める感覚が全身を駆け巡った。
『ほら、君は怒っていいんだ。傷付いていいんだ』
その言葉は胸の奥へ静かに沈み込み、必死に押し込めていた感情を内側から引きずり出していく。
怒りも、悲しみも、悔しさも。
目を背けていた感情が次々と浮かび上がり、理性を押し潰そうとしていた。
『だから――ボクに任せなよ』
その言葉が頭の奥へ響いた瞬間、身体の感覚が急速に遠のいていく。
視界の端が黒く滲み、指先から力が抜けていく。
それなのに胸の奥で渦巻く怒りと悲しみだけは、消えるどころかますます膨れ上がっていた。
「おお……!やはり!やはり特別な存在なのですね!」
司祭が思わず立ち上がる。
その瞳は歓喜に満ちていた。
「大司教様、お下がりください。この者は危険です」
対照的に、ユーディアは一歩前へ出る。
その視線は鋭く、今にも武器へ手を伸ばしそうなほど警戒心を露わにしていた。
「翔!しっかりして!」
澪の声だけが、不思議と遠ざかっていく意識の中へ届いていた。
そして――詩織だけは何も言わない。
ただ静かに俺を見つめていた。
興奮するでもなく、怯えるでもなく。
その瞳には、僅かな驚きと、それを上回るほどの興味が宿っていた。
その視線を見た瞬間、胸の奥がひどく冷たくなる。
息子として見られていない。
心配されてもいない。
珍しい標本でも眺めるみたいに、ただ興味を持たれているだけだ。
その事実が、俺の心を静かに削っていく。
視界が暗く染まり、周囲の音が遠ざかっていく。
もうどうでもいい。
そんな諦めにも似た感情が胸を支配しかけた、その時だった。
――パァン!!
乾いた音が部屋へ響き渡る。
頬に鋭い痛みが走った。
何が起きたのか理解するより先に、揺れていた視界が大きくぶれる。
目の前には澪がいた。
肩を震わせながら、真っ直ぐ俺を見上げている。
「私を見なさい!」
掠れた声だった。
それでも、その言葉だけははっきりと耳に届く。
「私を置いてどこかにいかないで!」
『……澪。余計なことを!』
いつも余裕を崩さない悪の声が、初めて苛立ちを滲ませる。
「アンタは引っ込んでなさい!」
澪は一歩も引かなかった。
その肩は僅かに震えている。
怖くないはずがない。
それでも視線だけは逸らさず、真っ直ぐこちらを睨み返していた。
『チッ……興ざめだよ』
悪が不機嫌そうに舌打ちする。
『いいよ。今日は大人しくしてあげるさ。せっかく面白くなりそうだったのにねぇ』
皮肉げな笑い声と共に、その気配がゆっくりと遠ざかっていく。
胸の奥を埋め尽くしていた黒い感情は少しずつ薄れ、支配されかけていた意識もゆっくりと浮上していった。
揺れていた視界は徐々に元へ戻り、自分のものではなくなりかけていた身体の感覚も少しずつ戻ってきた。
「……澪」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
視界の先で、澪が小さく息を吐く。
張り詰めていた肩から僅かに力が抜けたものの、その視線はまだ俺から逸らされていない。
「……おかえりなさい」
その言葉は不思議なほど真っ直ぐ胸へ届いた。
ついさっきまで胸の奥を支配していた怒りも悲しみも消えた訳じゃない。
それでも、その一言だけは沈みかけていた俺の意識を現実へ繋ぎ止めてくれる。
「ありがとう。助かった」
そう答えると、澪は何も言わず小さく頷いた。
言葉にしなくても十分だった。
その表情を見れば、どれだけ心配を掛けてしまったのか嫌でも伝わってくる。
部屋を包んでいた緊張も少しずつ薄れていく。
司祭は困惑したように俺と澪を見比べ、ユーディアも依然として警戒を解いてはいないものの、先程までの一触即発の空気は影を潜めていた。
そんな中、静かな声が部屋へ響く。
「澪さん」
詩織だった。
彼女は変わらず穏やかな表情を浮かべながら、真っ直ぐ澪へ視線を向けている。
「貴女は、彼の何なのですか?」
その問いが投げ掛けられた瞬間、部屋の空気が静まり返った。
司祭も、ユーディアも、自然と澪へ視線を向けている。
「大切な、家族です」
澪の答えに迷いはなかった。
血の繋がりなんて関係ない。
共に逃げてきた日々も、笑い合った時間も、何度も危険を乗り越えてきたことも。
その言葉には、それら全てが込められているように聞こえた。
詩織はしばらく何も言わなかった。
まるでその答えの意味を確かめるように静かに澪を見つめ、やがて小さく頷く。
「そうですか」
返ってきたのはそれだけだった。
穏やかな声音だったが、その瞳には先程までとは少し違う興味の色が宿っているようにも見えた。
その視線には敵意も悪意もない。
それなのに、どこか居心地の悪さを覚えるほど真っ直ぐだった。
やがて彼女は小さく息を吐くと、穏やかな声音で口を開いた。
「実は、澪さんに来ていただいたのは理由がありました」
「……それは、なんですか?」
澪が警戒を隠さず問い返す。
先程までの出来事もあってか、その声音は僅かに硬い。
だが詩織は気にした様子もなく、静かに頷いた。
「先程、その答えが分かりました」
その言葉に、俺達は思わず眉をひそめる。
「貴女が、彼を繋ぎ止めているのですね」
部屋の空気が僅かに張り詰める。
澪は一瞬だけ目を見開いた後、すぐに訝しげな表情を浮かべた。
「……何の話ですか?」
その問いに対し、詩織は否定も肯定もしなかった。
ただ小さく微笑み、その視線を俺達から外す。
「いえ、こちらの話です」
彼女は椅子の背へ静かに身体を預けると、穏やかな口調のまま言葉を締めくくった。
「本日はここまでにしましょう」
その言葉を最後に対談は終わった。
結局、知りたかった答えを得られたとは言い難い。
むしろ分からないことの方が増えた気さえする。
――貴女が、彼を繋ぎ止めているのですね。
詩織が残したその言葉だけが、妙に胸へ引っ掛かっていた。
翔「なぁ澪。あの時言ってたよな。大切な家族だって」
澪「ええ。それがどうかした?」
僕『ぼ、僕は家族だと思われてて嬉しかったな……』
お嬢『流石、わたくしが見込んだ方ですわ』
戦闘狂『ハッ、自画自賛かよ』
賢者『ですが、翔も気になっているのでしょう?』
翔「まぁな」
澪「なら、ちゃんと答えてあげる」
翔「次回、『澪の答え』――聞かせてくれよ」




