第27話「忘れられた言葉」
俺は自室のベッドへ横になりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
眠れなかった訳じゃない。
実際、いつの間にか眠っていたし、朝食も済ませている。
それでも頭の中は落ち着かなかった。
詩織との再会。
そして、思い出した記憶。
昨日の出来事が何度も脳裏を巡り、その度に胸の奥がざわつく。
目を閉じると、礼拝堂での光景が鮮明に蘇った。
◇ ◇ ◇
【皆さん、静粛に】
詩織の声が礼拝堂へ響く。
ざわめいていた信者達は徐々に口を閉ざし、やがて全員の視線が祭壇へ集まった。
【本日、門は新たな可能性を示しました】
その言葉に礼拝堂がどよめくが、詩織は構わず続けた。
【この方は特別な存在です】
その瞬間、信者達の視線が一斉に俺へ向けられた。
驚愕、畏怖、期待…様々な感情が入り混じった眼差しだった。
【門は我々を見捨ててはいませんでした。きっと彼が、我々を門へ導いてくれるでしょう】
詩織はそう告げると、静かに俺へ手を向ける。
信者達のざわめきは次第に熱を帯び、俺を見る目にも明らかな変化が生まれていた。
まるで救世主でも見ているかのような視線だった。
【詳しいことは後日改めてお伝えします。本日の儀式はこれにて終了です】
◇ ◇ ◇
「特別な存在……門へ導く……か」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど重かった。
そんなものに心当たりはない。
俺はただ、自分の過去を知りたかっただけだ。
なのに気付けば、教団の信者達から奇妙な期待を向けられている。
御門詩織。
彼女は一体何を考えているんだ。
「また考え事?」
声のした方を見ると、澪が部屋の椅子へ腰掛けながらこちらを見ていた。
いつからそこにいたのか分からない。
けれどその表情を見れば、俺がさっきから上の空だったことはとっくに見抜かれていたらしい。
「……そんなに分かりやすいか?」
苦笑混じりにそう返すと、澪も小さく肩を竦めた。
「うん、結構」
その返答に思わずため息が漏れる。
どうやら隠せているつもりだったのは俺だけだったらしい。
「昨日のこと?」
澪が遠慮がちに尋ねる。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
昨日の出来事は、まだ自分の中でも整理しきれていない。
それでも話さない訳にはいかなかった。
「……思い出したんだ」
「えっ?」
澪の目が僅かに見開かれる。
「子供の頃の記憶を、少しだけな」
そう言いながら天井へ視線を向ける。
白い天井を見つめていると、昨日蘇った記憶が自然と脳裏へ浮かんできた。
「記憶の中の母親は俺に言ってた。『貴方は特別な子なのよ』って」
澪の表情が僅かに強張る。
「昨日言ってたことと関係あるの?」
「ああ」
夕日が差し込む部屋で頭を撫でられた感触も。
優しく微笑んでいた顔も、今でも鮮明に思い出せる。
それなのに、不思議と胸の奥は温かくならなかった。
むしろ思い出せば思い出すほど、言いようのない違和感が広がっていく。
「だからやっぱり御門詩織は俺の母親なんだよ」
そう口にすると、澪は複雑そうな表情を浮かべた。
「でも、彼女は翔の事を覚えてないって……」
「そうなんだよ」
昨日の礼拝堂での詩織を思い出す。
あの時の表情、声色、反応。
どれを思い返しても演技には見えなかった。
「少なくとも、あの感じじゃ嘘を言ってるようには見えなかった」
「記憶喪失?」
「わからない……」
記憶を失ったのか。
何か別の理由があるのか。
今の俺には判断できない。
「彼女に何があったのか。それが全然見えてこないんだ」
――コンコン。
不意に扉がノックされ、俺と澪は顔を見合わせた。
「失礼します」
扉が開き、NABの観測派の女スパイが姿を現す。
彼女は部屋へ入ると俺達の顔を見回し、小さく頷く。
「お二人とも、ご無事そうで何よりです」
「アンタも、あの後何もなかったか?」
昨日は俺が礼拝堂で騒ぎを起こしたせいで、彼女にも多少なりとも迷惑が掛かったはずだ。
「ええ。開門派の信者に小言を言われた程度で済みましたからね」
「あー……そりゃすまない」
思わず頭を掻く。
実際、あの場はかなり無茶をした自覚がある。
「いいんですよ。これも観測派の任務ですから」
その言葉には不思議と重みがあった。
俺達が知らないところで、この女もまた危険を背負っているのだろう。
澪は椅子の背もたれへ身体を預けながら口を開く。
「で、今日はどんな用?」
雑談を続ける為に来た訳ではない。
それくらいは俺にも分かる。
女スパイの表情も、それを肯定するように引き締まった。
「はい、朗報……と言ってよいのでしょうか」
一瞬だけ言葉を選ぶような間が生まれる。
そして女性は真っ直ぐ俺達を見た。
「大司教様がお呼びです」
その一言で部屋の空気が変わる。
俺と澪はほぼ同時に顔を見合わせた。
【貴方について、もっと知りたくなりました】
脳裏に蘇ったその言葉に、胸の奥が小さくざわついた。
「大司教様は貴方に興味を持っています」
昨日の礼拝堂で聞いたばかりの話だ。
むしろ、それ以外の理由で呼び出される方が驚く。
「ああ、昨日聞いたよ」
「その件について、貴方と個別に話がしたいそうです」
女スパイは事務的に告げる。
だが、その内容は決して軽いものではない。
「願ってもない機会ね」
澪が腕を組みながら呟いた。
その表情には警戒もある。
それでも反対しないのは、俺と同じことを考えているからだろう。
聞きたいことは山ほどある。
何故俺を忘れているのか。
何故あんな記憶が蘇ったのか。
そして――何故俺を特別な存在と呼ぶのか。
「……わかった。いつ話せる?」
そう尋ねると、女スパイは少しも迷わず答えた。
「今からです」
「急だな。そんなに期待されてんのか」
半ば冗談のつもりだった。
しかし女スパイは困ったような笑みを浮かべる。
「開門派の間では、救世主が現れたという噂も広がっていますよ」
昨日の礼拝堂での宣言が、一晩でそこまで広がったらしい。
「救世主、ね」
澪が呆れたように呟く。
俺も同じ気持ちだった。
「全然喜べねぇな」
むしろ迷惑な話だ。
俺は救世主になりたい訳でもなければ、誰かを導きたい訳でもない。
知りたいのは自分の過去だけだった。
「一応聞くけど、拒否権は?」
澪の問いに、女性は僅かに表情を曇らせる。
その反応だけで答えは察せた。
「断れば粛清派が黙っていないでしょう」
粛清派の隊長であるユーディア。
彼女は最後まで俺を危険人物として、冷たい眼差しで見ていた。
今は詩織の関心が俺達へ向いているからこそ静観しているのだろう。
だが、その興味が失われれば話は別だ。
「……わかった。早速連れてってくれ」
どうせ避けては通れない。
だったら自分から踏み込んだ方がいい。
「畏まりました」
女性は小さく頭を下げる。
そして何かを思い出したように付け加えた。
「それと、澪さんもご同行願います」
「私も?どうして?」
澪が目を瞬かせる。
予想外だったのだろう。
「それは――私からは申し上げられません」
◇ ◇ ◇
女スパイの案内で連れて来られたのは、礼拝堂のさらに奥にある一室だった。
昨日の地下礼拝堂とは違い、周囲は不気味なほど静まり返っている。
白を基調とした長い廊下を進んだ先には重厚な木製の扉があり、女スパイはその前で足を止め、静かに扉をノックした。
「失礼します」
「どうぞ」
少しの間を置いて返ってきたのは、昨日と変わらない穏やかな声だった。
女スパイは扉を開くと、俺達へ道を譲った。
「それでは私はここで」
小さく一礼し、そのまま廊下の端へ下がっていく。
どうやらここから先は俺達だけらしい。
俺はゆっくり息を吐くと覚悟を決め、澪と共に部屋の中へ足を踏み入れた。
部屋の中央には大きな机が置かれ、その向こう側には詩織が座っている。
だが、そこにいたのは彼女だけではなかった。
昨日の儀式で進行役を務めていた開門派の司祭。
そして、壁際には黒い修道服に身を包んだシスター・ユーディアが立っていた。
その姿を見た瞬間、昨日の礼拝堂で向けられた冷たい視線を思い出す。
どうやら歓迎されている訳ではないらしい。
「来てくれましたか」
詩織は穏やかに微笑む。
司祭はどこか興奮を隠し切れない様子で俺を見つめていた。
「お会いできて光栄です。大司教様がお認めになった特別な存在と、こうして直接お話できるとは」
その声には隠し切れない熱が滲んでいた。
だが、その直後だった。
「司祭、まだ何も証明されていません。軽率な判断は避けるべきかと」
ユーディアは壁へ寄り掛かることもなく真っ直ぐ立ったまま、冷ややかな視線を司祭へ向けていた。
歓迎ムードだった空気が僅かに張り詰める。
開門派と粛清派。
昨日礼拝堂で感じた対立が、この部屋の中にもそのまま持ち込まれているようだった。
「まずはお掛けください」
詩織に促され、俺と澪は机の前に置かれた椅子へ腰を下ろす。
「昨夜はよく眠れましたか?」
その言葉に俺は思わず眉をひそめる。
「……雑談をする為に呼んだのか?」
「雑談も大切ですよ。人を知るには、まず会話から始めなければなりませんから」
その言い方に胸の奥がざわつく。
まるで初対面の相手を観察するような口振りだった。
「俺を知りたいんだったな」
「ええ。貴方について、もっと知りたいと思っています」
その言葉に嘘は感じないからこそ、俺の胸には言いようのない違和感が残った。
「では一つ質問を…貴方は、自分をどのような人間だと思っていますか?」
「……は?」
詩織に投げ掛けられた質問は予想していたものとはまるで違っていた。
司祭が感心したように小さく頷く一方で、ユーディアは表情一つ変えない。
「それを聞いてどうするんだ?」
「重要なことだからです。特別な存在であれば尚更」
「またそれか」
「特別な存在、特別な存在って……昨日からそればっかりだな」
俺が苛立ちを隠さず口にすると、部屋の空気が僅かに張り詰める。
それでも詩織は気にした様子を見せず、穏やかな表情のまま俺を見つめていた。
「では貴方は、何故そう呼ばれるのか知りたいのですか?」
「当たり前だろ。そもそも何なんだよ、その特別な存在ってのは」
すると司祭が堪えきれないように口を開く。
「門に選ばれたお方だからです!昨日の儀式をご覧になったでしょう!あれこそ門が示した奇跡――」
「憶測です。まだ何も証明されていません」
司祭の言葉を遮ったのはユーディアだった。
冷たい声が部屋へ響く。
「ですが昨日の力は!」
「危険性の証明でしかないかもしれない」
司祭とユーディアの視線が交錯する。
二人の間へ流れた空気は冷たく、互いに譲る気がないことだけは嫌でも伝わってきた。
「二人とも」
詩織が静かに制すると、それだけで司祭もユーディアも口を閉ざし、張り詰めていた空気が嘘のように静まり返った。
詩織は柔らかな笑みを浮かべたまま俺を見る。
その目に敵意はない。
期待と興味を宿した視線が、静かに俺へ向けられていた。
目の前にいるのは間違いなく詩織だった。
だが、記憶の中で俺の頭を撫でていた女性と同じ人物には思えなかった。
「我々開門派は、門へたどり着く可能性を秘めた者を導く使命があります」
昨日から何度も耳にしている言葉だ。
この教団の人間達は、まるで当然のように"門"という言葉を口にする。
だが、その正体について誰かが語る場面を一度も見たことがなかった。
「門ってなんだよ」
そんな俺の問いに、詩織は僅かに目を細めた。
その仕草は問いを否定するものではなく、むしろどう説明すべきか考えているようにも見えた。
「救済です」
「……は?」
返ってきたのはあまりにも抽象的な答えだった。
俺の反応にも動じることなく、詩織は静かな口調のまま続ける。
「我々が目指す場所であり、真理であり、希望でもあります」
詩織の表情に迷いはない。
それは誰かから教え込まれた言葉ではなく、自らの信仰として心の底から信じている者の顔だった。
「答えになってないだろ」
俺がそう言うと、司祭が不快そうに眉をひそめる。
まるで神聖な教えを侮辱されたと言わんばかりの表情だ。
しかし詩織は気分を害した様子もなく、小さく頷いた。
「そうかもしれませんね。ですが、我々はそう信じています」
そう告げられた一言には、不思議な重みがあった。
門の正体を知っているからではない。
知らなくても信じている。
その事実こそが、この教団を支えているのだと理解してしまったからだ。
「じゃあ俺を特別な存在だっていうのは」
俺が問い掛けると、詩織は少しも迷うことなく答えた。
「門へたどり着き、その先で人々を救済へ導ける存在、という意味です」
その言葉に思わず苦笑が漏れる。
それはあまりにも大きすぎる期待だった。
「……随分な買い被りだな」
そう返しても、詩織の表情は変わらない。
むしろ当然のことを口にしただけだと言わんばかりに、小さく首を横へ振った。
「いいえ。実際、昨日私は貴方の力を見ました。だからこそなのです」
「だったらおかしいだろ」
俺の言葉に、詩織が僅かに首を傾げる。
「何がでしょうか?」
その反応を見て、胸の奥に引っ掛かっていた疑問が確信へ変わる。
「子供の頃の俺にも言ってたよな?『貴方は特別な子なのよ』って。あれは何だったんだよ」
その言葉を口にした瞬間、部屋の中へ静寂が落ちた。
ここへ来てからずっと淀みなく言葉を返していた彼女が、まるで何かを探るように視線を伏せる。
司祭もユーディアも口を挟まず、その様子を見守っていた。
やがて詩織はゆっくりと顔を上げる。
「……不思議ですね。その言葉には覚えがあります」
「じゃあ――」
胸が大きく脈打ち、思わず身を乗り出しかけた俺を制するように、詩織は小さく首を横へ振る。
「ですが、誰に言ったのかは思い出せません」
「……何?」
期待していた答えとはまるで違った。
詩織は静かな口調のまま続ける。
「誰かへ伝えた記憶はあります。ですが、それが誰だったのかは分からないのです」
その返答は、俺の理性を繋ぎ止めていた最後の糸を断ち切るには十分だった。
悪の権化『いやぁ、あと少しだったのにねぇ』
翔「お前の好きにはさせない」
悪の権化『でもさ、ボクの言葉に少しでも頷きかけたのは君だよ?』
僕『や、やめてよ……翔を困らせないで』
悪の権化『ククッ、今回は引いただけ。また会おうね』
翔「次回、『繋ぎ止める者』――俺はまだ、壊れない」




