第19話「起源」
低い冷却音。
青白いモニター光。
床へ倒れた研究員の荒い呼吸。
全部が遠い。
俺の視線は、画面へ表示された最後の一文へ縫い付けられていた。
BLACKは、実験過程で発生した人格反応である。
つまり、悪の権化だけが“後から生まれた”。
だったら、僕は、お嬢は、賢者は、戦闘狂は最初から。
『……ええ。我々は、実験によって作られた存在ではありません』
賢者の静かな声が落ちる。
だが、その奥にはどこか重い響きが混じっていた。
『ごめんね……でも、翔が自分で辿り着かなきゃいけないって思ったから』
僕の不安そうな感情が、頭の奥へ静かに滲む。
怯えるような、申し訳なさそうな気配が伝わってくる。
「お前ら……知ってたのか?」
『……うん』
僕の小さな返事だけが返ってくる。
けれど、それが妙に胸へ刺さった。
『どうやら、あなたが受け止められない情報は、私たちも口にできないようです』
静かに口を開いたのは賢者だった。
『何度伝えようとしても、その話題になると言葉が出ません』
賢者は一度言葉を切り、自らの現象を整理するようにわずかに思案した。
『まるで、あなた自身が心の奥底へ鍵を掛け、その鍵が私たちの口まで縛っているかのように』
その冷静な説明を聞いても、すぐには理解できなかった。
「……そんなことが、本当にあるのか?」
『少なくとも、私たちはそのように認識しています』
賢者は淡々と答える。
『ハッ、今更だろ。オレらは最初からお前の中にいた。“そういうモン”だと思ってたぜ』
今度は戦闘狂の苛立つような熱量が流れ込んでくる。
「最初から……」
喉がひどく乾く。
じゃあ、俺は何なんだ。
何で人格なんてものがいる。
何で、こんな風になった。
「……私も、翔のデータを見たことがあったわ」
「……俺の?」
「ええ。担当じゃなかったけれど、翔の記録は何度か目にしたことがあった」
澪は表示された記録を見つめながら、何かを思い返すように目を伏せた。
「人格ごとの異能変化。肉体変化。適応率。人格安定性――翔は全部が異常だった」
「……異常って」
「NABが“最高適合”って判断するくらいには」
「じゃあ……何で、何で、俺は分かれたんだよ」
自分でも驚くくらい、声が掠れていた。
その瞬間だった。
――ガンッ!!
頭の奥で、何かが叩き割られる。
「っ……!?」
脳を無理やり掻き回されるみたいな激痛が走った。
視界が揺れ、呼吸が止まる。
青白いアーカイブの光が、滲むように崩れていく。
そして、目の前には別の景色が広がっていた。
暗い部屋。
古びた天井。
湿った空気。
割れる皿の音。
【なんでアンタは――!!】
鋭い怒鳴り声が響き、身体が強張る。
頭より先に、恐怖の感情だけが全身を支配した。
【ごめんなさい……】
聞こえたのは、震えた幼い声だった。
泣きそうなくせに、必死に声を押し殺している。
俺の声だ。
【うるさいッ!!】
何かが飛ぶ。
ガラスの砕ける音。
反射的に身体が縮こまる。
――怖い。
――痛い。
――逃げたい。
今すぐ、この場所から消えたい。
場面が、ぶつ切りみたいに切り替わる。
今度は、薄暗い書斎だった。
【……また問題を起こしたのか。失望したぞ】
低く冷たい男の声。
怒鳴っているわけじゃない。
なのに、身体が動かなくなる。
胸の奥が、ひどく冷える。
【期待した私が馬鹿だった】
その言葉だけで、息が詰まりそうになる。
違う。
頑張った。
ちゃんとやろうとした。
なのに…何も認めてもらえない。
――怖い。
――否定される。
――壊れる。
だけど、胸の奥で別の感情が暴れる。
――守らなきゃ。
――戦え。
――考えるのです。
――壊れないで。
幾つもの感情が、頭の中で無理やり引き裂かれていく。
「っ、ぁ……!!」
気づけば、俺は頭を押さえていた。
肺が上手く空気を吸えない。
心臓だけが、嫌なくらい暴れていた。
意識の内側が、一気に騒がしくなる。
『翔っ!!』
僕の怯えた声。
不安と恐怖が、そのまま流れ込んでくる。
『これ以上は危険です』
賢者の声は冷静だった。
けれど、その奥には隠しきれない焦りが滲んでいる。
『無理に思い出す必要なんてありませんわ!』
お嬢の感情も大きく揺れていた。
取り乱しかけているのが分かる。
『チッ……最悪の記憶じゃねぇか』
戦闘狂ですら、苛立ったような熱をぶつけてくる。
だけど、その中で一人だけ。
耳元へ甘く囁く声があった。
『ククッ……ようやく“入口”だねぇ』
悪の粘つくような愉悦が、頭の奥へ染み込んでくる。
『もっと思い出しなよ』
「……やめろ」
掠れた声が漏れる。
だが悪は止まらない。
『君は、そんなモンじゃないだろ?』
記憶の奥底へ、無理やり手を突っ込まれる感覚。
『壊れて、砕けて、それでも残ったから――今の君がいるんだ』
「やめろ……!」
『思い出しなよ。君が“何から逃げたのか”をさ』
悪の声だけが、妙にはっきり響く。
「やめろッ!!」
怒鳴った、その直後だった。
「――動くな」
低い声が、張り詰めていたアーカイブの空気を切り裂く。
反射的に顔を上げると、重たい隔壁がゆっくり開き、その奥から複数の武装兵が雪崩れ込んできた。
黒を基調とした強化装甲。
全面フェイスガード付きヘルメット。
胸部には追加装甲。
腕部には異能対策用らしき拘束装置まで装着されている。
ただの警備部隊じゃない。
最初から、“能力者との戦闘”を想定した装備だった。
無駄のない動きで散開しながら、銃口が一斉にこちらへ向けられる。
空気が、一瞬で塗り替えられた。
澪が咄嗟に俺の前へ出ようとする。
「翔――!」
「抵抗は推奨しません」
低い声が響く。
だが、その声は武装兵達のものではなかった。
部隊の奥から、一人の男がゆっくり姿を現れ、重装備の兵士達が左右へ割れる。
年齢は四十代後半くらいか。
白衣を纏った痩せた男だった。
銀縁の眼鏡の奥に見える鋭い目。
そして、その表情だけが異様なほど穏やかだった。
武装集団の中心にいるのに、まるで研究室にでも立っているみたいに男は俺を見つめる。
その視線に、背筋が粟立った。
敵意じゃない。
そう、それは“研究対象”を見る目だった。
男は小さく口元を歪める。
「……ようやく、“扉”が開き始めたようですね」
その言葉を聞くなり、内側から爆発みたいな怒気が膨れ上がった。
叩き壊したい衝動が、一気に理性を押し流しかける。
――戦闘狂が出てこようとしている。
「テメェらァ!!」
自分の意思より先に、言葉が口から飛び出し、一歩踏み出しかける。
「おっと、戦闘人格。下手な真似をすれば、澪君の命はありませんよ?」
白衣の男が、穏やかな声で口を開いた。
同時に武装兵達の銃口が、一斉に澪へ向けられる。
「っ……!」
澪の表情が強張る。
その場の緊張が、一気に張り詰める。
頭の奥で、戦闘狂の激情が荒れ狂っている。
『チッ……!!……今は引く』
激しい舌打ち。
暴れようとしていた熱が、無理やり押し戻される。
苛立ちを滲ませながら、戦闘狂の熱がゆっくり奥へ沈んでいく。
代わりに戻ってきたのは、息苦しいくらいの緊張感だった。
白衣の男は、その様子を静かに眺めている。
「安心してください。我々は、君を排除しに来たわけではありません」
まるで研究発表でもしているみたいな、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「だったらその銃下ろせよ」
「それはできません。君は危険すぎる」
その言葉に、頭の奥で戦闘狂が不快そうな熱を滲ませた。
だが男は気にした様子もなく、白衣の裾を揺らしながらゆっくり前へ出る。
「申し遅れました。私は観測派最高責任者、御堂透という者です」
「観測派……」
澪が警戒を滲ませる。
御堂は、そんな澪を一瞥した後、再び俺へ視線を戻した。
その目には敵意がない。
だが、だからこそ不気味だった。
何かを観察するような、冷たい興味だけがそこにあった。
「君達がアーカイブへ到達することは、既に想定済みでした」
「……泳がされてたって訳か」
「ええ。君には、“記憶”へ辿り着いてもらう必要がありましたので」
さっきの記憶が焼き付いていた。
それなのに、目の前の男はそれすら“観測結果”として眺めている。
「どういうことだ?」
掠れた声で問い返すと、御堂はわずかに目を細め、静かな口調のまま告げた。
「単刀直入に言いましょう。君は未完成なのです」
空気が止まった気がした。
御堂の声には、一切の迷いがない。
「確かに君は、プロジェクト・キメラ唯一の成功例です。ですが、まだ進化の途中段階に過ぎない」
「進化……?」
理解できない。
だが御堂は当然のことみたいに頷いた。
「人格分離は欠陥ではありません。人は極限状況下において、自らを分割し、生存可能性を高める」
御堂は感情を交えず語る。
その声色は人間の話をしているように思えなかった。
「そして君は、その可能性を極めて高水準で実現している」
御堂の視線が、まっすぐ俺へ向けられる。
期待…興味…執着。
その全部が混ざった目だった。
「強硬派は更なる実験によって、我々観測派は記憶の補完によって、その先を見出そうとしているのです」
「記憶の、補完?」
掠れた声が漏れる。
御堂は小さく頷き、なおも穏やかな口調で囁く。
「真実を知りたくはありませんか?BLACK以外の人格が、何故生まれたのか」
「――ッ!?」
心臓が大きく跳ねる。
頭の奥で、一気に感情がぶつかり合った。
『ダメだよ……!思い出したら、また翔が壊れる!』
最初に響いたのは、僕の声だった。
強い不安と恐怖が、そのまま流れ込んでくる。
『精神負荷が高すぎます。現在の記憶復元は極めて危険です』
賢者の声も鋭い。
いつもの冷静さを保ちながらも、その奥には明確な警戒が滲んでいた。
『過去を知ることだけが正しいとは限りませんわ。無理に傷を抉り返す必要なんてありませんの』
今度はお嬢。
その感情には、珍しく焦りが混じっていた。
頭の奥が騒がしい。
拒絶、警戒、不安。
人格達の感情が、次々と流れ込んでくる。
だが、その中で一人だけ、悪が粘つくような、愉悦を滲ませる声を漏らす。
『ククッ……知りたいんだろ?自分が“何なのか”をさ』
「……っ」
――何故、人格が生まれたのか。
その答えだけが、嫌に頭から離れなかった。
「俺に……どうしろって言うんだ」
頭の奥では、まだ人格達の感情がぶつかり合っている。
その全部を押し流すみたいに、御堂は静かに口を開いた。
「簡単です。我々の指示に従い、ある団体と接触してほしいのです」
「団体……?」
「ええ。正確には、その中にいる“ある人物たち”に――ですがね」
その言い方に、妙な引っ掛かりを覚えた。
それは、最初から俺が“誰に会うべきか”まで決まっているみたいだった。
『……誘導するつもりですか』
頭の奥で、賢者の意識が鋭くなる。
「誘導?」
俺が問い返すより先に、御堂はわずかに笑みを浮かべる。
「君には、自分自身の過去と向き合ってもらう必要があります」
感情を感じさせない声音だった。
それなのに、その言葉だけで胸の奥がざわつく。
「彼らと接触することで、失われた記憶は必ず刺激される」
「……っ」
「おっと、拒否するのであれば、澪君はここで処分します」
御堂の声と共に、武装兵の一人が澪の背後へ回る。
銃口が、ぴたりと澪へ向けられた。
「っ……!」
空気が、一瞬で凍りついた。
あまりにも自然な口調だった。
それは“当然の条件”でも提示するようだった。
「翔……ダメ」
澪が、小さく首を振る。
銃口を向けられているのに、それでも俺を止めようとしていた。
怖い。
思い出したくない。
あの記憶の続きを見れば、何かが壊れる気がする。
なのに、胸の奥では別の感情が消えない。
――知りたい。
俺は何なんだ。
何故、こうなった。
そして、澪を失いたくない。
拳を強く握り締める。
爪が掌へ食い込む感覚だけが、妙に現実的だった。
「……分かった。誰に会えばいいんだ?」
人格達の感情が、一気に揺れた。
それでも俺は、御堂から視線を逸らさない。
その問いに、御堂は僅かに目を細めた。
ようやくここまで辿り着いたとでも言いたげに。
「それは――君の母親だよ」
翔「母親……本当に会えるんだよな」
澪「会えるでしょうね。でも、期待しすぎない方がいいわ」
僕『……怖いよ。翔が壊れないか』
お嬢『どんな結末になろうと、わたくし達は翔様の味方ですわ』
賢者『向き合う時が来たということです』
戦闘狂『邪魔する奴はなぎ倒してやらぁ!』
悪の権化『ククッ……“感動の再会”になるといいねぇ』
翔「次回、『福音の門』――俺の母親ってどんな人なんだ?」




