第18話「観察記録」
重たい隔壁が、低い駆動音を響かせながらゆっくり開いていく。
その奥に広がっていた光景を見て、思わず息を呑んだ。
「……ここが、アーカイブ……」
白を基調としていた今までの研究区画とは違う。
内部は薄暗かった。
黒い壁。
規則的に並ぶ大型サーバー。
床下を走る青白いライン光。
静まり返った空間には、低い冷却音だけが絶え間なく響いている。
まるでここだけ、別の施設みたいだった。
空気も違う。
冷たいというより、重い。
ここには、誰にも知られたくない何かが積み重なっている――そんな圧迫感があった。
『ククッ……いいねぇ。いかにも“秘密”って感じじゃないか』
悪が喉の奥で笑う。
研究員は虚ろな目のまま、その後ろを歩いていた。
足取りはぎこちない。
まるで糸で無理やり動かされているみたいだった。
澪が小さく顔をしかめる。
「……長時間使役して大丈夫なの?」
『平気平気、まだ壊れてないから』
悪は軽い調子で返す。
その言い方が、逆に怖い。
アーカイブ内部には無数の端末が並んでいた。
壁面モニター。
データ保存ラック。
中央制御卓。
そして、その最奥。
他より一回り大きな端末が、青白い光を放っている。
『あれかな?』
悪がふらつく足取りの研究員と共に、中央端末へ近づいていく。
今、この身体を支配しているのは悪の権化だった。
だが、不思議と分かった。
賢者も内側から、この空間を見ている。
無数の情報。
保存データ。
端末構造。
きっと今も解析を続けているんだろう。
研究員が中央端末へ手を置く。
直後、モニター中央へ赤い警告表示が浮かび上がった。
《ACCESS DENIED》
《RESEARCH AUTHORITY REQUIRED》
「……やっぱり簡単には見せてくれないわね」
澪が警戒した声で呟く。
『ククッ……だから連れてきたんじゃないか』
悪は口元をゆっくり吊り上げ、研究員の肩へそっと手を置く。
『ほら、開けて』
虚ろな瞳のまま、研究員がゆっくり操作を始める。
認証コード入力。
権限照合。
追加承認。
端末へ次々と認証画面が表示され、その度に研究員は無言で処理を進めていく。
《SPECIAL RESEARCH DATA - AVAILABLE》
青白いモニターへ、無数のデータ一覧が表示された。
人体実験記録。
適合試験。
被験体管理番号。
その異様な単語の羅列に、背筋が冷える。
そして、一つのフォルダ名が、静かに表示されていた。
《PROJECT CHIMERA》
その文字が表示された瞬間だった。
「っ……!」
突然、研究員の身体が大きく揺れる。
直後、糸が切れたみたいに床へ崩れ落ちた。
「!?」
澪が息を呑む。
研究員は床へ倒れたまま、小刻みに身体を痙攣させていた。
虚ろだった瞳は焦点を失い、口元から荒い呼吸が漏れている。
まるで脳が処理しきれなくなったみたいだった。
『……あれ?壊れちゃったかな?』
悪が、不思議そうに首を傾げる。
その声音には、罪悪感の欠片もなかった。
「ちょ、ちょっと……!」
澪が警戒したように後ずさる。
だが悪は、倒れた研究員へ興味深そうに視線を向けているだけだった。
まるで壊れた玩具を眺めているみたいに。
(悪、そろそろ戻れ)
頭の奥で、俺は低く告げる。
『えー?せっかく出てきたんだからさー』
悪が露骨に不満そうな声を漏らした。
(十分だ。これ以上は洒落にならない)
『……ちぇっ』
小さく舌打ちみたいに呟いた瞬間、視界が、大きく揺れた。
身体の奥を満たしていた粘つく感覚が、ゆっくり引いていく。
赤黒く染まっていた視界が薄れ、沈んでいた意識が浮かび上がってきた。
代わりに戻ってくるのは、重たい疲労感と、不快な後味だった。
「……後は私が操作するわ」
澪が端末へ向き直る。
そして無数のデータ一覧が、青白いモニターへ一気に展開された。
「おいおい……どれを見たらいいんだよ」
情報量が多すぎる。
画面を流れる記録の数だけで、頭が痛くなりそうだった。
「被験者ごとのデータがあるはずよ」
澪は迷いなく検索画面を開いていく。
その動きには、妙な慣れがあった。
見ているこっちが不安になるくらいに。
「確か、翔は……被験体S-01だったはず」
その言葉と同時に、検索欄へコードが入力される。
《S-01》
検索実行。
数秒後。
画面中央へ、一件のデータが表示された。
「……あったわ」
澪が小さく呟く。
青白いモニター中央に表示された、《SUBJECT : S-01》の文字。
その下には、膨大な記録ファイルが並んでいた。
人格誘導実験。
異能適合試験。
精神負荷観測。
薬物投与ログ。
被験体記録。
適合率。
俺は無意識に息を呑む。
「これ全部……俺の?」
「……そういうことになるわね」
澪の声は重かった。
そして、彼女は一番上のファイルへカーソルを合わせてクリックする。
《EXPERIMENT RECORD》
すると、大量の実験記録が、モニターいっぱいに表示された。
――――
《被験体:S-01》
《年齢:13歳》
《PROJECT CHIMERA 第三実験群》
《精神分裂反応:確認済》
《人格分離傾向:極めて高い》
――――
「……十三歳」
声が漏れる。
画面に表示されている年齢が、妙に現実感を持って胸へ刺さった。
十三歳と言ったら中学生になったばかりくらいの年齢だ。
そんな頃から、俺はここにいたのか。
モニターには、さらに記録が続いていた。
――――
《人格誘導試験 開始》
《神経刺激剤投与》
《脳波反応観測》
《強制人格交代処置 実施》
――――
「っ……」
無意識に眉をしかめる。
並んでいる文章は短い。
なのに、その一つ一つが嫌に生々しかった。
――――
《防衛人格 出現確認》
《戦闘人格 反応増加》
《演算人格 活性化》
《人格安定率:87%》
《過去被験体比較:最高適合》
――――
「最高適合……?」
俺が小さく呟く。
澪は険しい表情のまま、モニターを見つめていた。
「……他の被験者は、人格誘導に耐えきれないことが多かったの。でも、翔は違った」
澪の視線が、表示されたデータへ向けられる。
――――
《人格誘導安定率:継続上昇》
《長期観測対象へ移行》
《被験体S-01を優先研究対象に指定》
――――
胸の奥がざわつく。
まるで人間として扱われていない。
“成功例”。
ただ、それだけの理由で。
さらにスクロールすると、そこには別の記録が表示されていた。
――――
《被験体S-01、人格切替時、生体構造変化を確認》
――――
その一文を見た瞬間。
空気が、わずかに張り詰めた気がした。
澪が、ゆっくりとその記録を開く。
モニターへ複数の比較画像と波形データが表示された。
人体スキャン。
筋肉密度。
骨格構造。
神経反応。
そして、その横には人格名と思われる識別コードが並んでいる。
《DEFENSE》《COMBAT》《SAGE》《PRINCESS》
「……なんだ、これ」
自分の声が、少し掠れていた。
澪は険しい表情のままモニターを見つめている。
「人格切替時の生体変化データよ」
「生体変化……?」
「人格が切り替わる瞬間、翔の身体そのものが変化していたの」
澪が画面をスクロールする。
――――
《DEFENSE》
《防衛人格発現時》
《神経反応速度上昇》
《防御異能出力増加》
《痛覚抑制反応確認》
――――
《COMBAT》
《戦闘人格発現時》
《筋繊維出力増大》
《攻撃衝動活性化》
《身体能力急上昇》
――――
《SAGE》
《演算人格発現時》
《脳波演算領域異常活性》
《空間認識能力向上》
《情報処理速度増加》
――――
「……っ」
見覚えがあった。
いや、“感覚”として知っていた。
人格が切り替わる時、思考だけじゃなく、身体そのものが変わるようなあの感覚。
あれは気のせいじゃなかった。
モニターにはさらに記録が続いていた。
――――
《被験体S-01》
《人格ごとの肉体反応差異を確認》
《異能適応に伴い、生体構造が部分変質》
《人格別肉体形成現象を観測》
――――
「人格別……肉体形成?」
その単語を見た瞬間、背筋に嫌な寒気が走った。
まるで人格達が、“ただの精神”じゃないみたいな言い方だったからだ。
澪も、その言葉の重さを理解している顔だった。
「……NABは、人格を“別個の存在”として扱い始めていた」
「別個って、おい……」
「人格によって身体反応が完全に変わる。異能特性も変化する。だから研究側は、“人格ごとに別の肉体を形成しているに近い”って判断したの」
そこまで言って、澪は一瞬だけ視線を伏せた。
「……翔は、プロジェクト・キメラの中でも特別だった」
アーカイブの冷たい光が、静かに俺達を照らしていた。
澪が、さらに記録をスクロールしていく。
すると、無機質な実験ログとは別に、一件のテキストファイルが表示された。
《Observation Report - S-01》
「観察レポート……?」
ファイルを開いた瞬間。
画面いっぱいに、長文の記録が表示された。
今までの無機質なデータとは違う。
これは、“誰か”が書いた文章だった。
――――
《観察記録:被験体S-01、担当研究員:■■■■》
被験体S-01は、過去被験体群と比較して極めて高い人格適応率を示している。
特筆すべきは、人格切替時における異能出力及び肉体変化反応である。
防衛人格、戦闘人格、演算人格、補助人格――いずれも安定傾向にあり、人格ごとの能力差異も明確に確認された。
本計画における最優良被験体である可能性が高い。
――――
そこまでは、まだ普通の研究記録だった。
だが、少し下へスクロールした瞬間。
文章の空気が、変わった。
――――
本日、新規人格反応を確認。
既存人格群との一致なし。
仮コード:BLACK。
初回発現時、複数研究員へ精神異常反応を確認。
被験体S-01自身にも著しい精神負荷が発生。
BLACK発現後、人格構成バランスに異常発生。
――――
「……BLACK」
嫌な予感が、背筋を這う。
澪も険しい表情で画面を見つめていた。
さらにスクロールすると、そこから明らかに文章が乱れ始めていた。
――――
BLACKは危険だ。
あれは既存人格ではない。
少なくとも、S-01に元々存在していた人格群とは明確に性質が異なる。
侵蝕性がある。
観測時、強い不安感、幻聴、人格汚染症状を確認。
研究員の一名が自傷行為。
二名が精神錯乱。
これ以上の接触は危険だ。
BLACKは、実験過程で発生した人格反応である。
――――
喉がひどく乾く。
そして、最後の一文を見た瞬間、背筋が凍った。
「……え?」
実験過程で発生?
つまり、悪の権化だけは、“後から生まれた”。
だったら――。
「待て……じゃあ……」
視線が、無意識に他の人格記録へ向く。
僕、戦闘狂、賢者、お嬢。
「あいつらは……最初からいたのか?」
静まり返ったアーカイブの中で、その声だけがやけに大きく響いた。
翔「お前ら……実験で生まれたんじゃないのか?」
僕『ごめん……でも、今はまだ全部は話せないんだ』
お嬢『少しずつ思い出す必要がありますの』
戦闘狂『チッ……まわりくどいのは好きじゃねぇけどな』
賢者『ですが、それが最適と言えるでしょう』
悪の権化『ククッ……やっと入口だねぇ』
翔「次回、『起源』――俺の過去は…いったい何なんだ」




