第15話「知るために」
薄暗い部屋の中で、機械音だけが静かに響いていた。
複数のモニターが放つ青白い光が、机や壁に貼られた資料をぼんやりと照らしている。
古いジャズは今も静かに流れているはずなのに、不思議と耳には入ってこない。
頭の中では、さっき聞かされた言葉ばかりが何度も反響していた。
――プロジェクト・キメラ。
――唯一の成功例。
――プロトタイプ。
「……俺は、一体何なんだ」
掠れた声が自然と漏れた。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
人格たちの声も、まだ微かに残っていた。
けれど今は、そのどれもが妙に遠い。
俺は椅子へ深く腰を下ろしたまま、自分の掌をぼんやり見つめる。
澪は黙ったまま壁際へ寄りかかり、レイヴンは缶コーヒーを片手にこちらを見ていた。
その灰色の瞳は、まるで俺の反応を観察しているみたいだった。
「さっきも言っただろ?お前はプロジェクト・キメラの唯一の成功例だ」
「……成功例、ね」
思わず自嘲気味に笑ってしまう。
普通じゃないことくらい、自分でも分かっていた。
人格ごとに変わる能力。
異常な身体能力。頭の中で響く声。
確かに、こんなものを“成功”と呼ぶならそうなのかもしれない。
『成功例だなんて、気持ち悪いよ……』
頭の奥で、僕が小さく呟く。
『ですが事実ではあります。我々は、複数人格による役割分担を成立させている』
賢者が冷静に続けた。
『ハッ、要するに連中は“便利な兵器”が欲しかっただけだろ』
戦闘狂が吐き捨てるように笑う。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「プロジェクト・キメラってのは、そんなに重要だったのか」
俺がそう聞くと、レイヴンは缶コーヒーを軽く揺らしながら、小さく肩をすくめた。
「NABにとっては悲願だったろうね。複数人格による能力分担。理論上は最強の異能力兵士だ」
レイヴンは近くのモニターへ視線を向ける。
そこには複雑な波形データや人体構造図が並んでいた。
「だが、実際は上手くいかなかった」
「……どういう意味だ?」
「人格が増えたところで、能力まで変化するわけじゃない。普通はな」
その“普通”という言葉が妙に引っかかった。
「多重人格者を被験体にしたケースは、実はお前が初めてじゃない」
空気が、一瞬止まった気がした。
「……は?」
「人格分離、精神崩壊、廃人化。まともに成立したケースなんてほとんどなかった」
淡々とした声音だった。
まるで報告書でも読み上げているみたいに。
けれど、その一つ一つの単語が妙に生々しくて、背筋が冷える。
「人格が違っても、結局“肉体”は一つだからね。戦闘特性まで変質するケースは確認されなかった」
レイヴンの瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。
その視線に、思わず息が詰まりそうになる。
「……だが、お前は違った」
部屋が静まり返る。
『…………』
頭の奥で、人格たちも静まり返っている。
さっきまで騒がしかったのが嘘みたいに。
「人格ごとに戦闘スタイルが変わる。身体能力すら変質する。NABの研究者連中は相当興奮しただろうさ」
レイヴンはそこで言葉を切ると、小さく鼻で笑った。
だが、その笑みには愉快さよりも、どこか呆れに近い色が混じっていた。
「まあ同時に、恐怖もしてたみたいだけどな」
「恐怖……?」
「人間、未知数なものを前にすると恐怖するもんさ」
その声音は静かだった。
だが、その言葉だけ妙に重い。
「それこそ、実験を続行したい強硬派と、経過観察したい観測派に分かれるくらいな」
強硬派。観測派。
俺はどちらにせよ連中にとって“研究対象”という扱いなんだろう。
「そんな風に上がゴタついてる最中、澪の嬢ちゃんはお前を逃がしたわけだ」
「……っ」
壁際で黙っていた澪の表情がわずかに強張る。
「逃がすタイミングとしては、まあ運が良かったってことだな」
軽い口調だった。
だが、その言葉の裏には、少しタイミングが違えば俺は今も施設の中だった――そんな現実が滲んでいる。
「私は、そこまで考えてたわけじゃないわ」
澪は静かに言い返した。
声は落ち着いている。
けれど、その瞳の奥には微かに揺れる感情が見えた。
「ただ……あの時の貴方を、あそこへ置いていけなかっただけ」
その一言だけで、地下空間の空気が少し変わる。
損得とか、組織の事情とか、そういう理屈じゃない。
澪は、本当にただ“見捨てられなかった”んだ。
地下空間へ、しばらく静寂が落ちる。
機械音だけが、やけに大きく響いていた。
レイヴンはそんな空気を気にした様子もなく、椅子へ深く身体を預けた。
「そんなわけで、上層部は大混乱って訳だな」
唯一の成功例、肉体変質、そして逃亡。
連中からすれば、全部が想定外だったんだろう。
レイヴンはモニターの青白い光を横目に見ながら、ゆっくり息を吐く。
「俺が知ってるのもここまでだ」
「……は?」
思わず声が漏れる。
ここまで散々意味深な話をしておいて、それで終わりなのか。
だがレイヴンは特に気にした様子もなく、指先で空になった缶を軽く転がした。
「俺は研究者じゃないんでね。知ってるのは組織の裏事情と、流れてきた情報くらいだ」
本当にそれだけなのか――そんな疑念が頭をよぎる。
だが、今のレイヴンの表情からは、それ以上何も読み取れなかった。
やがてレイヴンは、机の端を軽く指で叩いた。
「もっと知りたいなら、あそこに行くしかない」
「あそこ?」
俺が眉をひそめると、レイヴンはゆっくり口元を歪めた。
「NAB日本支部のデータ保管区画――通称“アーカイブ”」
その名前だけで、空気が少し冷えた気がした。
レイヴンは端末の一つを操作する。
直後、部屋中央のモニター群が一斉に切り替わった。
そこへ表示されたのは、巨大な施設構造図だった。
立体投影された幾重ものフロア。
無機質な通路。地下深くまで伸びる構造。
その光景だけで、息が詰まりそうになる。
「日本支部で行われた実験記録や被験体データが集約されてる場所だ。もちろん、キメラ計画の記録もな」
モニター上で、一番深い区画が赤く点滅する。
レイヴンは立体構造図を眺めながら、小さく息を吐いた。
「ただし――簡単には辿り着けない」
空気が少し張り詰める。
「監視システム、自動警備、生体認証。今も現役のセキュリティが山ほど残ってる」
モニター上へ、次々と赤い警告ラインが表示されていく。
「潜入は極めて困難だ。捕まる可能性は大いにある」
レイヴンは立体構造図をしばらく眺めた後、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
灰色の瞳が、真っ直ぐ俺を捉える。
「それでも行くかい?」
俺はモニターへ視線を向ける。
赤く点滅する最深部、“アーカイブ”。
あそこに、俺の過去がある。
知らなきゃいけない。
逃げ続けるだけじゃ、多分もう前には進めない。
だから――。
「ああ、もちろん」
自分でも驚くくらい、迷いはなかった。
澪はしばらく何も言わなかった。
ただ、“止めても無駄だ”と理解したみたいに、小さく息を吐く。
「……本気なのね」
「今さらだろ」
「……そうね」
澪は苦笑にもならない薄い息を漏らした。
その目には、まだ不安が残っている。
「捕まれば、今度こそ終わるかもしれない」
責めるような声じゃない。
ただ、“それでも行くのか”を確認しているだけだった。
「それでも行く」
俺が答えると、澪は数秒だけ黙り込む。
やがて、小さく目を伏せた。
「……だったら、せめて無茶は私の見てるところでして」
澪のその言葉に、思わず小さく息が漏れた。
呆れているのか。諦めているのか。
それとも、覚悟を決めたのか。
多分、その全部なんだろう。
――そして。
『……本当に行くの?』
最初に響いたのは、僕の不安そうな声だった。
頭の奥で、小さく震えている。
『……また怖いことが待ってるかもしれないんだよ?』
僕の言葉に、胸の奥が少しだけ重くなる。
白い部屋。冷たい椅子。
頭へ焼き付いた断片的な記憶。
さっき見たばかりの光景が、一瞬だけ脳裏を掠めた。
「……わかってる」
強がりじゃない。
怖くないわけがない。
けれど、それでも進まなきゃいけないんだ。
『仮に潜入できて情報を得たとしても、潜入後の撤退難易度は極めて高いでしょう』
続いた賢者の声は、いつも通り冷静だった。
「相変わらず、嫌になるくらい現実的だな……」
思わず苦笑が漏れる。
だが賢者は、そんな俺の反応を気にした様子もなく静かに続けた。
『ですが、アーカイブへ到達できれば、貴方自身に関する情報を得られる。つまり、行く価値はある――そういうことです』
『ふふっ、でしたら決まりですわね。敵地潜入なんて、ちょっとした映画みたいで素敵じゃありませんこと?』
今度はお嬢が、どこか楽しそうに笑った。
「いや、俺は全然そんな気分じゃないんだけど」
『あら?わたくしは嫌いではなくてよ?』
くすくすと笑う声が、頭の奥で響く。
その軽やかな声音のおかげか、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ気がした。
『ハッ、ようやく面白くなってきたじゃねぇか!潜入がバレたら暴れてやるぜ!』
戦闘狂が、喉の奥で愉快そうに笑う。
「お前の出番がないことを祈るよ」
『おいおいつれねぇな』
ケラケラと笑う声。
だがその奥には、僅かな怒気が混じっていた。
『オレは気に入らねぇんだよ。好き勝手弄びやがった連中がよ』
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
戦闘狂は危険だ。
乱暴で、制御しづらくて、正直一番厄介な人格かもしれない。
でも、こいつなりに怒っているんだ。
俺に対して行われたことへ。
そして最後に。
『ククッ……“アーカイブ”かぁ。楽しみだね』
背筋を薄く撫でるような、悪の権化の冷たい笑い声が響いた。
その声音だけで、空気が少し変わる。
『君が“忘れたもの”を、たくさん見られるだろうからさ』
「…………」
思わず息が詰まる。
まるで本当に、その場所を知っているみたいな口ぶりだった。
頭の奥で、悪が静かに笑う。
その声だけが、妙に耳へ残っていた。
翔「アーカイブか……潜入は難しそうだな」
澪「そのために作戦を練るんじゃない」
賢者『分析と解析はお任せください』
お嬢『潜入は華麗に参りましょう♪』
戦闘狂『敵が来たらぶっ飛ばしてやるぜ!』
翔「はぁ……頼れるのは賢者だけか」
悪の権化『ククッ……ボクにもお楽しみは取っておいてね』
僕『次回、「潜入作戦」――無事に帰れるといいけど……』




