第9話「地下からの出発」
目を覚ました時、地下基地の空気は昨夜より少しだけ冷えていた。
外の朝日なんて当然見えない。
けれど、壁際に置かれた古びたデジタル時計が示す時刻――
AM5:25
もう夜じゃないことだけを無機質に教えてくる。
「……早」
掠れた声を漏らしながら、簡易ベッドの上でゆっくり身体を起こす。
慣れない時間に起きたからか、まだ少し頭が重い。
しかし視線を上げた先に広がる光景が、眠気を少しずつ現実へ引き戻した。
「……なんだ、これ」
地下基地の簡易テーブル。
昨夜までは保存食や簡易器具が置かれていたそこに、
今は古いノートPC、数枚の紙資料、手書きのメモ、そして大まかな地図まで広げられている。
まるで、小さな作戦室だった。
「起きたのね」
モニターの淡い光を横顔に受けながら、澪が椅子に座ったまま振り向く。
……もう、とっくに起きていたらしい。
というより、多分あまり寝ていない。
目の下に薄く残る疲労の気配が、それを物語っていた。
「……いつから起きてんだよ」
「二時間くらい前」
「寝ろよ」
「寝てる場合じゃないもの」
当然みたいな顔で言うあたりが澪らしい。
呆れ半分で息を吐きながら、ベッドから降りる。
そして、テーブルへ近づいたところで気づく。
地図の一部。
都内外れと思われる地点に、赤い丸印。
その横に雑な筆跡で書かれていた一つの単語。
『RAVEN』
「……レイヴン?」
口にすると、澪の表情がほんの少しだけ引き締まった。
「これから会いに行く男のコードネームよ」
短く、淡々とした声音だが、少しだけ警戒が混じっている。
「本名は?」
「知らない方がいいわ」
「は?」
「こっちも、あっちも。その方が都合がいい世界ってこと」
……なるほど。
朝イチで理解した。
普通じゃない。
いや、もう今さらだけど。
それでも、こうして改めて“名前すら本物かわからない相手”が次の目的地になると聞かされると、嫌でも現実味が増す。
澪は地図上の赤丸を指先で軽く叩いた。
「……準備を整えて、早く行こう」
自分でも驚くくらい、声は思ったより落ち着いていた。
澪は数秒だけ俺を見て――小さく頷く。
「ええ」
テーブルの上に並ぶ地図と資料は、もう“潜伏”だけじゃ終われないことをはっきり示していた。
今日、俺たちは地下から次の危険へ向かう。
◇ ◇ ◇
「……まず、その格好を変える」
澪はそう言って、地下基地の隅に置かれていた古い金属ロッカーを開けた。
中から取り出されたのは、いかにも“その辺に紛れそうな”地味な服。
色褪せたカーキのライトジャケット。
灰色の無地シャツ。
癖のないダークブラウンのパンツ。
良く言えば無難。
悪く言えば、驚くほど華がない。
「……これ着ろって?」
「その服も、奴等に覚えられてる可能性があるわ」
……まあ、それは分かる。分かるけど。
「何その反応」
「いや……なんか、“俺”感なくなるなって」
『もっとマシな格好はありませんの?地味を通り越して、没個性ですわよそれ』
頭の中で、真っ先に食いついたのはお嬢だった。
「お前が着る訳じゃねぇだろ」
『ですけど、美意識というものが――』
『どーでもいいから早く行こうぜ。服なんざ何でもいい。動けりゃ十分だろ』
お嬢に割り込むように戦闘狂が吐き捨てる。
『目立たないことを優先してください。現状、外見的特徴を減らすことは合理的です』
賢者の冷静な声が、その場を強制的に終了させた。
「……はいはい」
結局、まともなのは賢者だけか。
軽くため息を吐きながら服を受け取る。
澪は慣れた手つきで、次に俺のスマホへ視線を向けた。
「それも置いていくわ」
「……あ?」
数秒の間。
「……いや、ちょっと待てよ」
「GPS、通信履歴、位置情報、端末識別。追跡される理由を持ち歩く気?」
「それは……」
正論すぎて返す言葉が見つからない。
昨日まで当たり前みたいに持ってた物。
連絡先、写真、メモ。
そういう“普通”が詰まってる。
「……マジかよ」
思ったより、声に未練が滲んだ。
澪は少しだけ表情を和らげる。
「気持ちは分かる。でも、それを持ってる限り“昨日まで”に引っ張られる」
スマホを握る手に、少しだけ力が入る。
けれど数秒後、俺は観念したように息を吐いた。
「……分かったよ」
スマホをテーブルの上へ置くと、やけに重い音がした気がした。
澪はそれを確認すると、すぐに電源を落とし、金属箱の中へ。
「後で処分する」
本当に容赦がない。
でも、多分それが正しい。
そして澪は、地下基地の監視端末へ向き直る。
古いモニターに映るのは、喫茶店周辺の外部カメラ映像。
「……やっぱり」
澪の声が、少し低くなる。
「何だよ」
「監視が増えてる」
画面の端に、不自然に長く同じエリアへ留まる車両。
巡回頻度の高いドローン。
昨日より明らかに、“探している側”の気配が濃い。
「包囲、まではされてない。でも……時間の問題ね」
「……急ぐしかない、ってことか」
「正面は避ける。裏通路から出るわ」
安全なんてどこにもない。
だけどここで立ち止まっていれば、もっと確実に詰む。
澪が最終確認のために端末を操作している少しの間、壁にもたれた俺は、妙に落ち着かない呼吸を一つ吐いた。
ここから出れば、もう後戻りは簡単じゃない。
レイヴンが敵か味方かも分からない。
全部、自分で選んだはずなのに。
喉の奥に、言葉にならない重さが残る。
『……怖い』
不意に聞こえた僕の声は、小さかった。
怯えるようでいて、でも確かにそこにある声。
それは今の俺が一番、口にしたくなかった本音だったのかもしれない。
「……俺もだよ」
小さく返す。
強がって否定するほど、もう子供じゃない。
知らない場所、知らない真実、知らない自分。
怖いものは怖い。
『俺達がいるんだ、怖いもんなんてねぇだろうが!』
その空気をぶち壊すみたいに、戦闘狂の声が頭の中へ響いた。
……相変わらず、暑苦しい。
でも、その真っ直ぐすぎる物言いに、少しだけ肩の力が抜けた。
「それは……まぁ」
否定しきれず、思わず苦笑が漏れる。
実際、こいつらの戦闘能力は折り紙付きだ。
『……ククッ。どうなるか愉しみだね』
背筋に薄く冷たいものを這わせるみたいに、悪の権化が嗤う。
多分こいつにとっては、本当にそうなんだろう。
真実も、危険も、破滅すら。
全部まとめて、“面白い”側に分類していそうで腹が立つ。
「人の気も知らねぇで」
『知ってるさ……だからこそ、愉しみなんじゃない?』
「……は?」
意味深な言葉だけ残して、悪はそれ以上語らない。
相変わらず、性格が悪い。
「……行くぞ」
誰に向けたのか、自分でも分からないまま呟く。
その言葉は、“止まる側”じゃなく、“進む側”の声だった。
◇ ◇ ◇
「……行くわよ」
澪の低い声が、地下基地の空気を静かに切り替えた。
それまでモニターに向けられていた視線が、今度は奥まった壁際――一見すると古い棚にしか見えない場所へ向く。
澪は迷いなくその一角へ手をかけた。
鈍い金属音。
次の瞬間、僅かに響く駆動音と共に、棚が横へとスライドしていく。
「……うわ」
その奥に現れたのは、人一人が通れる程度の細い通路。
コンクリート剥き出しで最低限の照明があるだけ。
まるで、地下基地そのものが“逃げるため”に作られていたみたいだった。
「元々、緊急脱出用よ」
澪は短く言って、先に足を踏み入れる。
「私から離れないで」
「了解」
通路は思ったより長かった。
無言のまま進む数分。
足音だけが、狭い空間に小さく反響する。
途中、古びた配管や使われなくなった資材が視界を掠めるたび、
ここが“普通の避難経路”じゃないことを嫌でも理解させられる。
ずっと昔から、こういう“もしも”を想定していた場所。
……澪は、どこまでを想定してここまで備えていたんだ。
やがて前方に、微かな自然光が見えた。
地下の人工灯とは違う。
白く、薄く、それでも確かに“外”を感じさせる光。
通路の突き当たりには古びた重い鉄扉があった。
長年使われ続けたのか、表面には細かな傷と錆が浮いている。
澪はすぐには開けない。
まず呼吸を潜めるように静止し、耳を澄ませる。
物音、足音、人の気配。
数秒にも満たない沈黙。
けれど、その短い時間が妙に長く感じた。
澪は、ゆっくりと鉄扉へ手をかける。
……ギィ。
軋みを最小限に抑えるよう、慎重に。
扉をほんの僅かだけ開く。
差し込んだ朝の光が、暗い通路へ細く流れ込んだ。
その隙間から外を確認する澪の横顔は、地下基地で見せていた時以上に鋭い。
視線だけで周囲を探る。
「……今なら行ける」
その一言で、自分でも気づかないうちに詰めていた息を少しだけ吐き出す。
澪は扉を人一人通れる程度まで開き、先に外へ出た。
「私から離れないで」
「ああ」
その背中を追って、地下から外へ足を踏み出す。
そこは喫茶店の裏口――というより、建物裏の搬入口に近い場所だった。
表通りからは死角。
古いコンテナや清掃道具、使われなくなった看板に紛れるように存在している。
なるほど。
確かに、正面から見るだけじゃ気づきにくい。
「こっち」
そこに停まっていたのは、ここへ来る時に使った車じゃない。
もっと古い。
少し色褪せたシルバーのコンパクトカー。
正直、どこにでもありそうで印象に残りにくい。
「……別の車?」
「昨日の車をそのまま使うほど甘くないわ」
言いながら、澪は運転席のロックを解除する。
「追跡される可能性があるものは、できるだけ切る。基本でしょ」
……本当に、徹底してる。
少しだけ呆れながらも、その“徹底”が今の生存率を支えていることも理解していた。
助手席へ乗り込んでシートに深く腰を下ろした瞬間、地下とは違う“動き出すための現実”が急に輪郭を持つ。
エンジンが静かにかかる。
澪は前方を見据えたまま、小さく息を吐いた。
「目的地は、レイヴンの指定ポイント付近」
「……いよいよ、って感じだな」
「ここから先は……今までより、ずっと危険よ」
その言葉に、軽さはなかった。
俺は短く、前を向いたまま返す。
「……だから行くんだろ」
一瞬だけ、澪がほんの僅かに口元を緩めた気がした。
「そうね」
車が静かに動き出す。
喫茶店の裏口、地下基地、束の間の潜伏。
それらを少しずつ後ろへ置き去りにしながら朝の街へ。
何も知らず、朝を生きる人々の中へ。
そして俺たちは、その普通の裏側にある真実へ向かう。
もう、止まれない。
ここから先は――自分の足で、自分の意志で、“知らないまま”を終わらせに行くんだ。
翔「レイヴン…名前だけでもうさんくせぇな」
澪「裏社会を生きる人間なんて、そんなもんでしょ」
僕『僕、嫌な予感がするよ……』
戦闘狂『おっ、いよいよ戦えんのか!?』
賢者『判断材料にはなりませんが、警戒は推奨します』
お嬢『ふふっ、危険な硝煙の香りがしますわね』
悪の権化『ククッ……玩具は壊してこそ、だよねぇ?』
翔「次回、第10話『待ち伏せ』――お前ら遠足じゃねぇんだぞ?」




