第96話 “味方でいる”と言われた瞬間、恋は少しだけ戦える形になる
今週末に一条家の人たちと会う。
その予定が決まってから、時間の流れがおかしくなった気がした。
授業中はやたら遅いのに、放課後になると急に早い。
夜になると考えごとばかり増えるのに、朝はあっという間に来る。
落ち着こうとしているのに、気がつくとまた別の不安を拾っている。
服。
言葉遣い。
食事の作法。
最初の挨拶。
質問されたときの答え方。
気にし始めると、きりがない。
でも、きりがないままでも、日は近づいてくる。
「……やばい」
朝、鏡の前でそうつぶやいてから、私は眼鏡の位置を直した。
顔色はそこまで悪くない。
でも、中身は全然整っていない。
今日もたぶん、ひまりには一瞬で見抜かれるだろう。
恒星くんにも。
そう思いながら家を出た。
◇ ◇ ◇
案の定、教室へ入った瞬間、ひまりは私の顔を見てため息をついた。
「おはよ」
「……おはよう」
「寝れてないでしょ」
「……少しは」
「少し、ね」
彼女は前の席に座って、机に頬杖をつく。
「頭の中、今週末のことでいっぱい」
「……」
「図星」
私は鞄を置いて、小さく息を吐いた。
「……だって」
「うん」
「何をどう準備したらいいのか分からない」
「うん」
「ちゃんとしたいのに」
「うん」
「“ちゃんと”が何かも、いまいち分からない」
そう言うと、ひまりは少しだけ目を細めた。
笑わない。
軽くも流さない。
その反応だけで、少しだけ助かる。
「ねえ」
ひまりが言う。
「何」
「今の栞、たぶん“失敗しないこと”に気持ち寄りすぎ」
「……」
「もちろん大事だけど」
「……」
「ほんとに一番大事なの、そこかな」
私はすぐには答えられなかった。
失敗しないこと。
たしかに、そこばかり考えていた気がする。
変に思われたくない。
足りないって思われたくない。
恒星くんの隣にいるのにふさわしくない、なんて判断されたくない。
でも、それだけで向かうのは、何か少し違うのかもしれない。
「……じゃあ、何」
小さく聞くと、ひまりは少しだけ肩をすくめた。
「それは一条くんか、澄香さんに聞いた方が早そう」
「……」
「ほら、あの人」
「……澄香さん」
「そう」
その名前を出されると、胸の奥が少しだけざわつく。
でも、前みたいな棘のあるざわつきではなかった。
「……連絡、していいのかな」
「していいんじゃない?」
「でも」
「うん」
「迷惑かも」
「澄香さんが“味方”側なら迷惑じゃないでしょ」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
味方。
そうだ。
澄香さんは、はっきりそう言ったわけではないけれど、あの日の最後の空気はたしかに敵ではなかった。
少なくとも、私を笑いに来た人ではない。
覚悟を見て、それを受け取ってくれた人だ。
「……聞いてみる」
「うん」
「こわいけど」
「うん」
「でも、いま一番知りたいのそこかも」
そう言うと、ひまりが少しだけやわらかく笑った。
「それでよし」
「……」
「で、返事来たらちゃんと見せて」
「何で」
「私も気になるから」
私は少しだけ笑ってしまった。
こういうところが、ひまりらしい。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私は何度か迷った末に、澄香さんへ短いメッセージを送った。
『突然すみません』
『今週末のことで、少しだけ相談してもいいでしょうか』
送った瞬間、心臓がどくんと鳴る。
やっぱりこわい。
内容自体はたいしたことじゃないのに、相手が相手だから、必要以上に緊張してしまう。
返事は思っていたより早かった。
『もちろん』
『放課後、お時間ある?』
その一文を見た瞬間、私は小さく息を止めた。
放課後。
つまり、ちゃんと時間を取ってくれるということだ。
『あります』
そう返すと、すぐに場所が送られてきた。
前と同じ、あの日本茶カフェだった。
◇ ◇ ◇
放課後。
私はひまりにだけ事情を話して、先に学校を出た。
「行ってらっしゃい」
ひまりはいつもみたいに軽く言ったけれど、目だけは少し真面目だった。
「変に一人で抱え込まないで」
「うん」
「帰ったら連絡」
「分かった」
そのやり取りに少しだけ背中を押されて、私は駅へ向かった。
カフェに入ると、澄香さんはすでに席についていた。
前と同じように、静かな場所が妙に似合う。
でも今日は、その“似合いすぎる感じ”に前ほど圧倒されなかった。
慣れたわけじゃない。
ただ、前より少しだけ、自分の足でここへ来ているからだと思う。
「ごめんなさい、呼び出すみたいになって」
澄香さんが言う。
「いえ」
「座って」
「……はい」
向かいに座る。
お茶を頼んでから、少しだけ沈黙が落ちた。
何から言えばいいんだろう。
そう迷っていたら、澄香さんが先に口を開いた。
「今週末のことね」
「……はい」
「かなり緊張してるでしょう」
図星すぎて、私は少しだけ苦笑した。
「……かなり」
「でしょうね」
その言い方に、少しだけ救われる。
変に励まされるより、ずっと楽だった。
「私」
私はゆっくり言葉を選んだ。
「ちゃんとしたいんです」
「ええ」
「でも」
「……」
「何をどう気をつければいいのか、分からなくて」
「……」
「変に思われたらどうしようとか」
「……」
「失礼があったらどうしようとか」
そこまで言うと、澄香さんはしばらく黙っていた。
それから、小さくため息をつく。
「栞さん」
「はい」
「まず一つ」
「……」
「“完璧に見せる”のはやめた方がいいわ」
私は思わず目を上げた。
「……」
「無理をすると、すぐ分かるもの」
「……」
「特に、ああいう場では」
その言葉は厳しいわけじゃない。
でも、はっきりしていた。
「じゃあ、どうすれば」
私が聞くと、澄香さんは少しだけ目をやわらげた。
「挨拶をきちんとする」
「……」
「相手の目を見て話す」
「……」
「分からないことは、分かったふりをしない」
「……」
「それだけでかなり違うわ」
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
それだけ。
でもたぶん、それが一番難しい。
ごまかしたくなるし、よく見せたくもなるから。
「あと」
澄香さんが続ける。
「無理に“家柄に合う女の子”になろうとしないこと」
「……」
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
それはまさに、私がいま無意識にやろうとしていたことだった。
「そんなの」
澄香さんは静かに言う。
「一日でできることじゃないもの」
「……」
「それに、恒星が選んだのは、そういう仮面をつけた人じゃないでしょう?」
私は何も言えなくなった。
その通りだった。
私はいま、“失敗しないようにちゃんとしたい”の奥で、知らないうちに別人になろうとしていたのかもしれない。
でも、それは違う。
恒星くんが好きになった私は、そういう人ではない。
「……」
「怖いのは当然よ」
澄香さんの声が、少しだけやわらかくなる。
「でも」
「……」
「怖がってるまま来る方が、よほど誠実だと思うわ」
その言葉が、静かに胸へ入ってきた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、お茶が運ばれてきた。
私は湯気を見ながら、小さく息を吐く。
「……澄香さん」
「なに?」
「どうして、そこまで教えてくれるんですか」
前から少し気になっていたことだった。
最初に会ったとき、彼女はたしかに私を見ていた。
でも今は、試すだけではなく、ちゃんと助けようとしてくれているように見える。
澄香さんは少しだけ考えて、それから静かに言った。
「恒星が本気だから」
「……」
「それに」
「……」
「あなたが、思っていたよりずっと逃げない人だから」
私はその言葉に、息を止めた。
「私は」
澄香さんがカップを持ちながら続ける。
「身内だからこそ、あの子が半端な気持ちで人をそばに置かないのも知ってる」
「……」
「だから、あなたのことを敵として見る気はないの」
「……」
「むしろ」
彼女は少しだけ微笑む。
「ちゃんと向き合う気があるなら、味方でいたいと思ってる」
その一言が、思っていた以上に深く刺さった。
味方でいたい。
私はずっと、今週末は“向こう側”へ入っていく日だと思っていた。
そこには、私を値踏みする人たちだけがいるような気がしていた。
でも、その中に、こうして味方だと言ってくれる人がいる。
それだけで、景色が少し変わる。
「……」
「もちろん」
澄香さんは淡々と言う。
「甘くはないわよ」
「……」
「見る人は見るし、気にする人は気にする」
「……」
「でも、あなたが一人で立つ必要はない」
私はその言葉に、ようやく小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えたのが自分でも分かった。
でも、澄香さんは何も言わなかった。
ただ、静かにお茶を飲んだだけだった。
その距離感が、今はありがたかった。
◇ ◇ ◇
カフェを出るころには、外はもう夕方だった。
駅へ向かう道を歩きながら、私はスマホを取り出した。
恒星くんからメッセージが来ている。
『終わった?』
短いその一文に、私は少しだけ笑ってしまった。
ちゃんと待っていたんだと思うと、それだけで心が少しやわらぐ。
『うん』
『今から帰る』
そう返して、数秒後にまたメッセージが来る。
『どうだった?』
私は歩きながら、少しだけ考えた。
いろいろあった。
でも、一番近い言葉は、たぶんこれだった。
『少しだけ、戦える気がしてきた』
送信してすぐ、胸の奥が少しだけ熱くなる。
戦う、なんて大げさかもしれない。
でも今の私には、それが一番しっくりきた。
すぐに返事が来る。
『それ、すごくいい』
『今日はちゃんと眠れそう?』
私は少しだけ空を見上げた。
不安が消えたわけじゃない。
でも、昨日までより呼吸はしやすい。
『たぶん少しは』
そう返してから、私はスマホを握りしめた。
“味方でいる”と言われた瞬間、恋は少しだけ戦える形になる。
たぶん本当にそうだった。
一条家の人に会うのは、やっぱりこわい。
でも、私はもう、ただ値踏みされるだけの一人じゃない。
恒星くんがいて、ひまりがいて、そして澄香さんも、少なくとも敵ではない。
それだけで、今週末へ向かう足元が、少しだけましになる。
私はその変化を、ちゃんと覚えておきたかった。




