第97話 好きだから、逃げない。恋人の現実へ向かう覚悟を決めた夜
澄香さんと会った帰り道、私はずっと不思議な感覚の中にいた。
不安が消えたわけじゃない。
今週末に一条家の人たちと会うことを考えると、やっぱり胸は重くなる。
大伯母さまの静かな視線も、恒星くんのお父さんという存在も、まだ私の中では輪郭だけで十分にこわい。
でも、昨日までとは少し違っていた。
ただ怖がっているだけじゃない。
どうすればいいか分からず、ひとりでその場に立たされる感じでもない。
澄香さんは言った。
完璧に見せようとしなくていい。
分からないことを分かったふりしなくていい。
そして、味方でいたい、と。
その言葉が、帰りの電車の揺れの中でも、家に着いてからも、ずっと胸の中に残っていた。
「……味方」
自室に鞄を置いて、私はぽつりとつぶやいた。
味方がいる。
ひまりがいる。
恒星くんがいる。
そして、澄香さんも、たぶん完全にこちら側とは言えなくても、少なくとも私を突き落とすために立っている人ではない。
それだけで、今週末の景色が少しだけ変わった気がした。
何も持たずに敵陣へ行くような気分だったのが、ちゃんと隣に誰かがいる場所へ向かう感覚になった。
それでも、怖いものは怖い。
だからこそ、今夜は恒星くんにちゃんと会って話したかった。
◇ ◇ ◇
夕食後、私は恒星くんにメッセージを送った。
『少しだけ話せますか』
送ってから、すぐに返事が来た。
『もちろん』
『電話?』
少し迷った。
電話でもいい。
でも、今日は顔を見て話したかった。
『少しだけ外に出られるなら、会いたいです』
送った瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。
最近は、こういうことを自分から言えるようになってきている。
すぐに返事が来る。
『行く』
『いつもの駅前でいい?』
私は小さく息を吐いて、スマホを握りしめた。
『はい』
◇ ◇ ◇
夜の駅前は、昼間とは違う顔をしていた。
人通りはまだあるけれど、学校帰りのにぎやかさはもうない。
街灯の光が歩道に落ちて、駅前の植え込みが少しだけ黒く見える。
私は薄手の上着を羽織って、ベンチの近くで待っていた。
こんな時間に会うなんて、少しだけ特別だ。
悪いことをしているわけじゃないのに、胸がそわそわする。
「栞」
名前を呼ばれて振り向くと、恒星くんがいた。
制服ではない。
私服の彼は、学校で見るときより少しだけ大人びて見えた。
そのことに、また胸が鳴る。
「……こんばんは」
「こんばんは」
恒星くんは私の顔を見て、少しだけ目元をやわらげた。
「寒くない?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「少しだけ」
「じゃあ、無理しないで。短くてもいいから」
その言い方が、相変わらず優しい。
私は小さく頷いて、ベンチに座った。
恒星くんも隣に座る。
距離は近すぎない。
でも、ちゃんと隣にいると分かる距離だった。
◇ ◇ ◇
「澄香に会ったんだよね」
恒星くんが先に言った。
「うん」
「どうだった?」
「……最初は緊張した」
「うん」
「でも、会ってよかった」
そう言うと、恒星くんは少しだけ安心したように息を吐いた。
「そっか」
「うん」
「何話した?」
私は、カフェで話したことを少しずつ伝えた。
今週末のことで不安になっていること。
完璧に見せようとしなくていいと言われたこと。
無理に家柄に合う女の子になろうとしなくていいと言われたこと。
挨拶をきちんとして、相手の目を見て、分からないことは分かったふりをしない方がいいと言われたこと。
そして。
「……味方でいたいって」
そこまで言うと、恒星くんの表情が少しだけ変わった。
「澄香が?」
「うん」
「そっか」
恒星くんは少しだけ下を向いて、それから小さく笑った。
「あいつらしい」
「そうなの?」
「うん」
「……」
「きついことも言うけど、ちゃんと見てる」
その言葉は、すごく納得できた。
澄香さんは、ただ優しい人ではない。
たぶん、甘いだけでもない。
でも、見てくれている。
そのうえで、私に必要なことを言ってくれる。
「……ちょっと、楽になった」
私は正直に言った。
「怖くなくなったわけじゃないけど」
「うん」
「何をどう頑張ればいいか、少しだけ分かった気がする」
「そっか」
「うん」
「よかった」
恒星くんの声が、低くやわらかく落ちる。
その“よかった”を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
◇ ◇ ◇
「でも」
私は膝の上で手を握った。
「まだ怖い」
「うん」
「大伯母さまも」
「うん」
「恒星くんのお父さんも」
「うん」
「何を聞かれるのかも、どう見られるのかも」
「うん」
「怖い」
言いながら、情けなくなるかと思った。
でも、意外とそうでもなかった。
怖いと口にすることに、前ほど抵抗がなくなっている。
たぶん、それを受け止めてくれる人がいると知っているからだ。
恒星くんは、何も急かさなかった。
「怖くていいよ」
「……」
「怖いのに来ようとしてくれてるんだから」
「……」
「それだけで、俺は十分すぎるくらいうれしい」
私は視線を落とした。
「……恒星くんは」
「うん」
「怖くないの?」
ずっと聞きたかったことだった。
彼は少し黙った。
そして、静かに言った。
「怖いよ」
「……」
「俺の家のことが、栞を傷つけるかもしれないのが怖い」
私は何も言えなかった。
「あと」
彼は続ける。
「俺が守るつもりでいても、守り方を間違えるかもしれない」
「……」
「栞がちゃんと自分の足で立とうとしてるのに、俺が勝手に前へ出すぎるかもしれない」
「……」
「そういうのも怖い」
その言葉は、私の想像とは少し違っていた。
恒星くんは、家の人に反対されることだけを怖がっているのではない。
私を守ろうとすることで、逆に私の気持ちを置いていくことまで怖がってくれている。
それが分かった瞬間、胸が熱くなった。
「……そんなことまで考えてるの」
「考えるよ」
「……」
「栞のことだから」
さらっと言われたのに、全然さらっと流せなかった。
私は少しだけ鼻の奥がつんとした。
「……ずるい」
「何が」
「そういうところ」
「うん」
「すごく」
「……」
「好きになる」
言ったあと、私は自分で驚いた。
こんなに自然に言えたことに。
そして、言ってしまったあとで、逃げたいより先に“伝えたかった”と思えたことに。
恒星くんは一瞬だけ動きを止めた。
それから、ほんとうにゆっくり表情を崩した。
「……今の」
「……」
「かなり、だめ」
「何が」
「好きすぎる」
その返事に、私は少しだけ笑ってしまった。
重い話をしているのに。
怖い話をしているのに。
ちゃんとこうして甘いところへ戻ってこられる。
それが、私たちらしいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
しばらく、二人で夜の駅前を見ていた。
電車が来るたび、改札の方から人が少しずつ流れてくる。
その音を聞きながら、私は小さく息を吐いた。
「……私」
「うん」
「今週末、逃げません」
声は大きくなかった。
でも、自分の中でははっきりした言葉だった。
恒星くんがこちらを見る。
「怖い」
「うん」
「たぶん、当日も緊張する」
「うん」
「何か失敗するかもしれない」
「うん」
「でも」
私は顔を上げた。
「好きだから、逃げない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。
でも、それは不安だけではなかった。
言えた、という感覚があった。
私は、もうただ守られるだけじゃない。
恒星くんの隣に立ちたいから、怖くても向かう。
その選択を、自分でしたかった。
恒星くんは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ長い。
「……恒星くん?」
不安になって呼ぶと、彼は小さく息を吐いた。
「ごめん」
「何で」
「今、抱きしめたい」
私は一瞬、言葉を失った。
「……ここ、駅前です」
「うん」
「人、います」
「うん」
「……」
「だから我慢してる」
その言い方が、冗談みたいで、でも本気で。
私は頬が熱くなるのを感じた。
「……じゃあ」
自分でも少し驚くくらい小さな声で言った。
「少しだけなら」
恒星くんの目が揺れた。
「ほんとに?」
「……少しだけ」
人通りの邪魔にならないように、ベンチの陰に少しだけ寄る。
恒星くんが、そっと私を抱きしめた。
強くない。
でも、確かに大事に包む抱き方だった。
私は最初、少しだけ固まった。
けれどすぐに、自分の手を彼の背中へ回した。
「……栞」
「何」
「ありがとう」
「……」
「逃げないって言ってくれて」
耳元に落ちる声が、少しだけ震えているように聞こえた。
私だけじゃない。
恒星くんも怖いのだ。
それでも一緒に行こうとしている。
そう思うと、この抱擁はただ甘いだけのものではなくなった。
「……私も」
「うん」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
返した声は、少しだけ震えていた。
◇ ◇ ◇
帰る前、駅の改札近くで立ち止まった。
「送る」
恒星くんが言う。
「大丈夫」
「でも」
「今日はここで」
私は少しだけ笑った。
「帰ったら、ちゃんと寝る努力します」
「努力なんだ」
「今週末のこと考えたら、眠れる自信はまだないので」
「じゃあ、眠れなかったら連絡して」
「……」
「何時でもいい」
その言葉が優しくて、また胸が詰まりそうになる。
「……甘やかしすぎです」
「そう?」
「そうです」
「でも、甘やかしたい」
「……」
「今の栞は、ちゃんと頑張ろうとしてるから」
私は目を伏せた。
この人は、私が小さく踏ん張ったことを、いつもちゃんと見つけてくれる。
「……じゃあ」
私は少しだけ勇気を出して言った。
「眠れなかったら、少しだけ」
「うん」
「連絡します」
恒星くんは嬉しそうに笑った。
「待ってる」
「待たないで寝てください」
「それは無理かも」
「もう」
少しだけ笑って、私は改札をくぐった。
振り返ると、恒星くんはまだそこにいた。
目が合う。
彼が小さく手を振る。
私はその姿を見て、思った。
怖い。
でも、逃げない。
好きだから、逃げない。
恋人の現実へ向かう覚悟を決めた夜。
その夜の駅前の光を、私はきっと忘れないと思った。




