第95話 恋人の家の人に会う日が決まったら、好きだけじゃ足りない気がした
文化祭が終わった次の週は、変に静かだった。
教室はちゃんといつもの教室に戻っている。
文化祭の飾りは外されて、机の配置も元通り。
廊下に残っていたポスターの端も、少しずつ剥がされていって、あの二日間だけ学校全体が少し浮いていたみたいに見えた熱も、もうほとんど残っていない。
なのに、私の中だけがまだ終わっていなかった。
大伯母さまの視線。
「あとで少し話したい」という言葉。
そして、文化祭が終わったらちゃんと向き合うという約束。
それが、きらきらした文化祭の後ろに置いてきたものではなく、ちゃんと続きとしてこちらに来ている。
楽しかった分だけ、余計に現実だった。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、私はいつもより少しだけ緊張しながら恒星くんを待っていた。
教室にはまだ数人残っていて、帰り支度をしたり、部活へ向かう準備をしていたりする。
私はひまりと一緒に机に座っていたけれど、たぶんずっと落ち着かない顔をしていたのだろう。
ひまりが、呆れ半分、心配半分みたいな顔で言った。
「栞」
「何」
「今日、たぶん決まるね」
「……うん」
「顔」
「そんなにひどい?」
「ひどいっていうか」
ひまりは少しだけ言葉を探した。
「覚悟しようとしてる人の顔」
私は小さく息を吐いた。
覚悟。
そう言われると大げさな気もする。
でも、たぶん、違わない。
恋人の家の人に会う。
それがどれだけ重いことなのか、私はまだ全部は分かっていない。
でも、“好きです”“付き合ってます”だけでは済まない場所へ行くのだということくらいは、もう分かっている。
「……ねえ」
私が言う。
「何」
「普通、こんなに早く来るものなのかな」
「何が」
「恋人の家の人に会うとか」
ひまりは少しだけ肩をすくめた。
「普通の高校生カップルではあんまり来ないかもね」
「……」
「でも、一条くんちだし」
その一言で説明がついてしまうのが、少し悔しい。
「ただ」
ひまりが続ける。
「“早い”っていうより」
「……」
「一条くんが、曖昧にしないタイプなんだと思う」
私はその言葉に少しだけ黙った。
たしかにそうだ。
この人はいつもそうだった。
私が怖がることから、無理に目をそらさせたりしない。
でも、突き放しもしない。
ちゃんと一緒に見る方へ引っ張ってくれる。
「……うん」
小さく頷くと、ひまりが少しだけ笑う。
「で、栞は」
「何」
「逃げたい?」
私はすぐには答えられなかった。
でも、答えはもうある。
「……こわい」
「うん」
「でも」
「うん」
「逃げたい、ではない」
そこまで言うと、ひまりは小さく頷いた。
「じゃあ大丈夫」
「何が」
「怖くても行くって決めてるなら、それはもうちゃんと進んでる」
その言葉を、私は黙って受け取った。
◇ ◇ ◇
校門を出て、少しだけ静かな道へ入ったところで、恒星くんが言った。
「栞」
「……何」
「今日、家から連絡きた」
私は足元を見ながら、小さく息を吸った。
やっぱり来た。
分かっていたのに、心臓が一気にうるさくなる。
「……うん」
「日取り、決めたいって」
「……」
「今週末」
短い。
思っていたよりずっと早い。
私は思わず黙りこんでしまった。
今週末。
つまり、もう数日後だ。
「……そんなに早いんだ」
ようやくそれだけ言うと、恒星くんは少しだけ目を伏せた。
「うん」
「……」
「嫌なら、ちゃんと延ばす」
その言い方はまっすぐだった。
“決まったから従って”ではなく、ちゃんと私の気持ちを聞こうとする声。
でも、私はすぐには頷けなかった。
延ばしたいかどうか、の問題じゃない気がしたからだ。
たぶん、延ばしたところで怖いのは同じだ。
いや、もしかしたら、待つ時間が長い分だけ余計に怖いかもしれない。
「……誰に会うの」
私は聞いた。
まずはそこを知らないと、何も考えられなかった。
「大伯母さまと」
「……」
「父」
「……」
「あと、たぶん澄香」
私は小さく目を見開いた。
父。
その言葉が思っていたより重かった。
親族の年配者や、親しい従妹だけじゃない。
恒星くんのお父さんが出てくる。
それだけで、ただの“様子見”では済まない感じが強まる。
「……それって」
喉が少し乾く。
「かなり、ちゃんとしたやつ?」
「……うん」
恒星くんはごまかさなかった。
「でも」
「……」
「面接みたいな場にするつもりはない」
「……」
「少なくとも、俺は」
その言い方に、私は少しだけ苦笑した。
少なくとも、俺は。
つまり、向こうがどう出るかは分からないということだ。
◇ ◇ ◇
駅前のベンチに座ってから、私はしばらく何も言えなかった。
今週末。
大伯母さまと、お父さんと、澄香さん。
頭の中で何度も並べても、まだ現実味が追いつかない。
でも、追いつかないままでも、時間だけは来るのだろう。
「……栞」
恒星くんが静かに呼ぶ。
「何」
「今、何考えてる?」
私は少しだけ笑いたくなった。
そんなの、ひとつじゃない。
いろんなものが一度に押し寄せている。
「……服」
「え」
「あと、言葉遣い」
「……」
「座り方とか」
「……」
「変に思われたらどうしようとか」
「……」
「何を聞かれるんだろうとか」
そこまで言ったところで、恒星くんがふっと息を漏らした。
笑ったわけではない。
でも、少しだけ力が抜けたような表情だった。
「……ごめん」
「何で」
「そこまで一気にいくと思わなかった」
「だって行くでしょ」
思わず少しだけ強めに返してしまう。
でも、すぐに言いすぎたと思って、私は視線を落とした。
「……ごめん」
「謝らないで」
恒星くんはすぐにそう言った。
「今の、普通」
「……」
「俺でも、たぶんそうなる」
その一言で、胸の奥が少しだけやわらいだ。
普通。
そうか。
こういう緊張は、今の私がひとりで大げさに背負っているものじゃないのかもしれない。
「……好きだけじゃ足りない気がする」
ぽつりと言葉がこぼれた。
自分でも、思っていたより率直な本音だった。
好きだから会いたい。
好きだから隣にいたい。
でも、家の人に会うという話になると、それだけでは足りない気がしてしまう。
礼儀とか、立場とか、ちゃんとした言葉とか、そういうものまで必要になる気がする。
恒星くんは、その言葉をすぐには否定しなかった。
少しだけ考えて、それから静かに言う。
「足りない部分は、俺も持つ」
「……」
「栞ひとりで全部やるものじゃない」
「……」
「ちゃんとして見せたいのは分かる」
「……」
「でも、俺の家のことは、俺の責任でもある」
私はその言葉に、ようやく少しだけ顔を上げた。
そうだ。
私は今、“私がちゃんとしなきゃ”ばかり考えていた。
でもこれは、私ひとりの試験じゃない。
恒星くんと私、ふたりのことなのだ。
「……」
「だから」
恒星くんが続ける。
「栞は、無理に“完璧に見える人”にならなくていい」
「……」
「ちゃんと挨拶して」
「……」
「ちゃんと話そうとしてくれれば、それで十分」
その言葉が、少しだけ苦しかった。
安心したいのに、簡単には安心しきれない。
でも、それでも救われる。
「……でも」
私は小さく言う。
「せめて、みっともなくはなりたくない」
「……」
「怖くても」
「うん」
「あなたの恋人として、ちゃんとしていたい」
そこまで言うと、恒星くんの表情がゆっくりほどけた。
嬉しそうに。
でも、それを軽く扱わない顔で。
「……うん」
「……」
「それ、すごくうれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私は少しだけ目を伏せた。
最近、うれしいと言われるたびに、自分の不安が少しだけ肯定される気がする。
◇ ◇ ◇
帰り道、私はひまりにメッセージを送った。
『今週末に決まった』
返事はすぐだった。
『早』
『うん』
『誰』
『大伯母さまと、お父さんと、澄香さん』
『うわ、本気だ』
私はその文字列を見て、小さくため息をついた。
やっぱり、第三者が見ても“本気だ”なのだ。
『服選び手伝って』
そう送ると、少し間を置いてから返事が来た。
『もちろん』
『あと敬語練習もする?』
私は思わず少し笑ってしまった。
ひまりらしい。
『する』
『よし任せろ』
そのやり取りだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
ひとりじゃない。
その感覚が、いまはすごくありがたかった。
◇ ◇ ◇
夜、ベッドに入ってからも、私はなかなか眠れなかった。
今週末。
もう決まってしまった日。
頭の中では、何度も同じ場面を想像してしまう。
何を言われるんだろう。
ちゃんと答えられるかな。
変に気を張りすぎて失敗しないかな。
笑えるかな。
座り方、おかしくないかな。
考えれば考えるほど、細かいことまで気になってくる。
でも、その細かさの奥にあるのはたぶん、ひとつだけだ。
ちゃんとしたい。
怖くても。
好きだけじゃ足りないなら、その足りないぶんを、私も少しは持てるようになりたい。
スマホが震えた。
恒星くんからだった。
『眠れてる?』
私は少しだけ迷ってから、正直に返す。
『あまり』
すぐに返事が来る。
『だと思った』
『……』
『大丈夫って言いたいけど』
『うん』
『たぶん、大丈夫じゃなくていい』
私はその文を見て、しばらく動けなかった。
大丈夫じゃなくていい。
そうか。
無理に落ち着いたふりをしなくてもいいのかもしれない。
今の私は、たしかに怖いのだから。
『でも』
続けてメッセージが来る。
『俺が隣にいる』
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
怖い。
でも、ひとりじゃない。
それだけで、少しだけ眠れそうな気がした。




