第94話 楽しい文化祭だったはずなのに、最後に残ったのは恋の現実でした
文化祭の終わりは、思っていたよりあっけなかった。
あれだけ朝から人が出入りして、教室はずっとざわざわしていて、注文票や紙コップや飾りのリボンがそこら中で揺れていたのに。
終了のアナウンスが入った瞬間、空気は少しずつほどけていって、気づけば教室には“終わったあとの疲れ”だけが残っていた。
「おつかれー!」
「足やばい」
「でも楽しかった!」
「売上あとで計算しよー」
クラスメイトたちはみんな、疲れ切った顔で笑っている。
誰かが机に突っ伏して、誰かがカチューシャを外して、誰かがスマホで写真を見返している。
楽しい文化祭だった。
たぶん、ほんとうに。
執事服の恒星くんはやっぱり反則みたいに似合っていたし、私はそのたびに内心かなり大変だった。
クラスのみんなの“ほぼ公認”みたいな空気にも、前ほど怯えずにいられた。
仕事もちゃんとしたし、文化祭そのものは成功だったと思う。
でも。
教室の端に残る着物の残像みたいなものが、私の胸の奥からなかなか消えてくれなかった。
大伯母さま。
あの静かな視線と、「あとで少し話したい」という言葉。
それが、文化祭のきらきらした空気の最後に、すっと重しみたいに残っている。
「朝比奈さん」
衣装係の子が声をかけてくる。
「あ、ごめん、これ返却用の袋こっちでいい?」
「うん、大丈夫」
私は慌てて手を動かした。
今はまだ片づけの時間だ。
考え込むのはあとでもできる。
そう思って、私は外したエプロンを丁寧にたたんだ。
◇ ◇ ◇
教室の飾りを外し終わるころには、外はだいぶ暗くなっていた。
文化祭の日独特の熱気も、少しずつ冷めていく。
「朝比奈、これ運べる?」
「うん」
「一条ー、そっち段ボール持って」
「はい」
最後までちゃんと仕事をしている恒星くんを、私は何度か目で追ってしまった。
執事服はもう脱いで、制服に戻っている。
それだけで、少しだけほっとする自分がいる。
でも、その“ほっとする”の奥には、別の意味の落ち着かなさが残っていた。
制服に戻ったからこそ、もう本当に文化祭は終わったのだと実感してしまうからだ。
そして、終わったということは。
――文化祭が終わったら、ちゃんと家の話をする。
あの約束が、もう先延ばしではなくなる。
「栞」
ふいに呼ばれて、私はびくっとした。
振り向くと、ひまりがいた。
「顔」
「何」
「またちょっと重くなってる」
私は少しだけ笑おうとして、たぶんうまくできなかった。
「……終わったなって」
「うん」
「終わっちゃった」
そう言うと、ひまりは少しだけやわらかい顔になった。
「文化祭?」
「それも」
「……」
「でも、たぶんそれだけじゃない」
私は黙った。
ひまりは何も急かさない。
私が言葉を探すのを待ってくれる。
「……大伯母さまが来たことで」
「うん」
「終わったあとにあるものが、急にちゃんとした形になった感じがする」
「うん」
「なんとなく気づかれてる、じゃなくて」
「うん」
「もう、あっちの人たちも、見てるんだなって」
そこまで言うと、ひまりは小さく息を吐いた。
「そっか」
「……」
「怖い?」
「……うん」
「だよね」
その言い方が優しくて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも」
ひまりが続ける。
「今日の栞、ちゃんと最後まで戻ってきてたじゃん」
「……」
「大伯母さま来て、動揺して、それでも文化祭の教室に戻った」
「……」
「それ、前の栞ならできなかったでしょ」
私はすぐには返せなかった。
でも、たしかにその通りだった。
前の私なら、あの視線ひとつで全部がだめになっていたかもしれない。
でも今日は戻った。
ちゃんと、文化祭の中へ。
怖いままでも、戻る方を選んだ。
「……うん」
小さく頷くと、ひまりはにやっと笑った。
「なら大丈夫」
「何が」
「次もたぶん、逃げないから」
その言葉を、私は少しだけ胸の奥に置いた。
◇ ◇ ◇
片づけがすべて終わって、教室の中がほぼ元の形に戻ったころ。
クラスメイトたちはそれぞれ帰り支度を始めていた。
「おつかれー」
「写真あとで送る!」
「明日休みなの神」
そんな会話の中、私は自分の机の横で鞄を持ちながら、少しだけ立ち尽くしていた。
声をかけられるのを待っているわけじゃない。
でも、たぶん待っていた。
「栞」
その声で、ようやく呼吸が整う。
振り向くと、恒星くんがいた。
「……おつかれさま」
「おつかれさま」
その一言だけで、文化祭の終わりがようやく自分の中に落ちてくる。
ああ、終わったんだなと思う。
「少し歩ける?」
恒星くんが聞く。
「……うん」
私は頷いた。
◇ ◇ ◇
校門を出たあとの道は、もう夜の手前みたいな色をしていた。
文化祭帰りの生徒たちがあちこちで騒いでいて、駅前の方は少しだけにぎやかだ。
でも、私たちが歩くこの道だけは、なぜか少し静かに感じる。
「今日」
恒星くんが言う。
「うん」
「ちゃんと終わったね」
「……うん」
「文化祭」
「……」
「楽しかった?」
私は少しだけ笑った。
「うん」
「……」
「すごく」
「そっか」
その返事に、彼の声も少しやわらぐ。
楽しかった。
それは本当だ。
執事服のことを思い出すだけで、またちょっと心臓に悪いくらいには。
でも、楽しかったという気持ちのあとに、やっぱり少しだけ重いものが続く。
「……でも」
私が言うと、恒星くんはすぐに頷いた。
「うん」
「残ってる」
「……」
「大伯母さまのこと」
「うん」
「やっぱり」
「うん」
「ちょっと、こわい」
そう言うと、恒星くんはしばらく黙っていた。
そして、少しだけ歩幅を落とす。
「俺も」
「……え」
「全然平気ではない」
その言葉に、私は少しだけ顔を上げた。
恒星くんは前を向いたまま続ける。
「文化祭って、学校の中の時間だったから」
「……」
「その中に急に“家の人”が入ってきた感じがして」
「……」
「俺も、かなり現実だった」
私はその言葉に、静かに息を吐いた。
そうか。
私だけじゃないのだ。
あの人の登場で、文化祭の色が少し変わってしまったのは。
「……」
「でも」
恒星くんがこちらを見る。
「今日、ちゃんと最後までいた」
「……」
「戻ってきてくれた」
その言い方が、妙に胸に沁みた。
私は小さく唇を結ぶ。
「……うん」
「ありがとう」
「……」
「すごく、うれしかった」
大げさじゃない声音だった。
でも、そのぶん本気なのが分かる。
私は少しだけ目を伏せた。
戻ったこと。
あの文化祭の教室へ、自分から戻る方を選んだこと。
それを、ちゃんと見ていてくれた。
「……逃げたくなかったから」
小さく言うと、恒星くんがほんの少しだけ目を細める。
「うん」
「文化祭」
「……」
「ちゃんと、楽しいままで終わらせたかった」
「……」
「だから」
「うん」
「戻った」
そこまで言うと、恒星くんは数秒、何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ熱い。
「……栞」
「何」
「今の」
「……」
「かなり好き」
私は思わず少しだけ笑ってしまった。
「今日も更新ですか」
「うん」
「……」
「たぶんずっと更新してる」
その言い方が少しだけおかしくて、でもやっぱりうれしい。
◇ ◇ ◇
駅へ向かう途中のベンチに座って、私たちは少しだけ黙った。
文化祭の終わりの疲れが、今ごろどっと押し寄せてくる。
「……終わっちゃったね」
私がぽつりと言うと、恒星くんが隣で頷いた。
「うん」
「何か」
「うん」
「始まる前は長そうだったのに」
「……」
「終わると一日だった」
「分かる」
少しだけ笑う。
その笑いのあとに、また静かな空気が落ちる。
「栞」
「何」
「このあと」
「……」
「家の話、ちゃんとする」
私は膝の上の手をぎゅっと握った。
分かっていた。
文化祭が終わったらそうなると。
でも、いざ言葉にされると、やっぱり少しだけ胸が重くなる。
「……うん」
「今すぐ全部じゃなくていい」
「……」
「でも、逃げないで向き合いたい」
「……」
「栞と」
私は少しだけ息を吸って、それから頷いた。
「……私も」
「……」
「こわいけど」
「うん」
「でも、もう」
「……」
「知らないままでいたくない」
言ってから、自分で少しだけ驚いた。
でも、それが本音だった。
怖い。
でも、怖いからこそ、もう曖昧なままにしておきたくない。
私はたぶん、そこまで来ている。
「……うん」
恒星くんが静かに言う。
「それ聞けて、かなり違う」
「……」
「ありがとう」
私は小さく首を振った。
文化祭は楽しかった。
でも、最後に残ったのは恋の現実でした。
その言葉の意味を、私は今、ちゃんと分かり始めている気がする。
好きでいるだけじゃ足りない。
でも、好きだから逃げたくない。
その現実ごと、この恋は少しずつ深くなっていくのだと思った。




