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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第93話 文化祭に来た“家の人”は、恋人の現実を容赦なく連れてくる

 文化祭の午後は、独特の疲れ方をする。


 体も疲れるけれど、それより先に、ずっと笑って、ずっと立って、ずっと誰かに見られていることに神経が削られる。

 しかも今日は、それがただの文化祭じゃなかった。


 執事服の恒星くん。

 仮装した私。

 クラスメイトたちの、隠しきれない“お似合い”の空気。

 そこに、私自身のどうしようもないときめきまで乗っている。


 忙しい。

 楽しい。

 でも、心臓には本当に悪い。


 それでも、午後の後半には少しずつ慣れてきていた。

 慣れてきてしまったこと自体が少しこわいくらいだった。


「朝比奈さん、お冷二つお願い!」

「あ、うん、今行く」

 返事をして、私はグラスを持ち上げる。

 教室の中はまだにぎやかだ。

 けれど午前中ほどの混雑はなく、少しだけ余裕が出てきている。


 恒星くんは教室の奥で、年配の来客にメニューを渡していた。

 その姿を視界の端に入れた瞬間、やっぱり少し胸が鳴る。

 見慣れないはずなのに、今日だけでもう何度も見てきたその姿が、少しずつ私の中に馴染み始めているのが不思議だった。


 ――ほんとに、かっこよすぎる。


 そんなことをまた思ってしまって、私は自分で小さく息を吐いた。

 今日、何回目だろう。

 でも、見たら思ってしまうのだから仕方ない。


「朝比奈」

 不意にクラスの男子が小声で呼ぶ。

「なに?」

「一条のとこ、なんかすごい人来てない?」

「え」

 私は反射的に顔を上げた。


 教室の入口近く。

 そこに立っていた人を見た瞬間、胸の奥が、すうっと冷えた。


 年配の女性だった。


 派手ではない。

 でも、ひと目で“ふつうじゃない”と分かる整い方をしている。

 髪はきちんと結い上げられ、淡い色の上質そうな着物を静かに着こなしていた。

 姿勢が美しくて、表情に無駄がない。

 教室という、いま文化祭の熱で少し騒がしい場所の中にいるのに、その人の周りだけ空気が少しだけ静かに見えた。


 そして、その人の横には、黒いスーツ姿の男性が立っている。

 秘書なのか、使用人なのか、そういう類の“付き従うことに慣れている”人の立ち方だった。


「……」

 息が詰まる。

 ああ、と思った。


 この人は、たぶん。

 家の人だ。


   ◇ ◇ ◇


 恒星くんも、その人に気づいていた。


 さっきまで柔らかい笑みで接客していた顔が、ほんの少しだけ変わる。

 慌てるのではない。

 でも、明らかに“文化祭の顔”ではなくなる。

 きちんと整えた、もうひとつの顔だ。


 それだけで、私はすぐ分かった。

 この人はただの来客じゃない。


 恒星くんがその女性の前へ行く。

 私はグラスを持ったまま、その場から動けなくなった。


 会話は聞こえない。

 でも、見えるものだけで十分だった。


 女性が恒星くんを見て、何か短く言う。

 恒星くんがわずかに頭を下げる。

 その所作が、あまりにも自然で、そして私の知らないものだった。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 これが、彼の現実だ。

 学校の中で、執事服で、クラスメイトに囲まれて笑っているこの人にも、ちゃんとこういう世界がつながっている。

 忘れたことなんてなかったはずなのに。

 でも、今日みたいに楽しい空気の中で見ると、余計に刺さる。


「朝比奈さん?」

 衣装係の子に呼ばれて、私ははっとした。

「え」

「お冷……」

「あ、ごめん」

 私は慌てて歩き出したけれど、気持ちは全然戻ってこなかった。


 教室の空気は変わらず文化祭のままだ。

 笑い声もあるし、メニュー表の紙が揺れる音もする。

 でも私の中だけが、急に別の場所へ引っ張られたみたいに重い。


   ◇ ◇ ◇


 少しして、恒星くんがその女性を教室の奥の空いた席へ案内した。

 他の来客たちと同じように扱っている。

 けれど、距離感が明らかに違う。

 丁寧すぎるわけじゃない。

 でも、そこにある緊張感は隠しきれていなかった。


 誰なんだろう。

 家政婦長みたいな人?

 親族?

 祖母?

 それとも、もっと別の立場の人?


 聞きたい。

 でも、今は聞けない。

 教室の中で、私はただの接客係の一人でしかない。


「朝比奈さん、注文追加!」

「う、うん」

 声を返しながら、私は必死で今やるべきことに意識を戻そうとした。

 グラスを置いて、メモを取って、伝票を確認する。


 けれど、どうしたって目はそちらを追ってしまう。


 年配の女性は、周囲の飾りつけや、クラスメイトたちの動きを、静かに見ていた。

 あからさまに品定めしているわけじゃない。

 でも、“見ている”ことだけははっきり分かる。


 その視線が、ふいにこちらへ向いた。


「……っ」


 一瞬だった。

 でも、確かに目が合った。

 ぞくりとした。


 厳しい目ではない。

 冷たいわけでもない。

 ただ、よく見ている目だ。


 そしてその視線が、“たまたま視界に入ったクラスメイト”に向けるものではないことも、なんとなく分かってしまった。


 見られている。

 たぶん、私も。


   ◇ ◇ ◇


 休憩時間が回ってきて、私は教室の外へ出た。

 何か言われたわけじゃない。

 でも、少しだけ呼吸を整えたかった。


 廊下の窓際に立って、小さく息を吐く。

 手のひらが、少しだけ冷たい。


「……大丈夫じゃないかも」

 小さくつぶやく。

 文化祭の楽しい空気の中へ、急に現実が入り込んできた感じがした。

 しかも、だいぶ容赦なく。


「栞」

 後ろから呼ばれて、私は肩を揺らした。


 振り向くと、恒星くんがいた。

 執事服のまま。

 でも、さっきまでの教室の中で見た顔より少しだけ緊張が残っている。


「……何」

「ごめん、急に」

「……」

「少しだけいい?」

 私は頷くしかなかった。


 人気のない階段の踊り場まで移動して、そこでようやく、私は小さく聞いた。


「……誰」

 恒星くんは少しだけ黙った。

 それから、正直に答える。


「大伯母」

「……」

「父方の」

 私は息を止めた。


 大伯母。

 親族だ。

 やっぱり。

 しかも、かなり近いところの人間だ。


「今日、来るって知らなかった」

 恒星くんが続ける。

「さっき急に来た」

「……うん」

「たぶん」

「……」

「文化祭を見るついでに、俺の様子も見に来た」

 その言い方は穏やかだけれど、意味は穏やかじゃない。

 そしてたぶん、“俺の様子”の中に、“私のこと”も含まれている。


「……私」

 喉が少しだけ乾く。

「見られてた」

「うん」

「……」

「ごめん」

 私は首を振った。

 謝られても困る。

 そういう問題じゃない。


「……何か」

 私は少しだけ言葉を探した。

「うん」

「嫌とかじゃない」

「……」

「でも」

「うん」

「現実だなって思った」

 口にしてから、自分で胸の奥が少しだけ痛くなった。


 ついさっきまで、文化祭だった。

 執事服がどうとか、恋人を隠せないとか、そういう意味で忙しかった。

 でも、大伯母が来た瞬間、全部の重さが変わった。


 これはもう、“クラスでバレるかどうか”の話じゃない。

 彼の家の世界が、学校の中にまで来たということだ。


「……うん」

 恒星くんが、静かに頷く。

「俺もそう思った」

 その声が少しだけ低い。

 彼もたぶん、今の出来事を軽くは受け取っていない。


   ◇ ◇ ◇


「大伯母さま」

 私はその呼び方にまだ慣れなくて、少しだけ言いよどんだ。

「……何か、言ってた?」

 聞いてしまってから、少しだけこわくなる。

 でも、聞かない方がもっと苦しくなりそうだった。


 恒星くんは少しだけ目を伏せる。

「短く」

「……」

「“あとで少し話したい”って」

 私はその一言で、背筋がすっと冷えた。


 あとで少し話したい。

 それは、恒星くんに対してだろう。

 でも、そこに私のことが一切関係ないとは、どうしても思えなかった。


「……そう」

「うん」

「……」

「栞」

 恒星くんが言う。

「怖いよね」

 その言い方があまりにも正直で、私は少しだけ救われる。

 “そんなことない”と強がらなくていいのだ。


「……うん」

 小さく頷く。

「かなり」

「うん」

「でも」

 私は息を吸った。

「今日、文化祭」

「……」

「ちゃんとやりたい」

 言いながら、自分でも少し驚いた。

 でも、それが本音だった。


 こわい。

 胸はまだ重い。

 でも、ここで全部をそれに飲まれたくない。

 せっかくの文化祭を、今日の私たちの時間を、途中で現実の重さだけに奪われたくなかった。


 恒星くんはしばらく黙って、それからゆっくり頷いた。

「うん」

「……」

「今日は、文化祭の日だから」

「……」

「それでいい」

 その一言に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


「終わったあと」

 恒星くんが続ける。

「ちゃんと話す」

「……うん」

「今は」

「……」

「戻ろう」

 私は小さく頷いた。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ戻る途中、私は思った。


 恋人の現実って、こういう形でも来るんだ。

 好きです、付き合っています、で終わらない世界。

 家の人の視線。

 親族の静かな一言。

 そういうもので、恋は急に“外の世界とつながっているもの”になる。


 そして、たぶんこれはまだ入口だ。

 本当に重い話は、この先にある。


 それでも今は、戻るしかない。

 文化祭の教室へ。

 笑い声のある場所へ。

 執事服の彼がいる場所へ。


 それが、今の私にできる“逃げない”だった。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ戻ると、また文化祭の音が一気に耳へ戻ってきた。


「お、戻ってきた」

「朝比奈さん、次の席お願い!」

「あ、うん」

 さっきまで自分が少しだけ遠くへ行っていたみたいに感じる。

 でも、手を動かし始めれば、少しずつ呼吸も戻ってくる。


 恒星くんは私より少し遅れて教室へ入ってきた。

 そして、その姿を見た瞬間、私は思わず少しだけ目を奪われた。


 やっぱり、かっこいい。

 こんなときなのに、そんなことを思ってしまう自分が少しおかしい。

 でも、それも本当だった。


 現実が来ても。

 重いものが入ってきても。

 この人を好きだと思う気持ちは、やっぱり消えない。


 むしろ、こういう現実ごと背負っている人なのだと、改めて思う。


 そのとき、大伯母の席のそばを通ったクラスメイトが、私に小さく耳打ちした。


「さっきのお客さん、すごい上品だったね」

「……うん」

「一条くんの親戚かな」

 私は一瞬だけ固まって、それからどうにか笑った。

「……たぶん」

「だよね」

 その何気ない会話ですら、今の私には妙に重い。


 でも、私はもう知っている。

 ここで顔をこわばらせるだけじゃだめなのだと。


「お水、お願いします」

 お客さんの声がして、私ははっとする。

「はい、今」

 返事をして、私はまた動き出した。


 文化祭に来た“家の人”は、恋人の現実を容赦なく連れてくる。

 でも、その現実を知ったうえで、それでも私は今日この教室に戻ってきた。


 そのことだけは、たぶんちゃんと覚えておきたかった。

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