表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/97

第92話 文化祭当日、恋人を隠すにはあの執事服がかっこよすぎる

 文化祭当日の朝、私は家を出る前からすでに少し疲れていた。


 まだ何も始まっていない。

 教室にも着いていない。

 それなのに、心臓だけが先に一日分働いている気がする。


 原因は分かりきっていた。


 執事服の恒星くん。


 あれを、今日は試着じゃなく、本番で見ることになる。

 しかも文化祭当日だから、準備室の隅でこっそり見るのとはわけが違う。

 教室で。

 お客さんの前で。

 たくさんの人がいる中で。


「……ほんとに無理かも」


 玄関で靴を履きながら小さくつぶやくと、母が台所から顔を出した。

「今日は文化祭でしょう」

「うん」

「朝からすごい顔してるわよ」

「どんな顔」

「楽しみなのに緊張で死にそうな顔」

 あまりにも正確で、私は反論できなかった。


 そうだ。

 楽しい。

 でも、死にそうでもある。

 たぶん今日は、そういう一日だ。


   ◇ ◇ ◇


 学校へ着くと、もういつもとは空気が違っていた。


 昇降口の近くから、段ボールを運ぶ音。

 廊下に貼られた案内ポスター。

 普段より少し高い声で笑う生徒たち。

 文化祭の日独特の、浮ついているのに慌ただしい空気が校舎中に広がっている。


 教室へ向かいながら、私は何度か深呼吸した。

 落ち着け。

 今日は仕事もある。

 ただ見とれて終わるわけにはいかない。


 でも、教室の扉を開けた瞬間、その決意の半分くらいは吹き飛んだ。


「おはよ」

 ひまりが、すでに衣装の一部を身につけた状態でこちらを見る。

「……おはよう」

「はい、来たね」

「何が」

「“今日、彼氏の執事服を正面から浴びる日”」

「ひまり」

「図星」

 私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。

 今日のひまりは、朝からだいぶ元気だった。

 文化祭マジックというやつかもしれない。


「……まだ見てない」

「うん」

「なのに、もう無理」

「うん」

「何でそんなに楽しそうなの」

「だって、絶対すごいもん」

 ひまりは即答した。

「昨日までであの破壊力なんだから、本番で接客とか始まったらもう終わりでしょ」

「……」

「特に栞の理性」

 私は黙って視線を逸らした。

 否定できない。

 たぶん本当にそうなる。


「それに」

 ひまりがにやっとする。

「今日の一条くん、絶対分かってるからね」

「何を」

「栞が執事服でだめになること」

「……」

「そのうえで、たぶん平然とやる」

 それがいちばん困る。

 あの人はそういうところで変に照れたり逃げたりしない。

 むしろ、私の反応をちゃんと見て、嬉しそうにする。


「……もう帰りたい」

「始まってもないのに?」

「心臓が」

「それはもう諦めな」

 ひまりは楽しそうに笑った。

「でも大丈夫」

「何が」

「どう見ても今日は、クラス全員そっち見てるから」

「それのどこが大丈夫なの」

「栞ひとりだけじゃなく、みんなやられるって意味」

 慰めになっているようで全然なっていなかった。


   ◇ ◇ ◇


 朝の最終準備が始まり、教室の中は一気に忙しくなった。


 机を寄せて配置を整え、看板を立て、メニュー表を貼り、文化祭仕様の教室へ変えていく。

 私はひまりと一緒にカウンター側の飾りつけを任されていた。


「このリボンもう少し右」

「こっち?」

「うん、いい感じ」

 手を動かしているうちは、少しだけ落ち着ける。

 問題は、恒星くんが更衣スペースに入ってからだった。


 意識するなという方が無理だ。

 教室の隅の簡易仕切りの向こうで、執事服に着替えている。

 その事実だけで、私は変に呼吸が浅くなる。


「栞」

 ひまりが小声で言う。

「何」

「今のうちに言っとく」

「何を」

「見た瞬間、変な声出さないように」

「出さない」

「ほんとに?」

「……たぶん」

「今の“たぶん”は危ない」

 そう返されたところで、仕切りの向こうが少しだけざわついた。


「一条くん、タイ曲がってる」

「ちょ、待って」

「うわ、やっぱりやばい」

 女子たちの声が聞こえる。

 その時点でもう嫌な予感しかしない。


 そして。


「できたー!」


 明るい声と一緒に、仕切りが開いた。


   ◇ ◇ ◇


 分かっていた。

 分かっていたのに、無理だった。


 執事服の恒星くんが、昨日よりちゃんと整った状態でそこに立っていた。


 黒のジャケット。

 白いシャツ。

 きっちりと締めたタイ。

 手首まできれいに収まる袖。

 そして何より、文化祭の浮ついた教室の中なのに、ひとりだけ妙に完成度が高い。


 かっこよすぎる。


「……っ」

 私は本気で息を止めた。

 それが横顔に出たのか、ひまりが隣で肩を震わせる。


「ほらね」

「……」

「やばいでしょ」

「……やばい」

 ようやくそれだけ言うと、ひまりは満足そうに頷いた。


 でも、本当にだめだったのはそのあとだ。

 恒星くんが、周りの反応を一通り受けたあと、こっちを見た。

 目が合う。

 その一瞬で、彼の目が少しだけやわらいで、ほんの少しだけ楽しそうになる。


 ――完全に分かってる。


 私が今どうなっているか。

 かなりきていることも。

 それを見て、自分が少し嬉しいことも。


「朝比奈さんも今日かわいいよー!」

 衣装係の子が向こうから言う。

 私は反射的にそっちを見た。

 今日の私は、前に試着したクラシカルな接客衣装をちゃんと着ている。

 でも今は、自分がどうとか考える余裕はほとんどなかった。


「一条くん、立って立って」

「そのままこっち向いて」

「やば、執事すぎる」

 教室のあちこちから声が飛ぶ。

 しかも、それに紛れて、クラスの女子たちの視線が私にも向いているのが分かる。


 ああ、と思う。

 たぶんみんな、分かっている。

 私がこの人に弱いこと。

 そして、この人も私の反応を見ていること。


 “察し”じゃない。

 もうほとんど“確信”に近い空気だった。


   ◇ ◇ ◇


 文化祭が始まると、教室にはすぐに人が流れ込んできた。


 他クラスの生徒。

 先輩。

 保護者。

 中学生らしい見学客までいる。

 喫茶風の教室は思っていた以上ににぎわって、私は接客に集中するしかなかった。


「こちらへどうぞ」

「ご注文お決まりですか?」

「少々お待ちください」

 忙しい。

 でも、忙しいから助かる部分もあった。

 執事服の恒星くんをずっと視界に入れていたら、本当に仕事にならなかったと思う。


 それでも、完全には無理だった。


 たとえば、向こう側の席でお客さんにメニューを渡している姿。

 たとえば、少し腰を折って「かしこまりました」と言う声。

 たとえば、ふとした瞬間にこちらを見て、目が合うこと。


 そのたびに、胸の奥がいちいち揺れる。


「ねえ、あの人やばくない?」

「一条くんだよね?」

「執事似合いすぎ」

「朝比奈さんと並ぶとさらにやばい」

 そんな声が聞こえてきて、私はお盆を持つ手に少しだけ力を入れた。


 やっぱり、見られている。

 しかも“お似合い”の空気ごと。


 恥ずかしい。

 でも、嫌ではない。

 その感覚に自分でも少し驚く。

 前なら、もっと逃げたくなっていたはずなのに。

 今は、恥ずかしさの奥に、少しだけ誇らしさみたいなものが混じっていた。


   ◇ ◇ ◇


 昼前の少し落ち着いた時間帯。

 私はカウンターの裏でグラスを並べていた。

 すると、恒星くんがトレーを持って近づいてくる。


「お疲れ」

「……お疲れさま」

「大丈夫?」

「何が」

「執事服」

 その一言に、私は思わず顔を上げた。

 やっぱり言うのだ。

 そういうことを、こんなタイミングで平然と。


「……大丈夫じゃないです」

 小さく返すと、恒星くんは少しだけ目を細めた。

「知ってる」

「……」

「でも、ちゃんと仕事してる」

「仕事中なので」

「うん」

「……」

「偉い」

 その言い方が、少しだけ甘い。

 私はグラスを持ったまま視線を落とすしかなかった。


「栞」

「何」

「今も、やっぱりだめ?」

 私は一瞬だけ迷った。

 でも、嘘をついてもたぶん意味がない。


「……かなり」

「そっか」

「……嬉しそうですね」

「うん」

「認めるんですね」

「だって」

 恒星くんが少しだけ声を落とす。

「今日の栞、ずっと俺のこと見てるから」

 私は本気で固まった。


「……っ」

「違う?」

 違わない。

 違わないけれど、それをこうして本人に言われるのは反則だ。


「……見てないとは言わないです」

「うん」

「でも」

「うん?」

「そういうこと、勤務中に言わないでください」

 そう返すと、恒星くんは少しだけ笑った。

「勤務中だから我慢してる」

「何を」

「もっと言いたいこと」

 私はその場でグラスを落としそうになった。

 危ない。

 本当に危ない。


   ◇ ◇ ◇


 午後になると、教室の混雑はさらに増した。

 クラスの男子たちも最初よりだいぶ接客に慣れてきて、教室全体に妙な一体感が出てくる。


 その流れの中で、また例の空気がにじんだ。


「一条くーん、こっち手伝って!」

「朝比奈さんもお願いー!」

「やっぱこの二人並ぶと絵になるね」

「わかる」

 何気ない言葉。

 でも、みんなの見方がもう“仲いい二人”の先にあることが分かる。


 半分公認どころではないのかもしれない。

 直接何も言われなくても、今日の教室では、私たちが“そういう二人”として自然に受け取られている。


 不思議だった。

 恥ずかしいのに。

 こんなに見られているのに。

 文化祭のざわざわの中で、それを完全に苦しいとは思わない。


 それどころか、少しだけうれしい。

 そんな自分がいた。


   ◇ ◇ ◇


 夕方近く、ようやく人の波が少し落ち着いたころ。

 私は教室の端で小さく息をついた。

 疲れた。

 でも、それ以上に、いろんな意味で心臓を使いすぎた。


「栞」

 呼ばれて振り向くと、恒星くんが立っていた。

 執事服のまま。

 その時点でもうだめだ。


「……何」

「今日」

「うん」

「どうだった?」

 私はしばらく言葉を探した。

 それから、正直に言う。


「……かっこよすぎました」

 言った瞬間、恒星くんの表情がほんの少し変わる。

 驚いたような、でもすぐに嬉しそうにほどける顔。


「……」

「それは」

「うん」

「かなりうれしい」

「またそれ」

「本当にそうだから」

 私は少しだけ笑ってしまった。

 今日はずっと、このやり取りをしている気がする。


「でも」

 私は続ける。

「恋人を隠すには」

「うん」

「あの執事服、かっこよすぎます」

 そこまで言うと、恒星くんが一瞬黙った。

 それから、少しだけ声を低くする。


「栞」

「何」

「今の、かなり危ない」

「何が」

「理性」

 私はもう、返す言葉をなくした。


 文化祭当日、恋人を隠すにはあの執事服がかっこよすぎる。

 そして、たぶんその問題は、今日一日では終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ