第92話 文化祭当日、恋人を隠すにはあの執事服がかっこよすぎる
文化祭当日の朝、私は家を出る前からすでに少し疲れていた。
まだ何も始まっていない。
教室にも着いていない。
それなのに、心臓だけが先に一日分働いている気がする。
原因は分かりきっていた。
執事服の恒星くん。
あれを、今日は試着じゃなく、本番で見ることになる。
しかも文化祭当日だから、準備室の隅でこっそり見るのとはわけが違う。
教室で。
お客さんの前で。
たくさんの人がいる中で。
「……ほんとに無理かも」
玄関で靴を履きながら小さくつぶやくと、母が台所から顔を出した。
「今日は文化祭でしょう」
「うん」
「朝からすごい顔してるわよ」
「どんな顔」
「楽しみなのに緊張で死にそうな顔」
あまりにも正確で、私は反論できなかった。
そうだ。
楽しい。
でも、死にそうでもある。
たぶん今日は、そういう一日だ。
◇ ◇ ◇
学校へ着くと、もういつもとは空気が違っていた。
昇降口の近くから、段ボールを運ぶ音。
廊下に貼られた案内ポスター。
普段より少し高い声で笑う生徒たち。
文化祭の日独特の、浮ついているのに慌ただしい空気が校舎中に広がっている。
教室へ向かいながら、私は何度か深呼吸した。
落ち着け。
今日は仕事もある。
ただ見とれて終わるわけにはいかない。
でも、教室の扉を開けた瞬間、その決意の半分くらいは吹き飛んだ。
「おはよ」
ひまりが、すでに衣装の一部を身につけた状態でこちらを見る。
「……おはよう」
「はい、来たね」
「何が」
「“今日、彼氏の執事服を正面から浴びる日”」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。
今日のひまりは、朝からだいぶ元気だった。
文化祭マジックというやつかもしれない。
「……まだ見てない」
「うん」
「なのに、もう無理」
「うん」
「何でそんなに楽しそうなの」
「だって、絶対すごいもん」
ひまりは即答した。
「昨日までであの破壊力なんだから、本番で接客とか始まったらもう終わりでしょ」
「……」
「特に栞の理性」
私は黙って視線を逸らした。
否定できない。
たぶん本当にそうなる。
「それに」
ひまりがにやっとする。
「今日の一条くん、絶対分かってるからね」
「何を」
「栞が執事服でだめになること」
「……」
「そのうえで、たぶん平然とやる」
それがいちばん困る。
あの人はそういうところで変に照れたり逃げたりしない。
むしろ、私の反応をちゃんと見て、嬉しそうにする。
「……もう帰りたい」
「始まってもないのに?」
「心臓が」
「それはもう諦めな」
ひまりは楽しそうに笑った。
「でも大丈夫」
「何が」
「どう見ても今日は、クラス全員そっち見てるから」
「それのどこが大丈夫なの」
「栞ひとりだけじゃなく、みんなやられるって意味」
慰めになっているようで全然なっていなかった。
◇ ◇ ◇
朝の最終準備が始まり、教室の中は一気に忙しくなった。
机を寄せて配置を整え、看板を立て、メニュー表を貼り、文化祭仕様の教室へ変えていく。
私はひまりと一緒にカウンター側の飾りつけを任されていた。
「このリボンもう少し右」
「こっち?」
「うん、いい感じ」
手を動かしているうちは、少しだけ落ち着ける。
問題は、恒星くんが更衣スペースに入ってからだった。
意識するなという方が無理だ。
教室の隅の簡易仕切りの向こうで、執事服に着替えている。
その事実だけで、私は変に呼吸が浅くなる。
「栞」
ひまりが小声で言う。
「何」
「今のうちに言っとく」
「何を」
「見た瞬間、変な声出さないように」
「出さない」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「今の“たぶん”は危ない」
そう返されたところで、仕切りの向こうが少しだけざわついた。
「一条くん、タイ曲がってる」
「ちょ、待って」
「うわ、やっぱりやばい」
女子たちの声が聞こえる。
その時点でもう嫌な予感しかしない。
そして。
「できたー!」
明るい声と一緒に、仕切りが開いた。
◇ ◇ ◇
分かっていた。
分かっていたのに、無理だった。
執事服の恒星くんが、昨日よりちゃんと整った状態でそこに立っていた。
黒のジャケット。
白いシャツ。
きっちりと締めたタイ。
手首まできれいに収まる袖。
そして何より、文化祭の浮ついた教室の中なのに、ひとりだけ妙に完成度が高い。
かっこよすぎる。
「……っ」
私は本気で息を止めた。
それが横顔に出たのか、ひまりが隣で肩を震わせる。
「ほらね」
「……」
「やばいでしょ」
「……やばい」
ようやくそれだけ言うと、ひまりは満足そうに頷いた。
でも、本当にだめだったのはそのあとだ。
恒星くんが、周りの反応を一通り受けたあと、こっちを見た。
目が合う。
その一瞬で、彼の目が少しだけやわらいで、ほんの少しだけ楽しそうになる。
――完全に分かってる。
私が今どうなっているか。
かなりきていることも。
それを見て、自分が少し嬉しいことも。
「朝比奈さんも今日かわいいよー!」
衣装係の子が向こうから言う。
私は反射的にそっちを見た。
今日の私は、前に試着したクラシカルな接客衣装をちゃんと着ている。
でも今は、自分がどうとか考える余裕はほとんどなかった。
「一条くん、立って立って」
「そのままこっち向いて」
「やば、執事すぎる」
教室のあちこちから声が飛ぶ。
しかも、それに紛れて、クラスの女子たちの視線が私にも向いているのが分かる。
ああ、と思う。
たぶんみんな、分かっている。
私がこの人に弱いこと。
そして、この人も私の反応を見ていること。
“察し”じゃない。
もうほとんど“確信”に近い空気だった。
◇ ◇ ◇
文化祭が始まると、教室にはすぐに人が流れ込んできた。
他クラスの生徒。
先輩。
保護者。
中学生らしい見学客までいる。
喫茶風の教室は思っていた以上ににぎわって、私は接客に集中するしかなかった。
「こちらへどうぞ」
「ご注文お決まりですか?」
「少々お待ちください」
忙しい。
でも、忙しいから助かる部分もあった。
執事服の恒星くんをずっと視界に入れていたら、本当に仕事にならなかったと思う。
それでも、完全には無理だった。
たとえば、向こう側の席でお客さんにメニューを渡している姿。
たとえば、少し腰を折って「かしこまりました」と言う声。
たとえば、ふとした瞬間にこちらを見て、目が合うこと。
そのたびに、胸の奥がいちいち揺れる。
「ねえ、あの人やばくない?」
「一条くんだよね?」
「執事似合いすぎ」
「朝比奈さんと並ぶとさらにやばい」
そんな声が聞こえてきて、私はお盆を持つ手に少しだけ力を入れた。
やっぱり、見られている。
しかも“お似合い”の空気ごと。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
その感覚に自分でも少し驚く。
前なら、もっと逃げたくなっていたはずなのに。
今は、恥ずかしさの奥に、少しだけ誇らしさみたいなものが混じっていた。
◇ ◇ ◇
昼前の少し落ち着いた時間帯。
私はカウンターの裏でグラスを並べていた。
すると、恒星くんがトレーを持って近づいてくる。
「お疲れ」
「……お疲れさま」
「大丈夫?」
「何が」
「執事服」
その一言に、私は思わず顔を上げた。
やっぱり言うのだ。
そういうことを、こんなタイミングで平然と。
「……大丈夫じゃないです」
小さく返すと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「知ってる」
「……」
「でも、ちゃんと仕事してる」
「仕事中なので」
「うん」
「……」
「偉い」
その言い方が、少しだけ甘い。
私はグラスを持ったまま視線を落とすしかなかった。
「栞」
「何」
「今も、やっぱりだめ?」
私は一瞬だけ迷った。
でも、嘘をついてもたぶん意味がない。
「……かなり」
「そっか」
「……嬉しそうですね」
「うん」
「認めるんですね」
「だって」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「今日の栞、ずっと俺のこと見てるから」
私は本気で固まった。
「……っ」
「違う?」
違わない。
違わないけれど、それをこうして本人に言われるのは反則だ。
「……見てないとは言わないです」
「うん」
「でも」
「うん?」
「そういうこと、勤務中に言わないでください」
そう返すと、恒星くんは少しだけ笑った。
「勤務中だから我慢してる」
「何を」
「もっと言いたいこと」
私はその場でグラスを落としそうになった。
危ない。
本当に危ない。
◇ ◇ ◇
午後になると、教室の混雑はさらに増した。
クラスの男子たちも最初よりだいぶ接客に慣れてきて、教室全体に妙な一体感が出てくる。
その流れの中で、また例の空気がにじんだ。
「一条くーん、こっち手伝って!」
「朝比奈さんもお願いー!」
「やっぱこの二人並ぶと絵になるね」
「わかる」
何気ない言葉。
でも、みんなの見方がもう“仲いい二人”の先にあることが分かる。
半分公認どころではないのかもしれない。
直接何も言われなくても、今日の教室では、私たちが“そういう二人”として自然に受け取られている。
不思議だった。
恥ずかしいのに。
こんなに見られているのに。
文化祭のざわざわの中で、それを完全に苦しいとは思わない。
それどころか、少しだけうれしい。
そんな自分がいた。
◇ ◇ ◇
夕方近く、ようやく人の波が少し落ち着いたころ。
私は教室の端で小さく息をついた。
疲れた。
でも、それ以上に、いろんな意味で心臓を使いすぎた。
「栞」
呼ばれて振り向くと、恒星くんが立っていた。
執事服のまま。
その時点でもうだめだ。
「……何」
「今日」
「うん」
「どうだった?」
私はしばらく言葉を探した。
それから、正直に言う。
「……かっこよすぎました」
言った瞬間、恒星くんの表情がほんの少し変わる。
驚いたような、でもすぐに嬉しそうにほどける顔。
「……」
「それは」
「うん」
「かなりうれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私は少しだけ笑ってしまった。
今日はずっと、このやり取りをしている気がする。
「でも」
私は続ける。
「恋人を隠すには」
「うん」
「あの執事服、かっこよすぎます」
そこまで言うと、恒星くんが一瞬黙った。
それから、少しだけ声を低くする。
「栞」
「何」
「今の、かなり危ない」
「何が」
「理性」
私はもう、返す言葉をなくした。
文化祭当日、恋人を隠すにはあの執事服がかっこよすぎる。
そして、たぶんその問題は、今日一日では終わらない。




