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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第89話 “彼女です”を、今度は学校でも言われたらたぶん心臓が終わる

 冗談みたいに言われた“付き合ってるんでしょ”が刺さった翌日、私は朝から少しだけ落ち着かなかった。


 理由は二つある。


 ひとつは、昨日のあのやり取りの余韻がまだ残っていること。

 もうひとつは、そのあと恒星くんが、あまりにもさらっと、とんでもないことを言ったからだ。


 「次、また言われたら、俺、ちゃんと答えたくなるかも」


 それを思い出すたびに、胸の奥がどくんと鳴る。

 ちゃんと答える。

 つまりそれは、学校の中でも、曖昧にごまかさずに、私のことを恋人だと認めるかもしれない、ということだ。


「……無理」


 駅へ向かう道で、私は小さくつぶやいた。

 何が無理って、全部だ。


 もちろん、嫌なわけじゃない。

 嫌ならこんなに引きずらない。

 むしろ、嬉しいのだ。

 嬉しいからこそ、心臓に悪い。


 学校で。

 みんなの前で。

 もし本当に、“彼女です”なんて言われたら。


「……たぶん終わる」


 私の平常心が。

 いや、平常心だけじゃなく、しばらくまともに息をする能力まで失う気がした。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ入ると、ひまりが私の顔を見た瞬間に、ため息とも笑いともつかない声を漏らした。


「おはよ」

「……おはよう」

「はい、来ました」

「何が」

「“昨日の一条くんの爆弾発言でまだ死んでます”の顔」

「ひまり」

「図星」

 私は鞄を机に置きながら、小さくため息をついた。

 ほんとうにこの親友には隠し事ができない。


「……そんなに分かる?」

「分かるよ」

 ひまりは前の席に座って頬杖をつく。

「だって昨日の帰り、あれ言われたんでしょ?」

「……」

「“次また聞かれたらちゃんと答えたくなる”」

 私は思わずひまりを見た。

「何でそこまで」

「顔」

「……」

「あと、帰り際の雰囲気」

 それでそこまで読むのはやっぱり少しおかしいと思う。

 でも、今の私は反論する気力がなかった。


「……あれは」

 私は小さく言う。

「うん」

「かなり、強い」

「だよね」

「……」

「で?」

「何」

「嫌?」

 私は少し黙った。

 それから、正直に答える。


「……嫌じゃない」

「うん」

「でも」

「うん」

「恥ずかしすぎる」

 ひまりが吹き出しそうになるのをこらえた。

「そりゃそう」

「……」

「でも栞、それ前よりかなり変わってるよ」

「何が」

「“絶対やだ”じゃなくて、“恥ずかしいけど嫌じゃない”になってる」

 その言葉は、思っていたより深く胸に落ちた。


 たしかにそうだ。

 前の私なら、学校の中で恋人として見られること自体が、ただ怖かった。

 今は違う。

 怖いし、恥ずかしいし、できれば床に埋まりたい。

 でも、それを否定したいとは思わない。


「……」

「栞」

「何」

「もうだいぶ、“彼女”って立場が自分の中に入ってきてるね」

 私はすぐには返せなかった。

 でも、胸の奥ではその通りだと思っていた。


   ◇ ◇ ◇


 ホームルーム前。

 教室の入り口が少しだけざわつく。


 私は反射みたいに顔を上げた。

 恒星くんがいる。

 そして、目が合った瞬間に分かった。


 今日は向こうも、昨日のことをちゃんと持っている。


 いつものやわらかい表情。

 でも、その奥に少しだけ熱のある落ち着きがある。

 変に浮ついてはいない。

 でも、何かを決めている人の目だ。


「……」

 私は一瞬だけ視線を逸らしかけて、でも止めた。

 今の私はもう、それだけで逃げたくなるほど弱くはない――たぶん。


 恒星くんは席へ鞄を置いてから、いつものようにこっちへ来る。

 学校の中だから距離は控えめ。

 でも、その控えめな近さに、今日は昨日以上の意味を感じてしまう。


「おはよう」

「……おはよう」

 私が返すと、恒星くんはほんの少しだけ目を細めた。


「今日」

「……何」

「かなり意識してる」

「……」

「昨日のこと」

 やっぱり言う。

 この人はほんとうに、こっちの顔から何でも読む。


「……恒星くん」

「うん」

「朝からそれ、ちょっとだめです」

「どうして」

「心臓に悪いので」

「ごめん」

 そう言いながら、ぜんぜん悪いと思っていない顔をしていた。

 むしろ少しだけ楽しそうで、私は余計に困る。


「……」

「でも」

「何」

「俺も、かなり考えた」

 その声が少しだけ低くなる。

 私は一瞬で真面目な顔になった。


「……何を」

「昨日のこと」

「……」

「冗談っぽく聞かれて」

「……」

「ごまかしたの、別に間違いじゃなかったと思う」

「……」

「でも」

 彼は私を見る。

「次は、ちゃんとしたくなるかもしれない」

 昨日の続きだ。

 しかも今日は、少しだけ輪郭がはっきりしている。


 私はすぐには何も言えなかった。

 教室の中だ。

 周りには人もいる。

 なのに、この人は私の心臓を容赦なく追い詰めてくる。


「……それは」

 ようやく声を出す。

「うん」

「かなり、覚悟が必要です」

「誰に」

「私に」

 そう言うと、恒星くんが少しだけ笑った。

 でも、笑い方はやわらかい。


「うん」

「……」

「分かってる」

「……」

「だから、今すぐ無理にじゃない」

 その言葉に、私はほんの少しだけ息を吐いた。

 追い詰めるわけじゃない。

 でも、彼の中にはもうその未来がある。

 それが分かるから、余計に心臓に悪い。


   ◇ ◇ ◇


 一時間目と二時間目の間の休み時間。

 私はプリントの束を持って教卓の近くにいた。


 クラスの女子数人が文化祭の話をしていて、その流れでまた衣装の話題になる。


「昨日の試着、やばかったよね」

「一条くん、執事服反則でしょ」

「朝比奈さんもめっちゃ似合ってた」

 その言葉に、私は一瞬だけ手を止めた。

 やっぱり、見られていたのだ。

 かなりしっかり。


「しかも二人並んだら、もう」

「わかる」

「ほんとお似合い」

 その一言が、思ったより自然に教室の空気へ混ざる。


 お似合い。

 前にも言われた。

 でも、今日は昨日より少しだけ受け止め方が違った。

 恥ずかしい。

 やっぱりかなり恥ずかしい。

 でも、その言葉の重さに、前ほどつぶされない。


 そのとき、後ろから男子の声がした。


「ていうか、文化祭当日に誰かが冗談で“彼女さん呼んでー”とか言ったら、一条くんどうするんだろ」

 教室の空気がまた少しだけざわついた。

 私はほんとうに一瞬、呼吸を忘れた。


「……」

「それはちょっと見たい」

「やめなよ」

「でも反応気になる」

 軽い会話。

 冗談。

 でも、その言葉は今の私にとっては爆弾とほぼ同じだった。


 だって、私も気になるからだ。

 もし本当にそういう状況が来たら。

 この人は、どうするんだろう。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み。

 私はいつも以上に落ち着かず、ひまりに中庭へ引っ張られた。


「はい」

「何」

「今日の心臓だいぶ忙しいね」

「……うん」

「さっきの“彼女さん呼んでー”のやつ?」

 私は小さく頷いた。

 ひまりは少しだけ笑う。

「刺さった?」

「……かなり」

「だよね」

 私はベンチに座りながら、小さく息を吐いた。


「……ねえ」

「何」

「もし」

「うん」

「ほんとに言われたら」

「うん」

「恒星くん、どうすると思う?」

 ひまりは少しだけ考えてから答えた。


「今の一条くんなら」

「うん」

「かなり高確率で言う気がする」

「……」

「しかも変にごまかさず」

 私は思わず膝の上の手をぎゅっと握った。

 やっぱりそう見えるのか。

 自分だけじゃなく。


「……」

「栞」

「何」

「それ、嫌?」

 私はしばらく黙っていた。

 でも、答えはもう出ていた。


「……嫌じゃない」

「うん」

「でも」

「うん」

「ほんとに言われたら、たぶん心臓終わる」

 ひまりが吹き出しそうになる。

「それはそう」

「……」

「でも、なんかいいね」

「何が」

「“終わる”って思うくらい嬉しいんでしょ」

 その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。

 図星だった。


 そうだ。

 怖いだけじゃない。

 恥ずかしいだけでもない。

 もし本当に学校で“彼女”って言われたら、たぶん私は無理なくらい嬉しいのだ。


「……」

「それ、かなりでかい進歩だよ」

 ひまりの声はやわらかかった。

 私は小さく頷いた。


   ◇ ◇ ◇


 放課後、文化祭準備の作業をしているあいだも、私は少しだけ落ち着かなかった。

 いつまた軽い冗談みたいに核心を突かれるか分からない、という緊張もあったし、昨日から引きずっている恒星くんの言葉もまだ胸に残っていた。


 でも不思議と、恒星くんの方はいつもより落ち着いて見えた。

 浮ついていない。

 でも、その静けさがむしろ本気に見える。


 作業が終わって外へ出たあと、私は自分から聞いた。


「……今日」

「うん?」

「朝の続き」

 恒星くんが少しだけ目を細める。

「うん」

「ほんとに」

「うん」

「学校でも、いつかちゃんとしたいって思ってるんですか」

 聞いた瞬間、胸が大きく鳴る。

 でも、今は聞きたかった。


 恒星くんはすぐには答えなかった。

 数秒だけ私を見て、それから静かに言う。


「思ってる」

「……」

「今すぐ無理にじゃない」

「……」

「でも」

 彼はほんの少しだけ声を落とす。

「栞のこと、学校の中だけ曖昧にしておきたいとは思わない」

 その言葉に、私は息を止めた。


 曖昧にしておきたいとは思わない。

 それは、想像していたよりずっと深かった。

 ただの勢いとか、嫉妬とか、そういう一時の熱じゃない。

 ちゃんと“関係そのもの”を大事にしている人の言葉だった。


「……恒星くん」

「何」

「それ」

「うん」

「やっぱり、かなり強いです」

「知ってる」

「……」

「でも、本当だから」

 私はもう、それ以上何も言えなくなった。


 “彼女です”を、今度は学校でも言われたらたぶん心臓が終わる。

 でも、その未来を前ほど拒まなくなっている自分もいる。

 たぶんそれは、私の中でこの恋が少しずつ“隠すもの”ではなく“持っていくもの”に変わり始めているからだ。

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