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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第90話 “正式に話がしたい”その一言で、恋はまた現実に引き戻される

 文化祭準備が本格的に動き出してから、学校の中はずっと少しだけ浮ついていた。


 ポスターの色。

 模擬店の当番表。

 衣装のサイズ確認。

 教室の隅でも廊下でも、誰かが何かしら文化祭の話をしている。


 そのざわざわした空気は、たぶん普通なら楽しいだけのものだ。

 実際、私も楽しいと思っている。

 恒星くんと学校の中で一緒にいられる理由が増えたことも、やっぱりうれしい。

 執事服のことを思い出すたびに心臓は忙しくなるし、文化祭当日を想像するだけで少しだけ落ち着かなくもなる。


 でも、その浮ついた空気の下に、今の私にはもうひとつ別の感覚があった。


 ――現実は、待ってくれない。


 学校の中で恋人っぽくいられること。

 半分冗談みたいに“付き合ってるんでしょ”と言われること。

 それに慣れようとしている今も、恒星くんの家のことは、少しずつこちらへ近づいてきている。


 そのことを、私はちゃんと分かっていた。

 分かっていたはずだったのに。


 それが“今日”という形で来るとは、思っていなかった。


   ◇ ◇ ◇


 放課後の準備委員の作業は、思ったより早く片づいた。


 文化祭当日の配置表を確認して、看板用の画用紙の数を数えて、必要な備品のリストを清書する。

 仕事そのものは地味だけれど、みんな少しだけ楽しそうで、疲れているのにどこか笑っていた。


「今日、思ったより進んだね」

「うん、当日近いし」

「明日ポスター仕上げられそう」

 そんな会話の中で、私も資料をまとめながら小さく息を吐いた。


 ふと、視線を感じる。

 顔を上げると、恒星くんが少し離れたところからこっちを見ていた。


 いつもの目だ。

 やわらかくて、少しだけ甘い。

 でも今日は、その奥に別のものが混じっている気がした。


 何だろう。

 そう思ったけれど、聞く前に作業は終わってしまった。


「じゃあ今日はここまで」

「おつかれー」

「鍵閉めお願いしまーす」

 みんなが少しずつ散っていく。

 ひまりが去り際に私を見て、小さく眉を上げた。

 たぶん、“何かある”と察したのだろう。

 でも何も言わず、ただ片手をひらっと振って出ていった。


 準備室に残ったのは、私と恒星くん、それから資料を運んでいる別クラスの男子一人だけだった。

 その男子もすぐに荷物を抱えて出ていく。


 扉が閉まって、部屋の中が少し静かになる。


「栞」

 恒星くんが呼ぶ。

「……何」

「帰る前に少しだけいい?」

 その声音がいつもより低くて、私は自然と背筋を伸ばした。


「……うん」


   ◇ ◇ ◇


 準備室を出て、人気の少ない渡り廊下へ移動する。

 夕方の光が、窓から長く床に落ちていた。


 並んで歩きながら、私は少しずつ胸が落ち着かなくなるのを感じていた。

 たぶん、文化祭の話だけじゃない。

 何となく分かる。

 今の恒星くんは、もっと別のことを言おうとしている。


「今日」

 恒星くんが静かに言った。

「うん」

「家から連絡が来た」

 その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。


 家。

 その言葉は、やっぱりいまだに特別な重さを持つ。


「……」

「一条の方」

「……うん」

「正式に、話がしたいって」

 私は足を止めそうになって、でもぎりぎりで止まらなかった。

 正式に。

 話がしたい。


 それは、今までの“なんとなく気づいている”とか、“周りで確認している”とは違う。

 もっと輪郭のはっきりした現実だ。


「……どういう意味で」

 ようやくそう聞くと、恒星くんは少しだけ目を伏せた。

「たぶん」

「……」

「栞とのことを、ちゃんと知りたいってこと」

 私は何も言えなかった。


 知りたい。

 その言葉だけなら穏やかに聞こえる。

 でも、一条家が“ちゃんと知りたい”と思うことの意味は、私が思うよりずっと重いのかもしれない。


「……」

「ごめん」

 恒星くんが小さく言う。

「何で謝るの」

「もっとあとにしたかった」

「……」

「せめて文化祭終わるまでは」

 その言い方で分かった。

 彼もこれを“楽しい話”として持ってきたわけじゃない。

 できるなら、今の学校の時間を少しでも長く守りたかったのだ。


 そのことが分かると、胸の冷たさの中に、少しだけ別の温度が混ざる。


「……逃げられない?」

 気づけば、そんなことを聞いていた。

 自分でも少し子どもっぽいと思う。

 でも、今はそれが本音だった。


「今すぐじゃない」

 恒星くんが答える。

「でも」

「……」

「無視はしない」

 その答えは、あまりにも恒星くんらしかった。


 関係ないと言って笑い飛ばさない。

 でも、大げさに脅かしもしない。

 ただ、ちゃんと向き合うつもりだと分かる言い方をする。


「……そっか」

 それしか言えなかった。


   ◇ ◇ ◇


 しばらく、二人とも黙って歩いた。


 文化祭のポスターが貼られた廊下。

 部活へ向かう生徒たちの遠い声。

 窓の外では、夕焼けが少しずつ濃くなっていく。


 こんなふうに学校の中が文化祭で明るいほど、今の話は妙に重く感じた。

 さっきまで“執事服がどう”とか、“衣装合わせがどう”とか、そういうことで落ち着かなくなっていたのに。

 恋って、こんなふうに一瞬で現実に引き戻されるのだ。


「栞」

 恒星くんがもう一度呼ぶ。

「何」

「怖い?」

 私は少しだけ笑いそうになった。

 そんなの、聞かなくても分かっているはずなのに。

 でも、この人はそういうところを飛ばさない。


「……うん」

 正直に頷く。

「すごく?」

「……うん」

「そっか」

 恒星くんは、責めるでも慰めるでもなく、ただそのまま受け取った。

 その“受け取られた”感じが、今の私にはありがたかった。


「でも」

 私は言葉を探す。

「怖いからって、やめたいわけじゃない」

 言いながら、自分で胸の奥を確かめる。

 それは本当だった。


 怖い。

 たしかに怖い。

 でも、この恋そのものから逃げたいわけじゃない。

 むしろ逆だ。

 大事だからこそ、こういう現実が重い。


「……うん」

 恒星くんが、少しだけやわらかく頷く。

「それ聞けただけで、だいぶ違う」

「……」

「ありがとう」

 私は小さく首を振った。

 ありがとうと言われるようなことは、何もしていない気がする。

 ただ、怖いと言っただけだ。


 でもたぶん、今の恒星くんにとっては、私が“怖いけど逃げない”側にまだいることが大事なのだ。


   ◇ ◇ ◇


 校門を出ると、少しだけ空気がゆるんだ。

 学校の外へ出たからといって、話の重さが消えるわけじゃない。

 でも、教室や廊下の中よりは少しだけ呼吸がしやすい。


 並んで歩きながら、私は小さく言った。


「……文化祭」

「うん」

「ちゃんと楽しめるかな」

 自分でも少し情けない問いだと思った。

 でも、不安の形としてはかなり本音だった。


 こんな話を聞いたあとで、また執事服だの仮装だの文化祭準備だのに浮かれていられるのか。

 私は少しだけ、その自信を失いかけていた。


「楽しみたい」

 恒星くんが言う。

「……」

「栞と」

「……」

「だから」

 彼は私を見る。

「文化祭が終わるまでは、ちゃんと文化祭の話をしよう」

 その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。


 終わったら、ちゃんと家の話をする。

 でも、それまでは、今ここにある学校の時間を大事にする。

 そういうことだ。


「……うん」

「できる?」

「……」

「無理なら無理でいい」

「……できるようにしたい」

 そう答えると、恒星くんは少しだけ目を細めた。

「うん」

「……」

「じゃあ、そうしよう」

 その静かな約束が、今日の私には少しだけ救いだった。


   ◇ ◇ ◇


 駅前のベンチに座って、二人で少しだけ黙る。

 風はやわらかいのに、胸の中だけが重い。


 それでも、私は思う。

 この人はちゃんと話してくれた。

 隠して、文化祭が終わるまで何も言わないことだってできたはずなのに。

 でもそうしなかった。

 それはきっと、私を“守るための嘘”より、“一緒に持つ現実”を選んだからだ。


「……恒星くん」

「何」

「今日、言ってくれてよかった」

 そう言うと、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。

「ほんとに?」

「うん」

「……」

「こわいけど」

「うん」

「知らないまま、あとで一気に来るよりは」

「……」

「今、ちゃんと心の準備できる方がいい」

 恒星くんはしばらく何も言わなかった。

 それから、ほんの少しだけ笑った。


「栞」

「何」

「今の、かなり強い」

「そうですか」

「うん」

「……」

「やっぱり、好きが更新される」

 その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。

 重い話のあとでも、そうやってちゃんと“好き”へ戻してくれるところが、この人らしい。


 “正式に話がしたい”その一言で、恋はまた現実に引き戻される。

 でも、それで終わりじゃない。

 怖くても、ちゃんと一緒に持っていく。

 今の私たちは、たぶんもうそこまで来ているのだと思った。

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