第87話 “似合う”って分かってる顔で言われると、恋人は逃げ場がない
執事服の恒星くんを見た翌日、私は朝からちょっとだけ現実感がなかった。
制服に着替えて、髪を整えて、眼鏡をかけて。
いつもの手順をちゃんと踏んでいるのに、頭の中だけが昨日の準備室に置き去りになっている感じがする。
黒い服。
白いシャツ。
少しだけ低くなった声。
そして、私の「だめでした」を聞いて、明らかに嬉しそうにした顔。
「……ほんとにだめ」
鏡の前で小さくつぶやいて、私は頬に手を当てた。
朝から少し熱い気がする。
いや、たぶん気のせいじゃない。
昨日の帰り道で、恒星くんが言った。
**「文化祭、楽しみにしてて」**と。
あの言い方はずるい。
どう考えても、私が困るって分かっていて言っている。
しかも、本人も私の反応をかなり楽しんでいる。
それが悔しいのに、嬉しい。
そこが本当に悔しい。
◇ ◇ ◇
教室に入った瞬間、ひまりが私の顔を見て深くうなずいた。
「はい」
「何」
「引きずってる」
「……」
「しかもかなり」
私は鞄を机に置いて、小さくため息をついた。
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に座って、面白がる顔を隠しもしない。
「今日の栞、“昨日、彼氏の執事服で理性を削られました”って顔してる」
「ひまり」
「図星」
否定できなかった。
「……」
「で?」
「何」
「夢に出た?」
「出てない」
「でも朝から思い出してた?」
「……」
「はい図星」
私は視線を逸らした。
だって、ほんとうにそうだったから。
「……仕方ないでしょ」
「うん」
「だって」
「うん」
「似合いすぎた」
そこまで言うと、ひまりは机に突っ伏した。
「無理。今日も強い」
「何が」
「その素直さ」
私は少しだけ唇を尖らせた。
「素直っていうか、事実」
「そういうとこ」
ひまりは顔を上げてにやっとする。
「で、今日は何があると思う?」
「何が」
「栞の理性がさらに削られるイベント」
「……」
「衣装係、次は女子側の仮装合わせやる気満々だったよ」
私はその一言で固まった。
「……え」
「昨日言ってたじゃん」
「……」
「“朝比奈さんも絶対似合う”って」
思い出した。
思い出してしまった。
昨日、執事服姿の恒星くんに意識を全部持っていかれて、そのあとかなり記憶が曖昧だったけれど、たしかに誰かがそんなことを言っていた。
そして、恒星くんもそれを否定していなかった気がする。
「……うそ」
「うそじゃない」
「……」
「今日、栞の番だね」
私は机に突っ伏したくなった。
見られる側になるのは、また別の意味で無理だ。
◇ ◇ ◇
午前中、私はかなり落ち着かなかった。
昨日の余韻だけでも十分心臓に悪いのに、今日は自分の仮装試着があるかもしれない。
そして、その場にはたぶん恒星くんもいる。
いや、準備委員なのだからほぼ確実にいる。
見られる。
たぶん、かなりしっかり。
しかも、あの人の“彼氏の目”で。
「……だめだ」
一時間目の休み時間、私は窓の外を見ながら小さくつぶやいた。
そのとき、ちょうど廊下の向こうから恒星くんが来るのが見える。
目が合う。
その瞬間、彼の目元がやわらぐ。
やっぱりそれだけで胸がざわつく。
しかも今日は、こっちが何を警戒しているのか、向こうもたぶん分かっている顔だった。
「おはよう、の続き」
机のそばまで来て、恒星くんが言う。
「……何それ」
「今日はまだちゃんと話してない」
「……」
「で、顔が違う」
やっぱり言う。
この人はほんとうによく見ている。
「……違わないです」
「違うよ」
「……」
「今日は、昨日よりちょっと緊張してる」
私は言葉に詰まった。
図星すぎる。
「……恒星くん」
「何」
「そういうの、分かってても言わないでください」
「どうして」
「余計に意識するので」
「もうしてるでしょ」
「……」
「図星?」
「……」
「栞」
少しだけ声が低くなる。
「今日、試着あるかもって思ってる?」
私は完全に固まった。
何でそこまで分かるんだろう。
ひまりといい、恒星くんといい、今日は全員エスパーなのかもしれない。
「……思ってる」
観念して小さく言うと、恒星くんは少しだけ笑った。
「うん」
「……」
「楽しみ」
「やっぱり」
「だって絶対似合うから」
その言い方が、あまりにも“分かっている側”の余裕で、私は一瞬ほんとうに息を止めた。
「……見てもないのに」
「見なくても分かる」
「……」
「それ、彼氏の勘」
そんな勘はなくていいと思う。
でも、少しだけうれしい自分もいるから困る。
◇ ◇ ◇
放課後の準備室は、昨日より少しだけ騒がしかった。
文化祭の衣装担当の子たちが、ダンボールから布やアクセサリーを取り出しては楽しそうに話している。
女子側の衣装もいくつか候補があるらしく、メイド風、クラシカル系、ワンピース風と、ハンガーにいくつも掛けられていた。
「朝比奈さん!」
案の定、衣装係の女子に見つかる。
「今日ちょっと試してみてよ」
「……え」
「だって一条くんあんなに似合ったんだから、バランス見たいし」
「いや、その」
「だいじょうぶ、時間かからないから!」
だいじょうぶの基準が違う。
私の心臓はもうだいじょうぶではない。
でも、周りは完全に“当然やる流れ”になっていた。
ひまりが遠くから、がんばれ、みたいな顔で小さく拳を握る。
全然がんばりたくない。
「……」
「朝比奈さん?」
断る理由がうまく見つからない。
文化祭準備の一環だ。
ただの試着だ。
そう、自分に言い聞かせる。
「……少しだけなら」
そう答えた瞬間、準備室の空気がふっと明るくなる。
「よし!」
「絶対似合うって」
「こっちの色がいいかな」
私は半ば流されるように試着スペースへ連れて行かれた。
◇ ◇ ◇
衣装は、思っていたより落ち着いたデザインだった。
フリル過剰なメイド服、みたいなものではない。
濃いめの紺と白を基調にした、クラシカルな接客衣装。
スカート丈も短すぎず、エプロンも上品で、文化祭の仮装としてはかなり“ちゃんとしている”。
それでも、私にとっては十分に非日常だった。
「大丈夫?」
衣装係の女子が聞く。
「……大丈夫じゃない」
「正直」
「……」
「でも、めっちゃ似合いそう」
そんなことを言われても困る。
何とか着替えて、鏡を見る。
たしかに、思っていたより変ではない。
でも、それは自分で判断するものじゃない気がして、余計に落ち着かなかった。
「できた?」
カーテンの外から声がして、私は小さく息を吸った。
「……はい」
「じゃあ開けるねー」
待ってほしかった。
でも、待ってはくれなかった。
カーテンが開く。
◇ ◇ ◇
その瞬間、準備室の空気がほんの少し止まった気がした。
「え、待って」
「かわい」
「似合うんだけど」
「やば」
いろんな声が飛ぶ。
私は一瞬で体温が上がるのを感じた。
やめてほしい。
ほんとうに、やめてほしい。
でも、その中で一番聞きたくて、一番聞きたくなかったのは、やっぱり恒星くんの反応だった。
私は、恐る恐るそちらを見る。
恒星くんは、昨日の私みたいに、ほんの一瞬だけ黙っていた。
そして、そのあと。
明らかに、目が変わった。
いつものやわらかい目じゃない。
もう少し低いところで揺れる、熱のある視線。
**完全に“彼氏の目”**だった。
「……」
私はその瞬間、本気で逃げたくなった。
「一条くん?」
誰かが笑いながら言う。
「感想は?」
準備室の空気がまた少しだけざわつく。
でも恒星くんは、すぐには答えなかった。
私を見たまま、数秒黙る。
その沈黙が、余計に心臓に悪い。
「……似合う」
ようやく、低い声でそれだけ言う。
でも、その“似合う”は昨日私が言ったものとは全然違った。
分かってる顔で。
しかも、かなり本気で言っているのが伝わる。
「それだけ?」
衣装係の子が面白がって聞く。
ひまりも遠くで肩を震わせている。
やめてほしい。
ほんとうに。
「……十分でしょ」
恒星くんが少しだけ困ったように言う。
「いや、その顔でそれは」
「説得力ありすぎ」
「完全に彼氏の顔なんだけど」
あちこちから好き勝手な声が飛んで、私はもう床に消えたかった。
「……」
でも、もっとだめだったのは、そのあと恒星くんが私にだけ向けて言った一言だった。
「栞」
「……何」
「思ってたより、だいぶだめ」
一瞬、意味が分からなかった。
でも、その直後に理解してしまう。
だめなのは、理性の方だ。
「……っ」
私は完全に視線を逸らした。
無理だ。
それは無理だ。
「一条くん、顔」
「やばいね」
「朝比奈さん、真っ赤」
周りの声が遠い。
でも、顔が熱いのは自分でも分かる。
◇ ◇ ◇
少しして、人が別の衣装の話へ流れた隙に、私は準備室の端へ避難した。
でも、そんなのですぐに見つかる。
「栞」
呼ばれて振り向くと、恒星くんが来ていた。
まだ昨日の執事服ではなく制服のままなのに、今日はそれだけで危ない。
「……何」
「逃げた」
「……少し」
「そっか」
その声がやわらかい。
でも、目はまだ少し熱いままだった。
「……さっきの」
私は小さく言う。
「うん」
「ずるいです」
「何が」
「似合うって」
「……」
「分かってる顔で言うから」
そこまで言うと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「分かってたから」
「……」
「絶対似合うって思ってた」
「……」
「でも」
「何」
「実際見たら、思ってたよりだいぶきた」
その言い方が昨日の私とそっくりで、私は言葉をなくした。
昨日、私は執事服の恒星くんに“だめでした”と言った。
今日は、彼が私に同じことをしているのだ。
「……」
「栞」
「何」
「今日、文化祭本番じゃなくてよかった」
「……え」
「本番だったら、たぶんずっと見てる」
私は一瞬ほんとうに息を止めた。
そんなことを、準備室の隅で、そんな顔で言うのは反則だと思う。
「……恒星くん」
「うん」
「そういうの」
「うん」
「ほんとに逃げ場ないです」
そう返すと、恒星くんが少しだけ笑った。
「知ってる」
「……」
「でも本当だから」
私はもう、視線を上げられなかった。
似合うって分かってる顔で言われると、恋人は逃げ場がない。
そして今の私は、完全にその状態だった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
学校の外へ出て、ようやく少し呼吸がしやすくなる。
でも、頭の中はまださっきの準備室のままだった。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「文化祭本番」
「……」
「かなり楽しみ」
私はその言葉に、また少しだけ顔が熱くなる。
「……私は」
「うん」
「ちょっと怖い」
「どうして」
「だって」
私は小さく息をつく。
「今日の時点でこうなのに」
「うん」
「本番であれ着て」
「うん」
「しかも恒星くんまで執事服だったら」
「……」
「たぶん、まともに見られない」
そう言うと、恒星くんが少しだけうれしそうに笑った。
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私はため息をついた。
でも、そのため息は完全に呆れではなかった。
嬉しいのだ。
こんなふうに見てもらえることも。
見られて困ってしまう自分も。
全部込みで、たぶん今の私はちゃんと恋をしている。
「……恒星くん」
「何」
「今日のこと」
「うん」
「文化祭まで引きずります」
そう言うと、恒星くんがほんの少しだけ目を細めた。
「俺も」
「……」
「たぶん、本番でまた更新される」
「それが怖いんです」
「俺は楽しみ」
やっぱり、その返しになる。
私は少しだけ笑いながら、でも内心では本気で覚悟を決め始めていた。
文化祭はまだ来ていない。
でも、その前段階だけでもう十分危ない。
そして私はたぶん、これからもっと逃げ場をなくしていく。




