第86話 彼氏の執事服なんて、文化祭前に見せられたら理性がもちません
文化祭準備委員になってから、放課後の時間が少しだけ危険になった。
学校の中だ。
先生もいる。
クラスメイトだって普通にその辺を歩いている。
だから、放課後の駅前みたいにあからさまに甘くはなれない。
でも、そのぶん余計に危ない。
“ちゃんとした理由で一緒にいられる”というのは、思っていた以上に心臓に悪いのだ。
同じ資料を見て、同じ廊下を歩いて、同じことで少し笑う。
それだけで十分に特別なのに、そこへ文化祭という非日常まで乗ってくるのだから、危険じゃないわけがなかった。
そして、その危険は、この日とうとう見た目にまで来た。
◇ ◇ ◇
「仮装接客、やっぱり強くない?」
昼休み、文化祭準備の話題でクラスが少しだけざわついていた。
私はお弁当を開きながら、何となくその会話を聞いていた。
「メイド喫茶っぽくする?」
「いや、和風もいいよね」
「執事とか絶対映える」
「一条くん執事似合いそう」
その一言に、私は危うく箸を落としかけた。
「……」
「ほら来た」
前の席のひまりが、即座にこっちを見てにやっとする。
「何が」
「今の反応」
「……別に」
「別に、の顔じゃない」
ひまりは頬杖をついた。
「“一条くんが執事服着たらたぶん無理”の顔」
「ひまり」
「図星」
私はお弁当箱の卵焼きを見つめた。
図星だった。
だって、想像してしまったのだ。
黒い執事服。
白い手袋とか、そういうのまで含めて、恒星くんが自然に着こなしてしまう絵を。
あの人はたぶん、そういう“整ったもの”が似合いすぎる。
「……やめてほしい」
私が小さくつぶやくと、ひまりが吹き出した。
「見たくないの?」
「……見たい」
「うん」
「でも」
「うん」
「たぶん、すごく困る」
「だろうね」
ひまりはあっさり頷く。
「でも文化祭ってそういうものでしょ」
「何それ」
「恋人の理性を削りにくるイベント」
「そんな定義初めて聞いた」
でも、ちょっとだけ分かる気もした。
学校行事と仮装って、どうしてあんなに破壊力があるんだろう。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、準備委員の会議はいつもよりにぎやかだった。
机の上には企画案の紙が広がっていて、文化祭当日の接客衣装の候補がいくつか並んでいる。
「とりあえず、雰囲気見るために試着してみる?」
衣装係の女子が言った。
「執事服、一着だけサンプルあるよ」
「え、着てみてよ誰か」
「男子で背高い人の方がいいよね」
その流れで、何人かの視線が一斉にひとつの方向へ向いた。
恒星くんだった。
「一条くんでいいじゃん」
「絶対似合うって」
「見たい見たい」
場が一気に盛り上がる。
私は資料の端を持ったまま固まった。
来た。
ついに来た。
頭の中では昼から覚悟していたのに、いざ本当にその流れになると心臓がうるさすぎる。
「……俺?」
恒星くんが少しだけ苦笑する。
「うん」
「一回着るだけ」
「サイズ合いそうだし」
「お願い」
周囲の圧に押される形で、恒星くんは小さく息を吐いた。
「じゃあ、一回だけ」
その返事に、わっと空気が明るくなる。
私はそのざわめきの中で、どうしていいか分からず、目の前の紙を見つめていた。
見たい。
でも見たくない。
見たらたぶん本当に無理になる。
「朝比奈さん」
隣の席の女子が笑いながら言う。
「なんか顔赤くない?」
「え」
「暑い?」
「……た、たぶん」
我ながら苦しい言い訳だった。
でも、まさか“彼氏の執事服を想像しただけで理性が危ないです”なんて言えるわけがない。
◇ ◇ ◇
数分後。
特別教室の奥にある簡易更衣スペースのカーテンが開いた瞬間、私はほんとうに息を止めた。
黒の執事服。
きっちりしたベスト。
白いシャツ。
細いタイ。
そして、全部を当たり前みたいに着こなしている恒星くん。
似合う、なんてものじゃなかった。
ずるいくらい、自然だった。
「うわ、やば」
「似合いすぎ」
「もうこれ採用じゃん」
クラスメイトたちの声が遠く聞こえる。
私はその場にちゃんと立っているはずなのに、ちょっと足元が危うかった。
だめだ。
これはだめだ。
学校で見せていい格好じゃない。
少なくとも私の心臓に対しては。
恒星くんが周囲の反応に少し困ったように笑う。
でもその笑い方まで執事服に合ってしまうのが最悪だった。
「……」
思わず視線を逸らした。
無理。
ちゃんと見たら本当に無理だ。
「朝比奈さん」
さっきの女子が、また楽しそうに言う。
「どう?」
「……え」
「一条くん、似合うよね?」
「……」
そこで黙ったら余計に怪しい。
でも、今の私は普通の顔で“そうだね”なんて言える状態ではなかった。
「……似合う、と、思う」
どうにかそれだけ言うと、女子は満足そうに笑った。
「だよねー」
だよね、じゃない。
そんな軽く済む破壊力ではない。
そのとき、不意に恒星くんと目が合った。
彼は一瞬だけ目を細める。
その表情には、たぶん少しだけ“分かってる”が混ざっていた。
――ああ、終わった。
たぶん今の私は、かなり分かりやすい顔をしている。
◇ ◇ ◇
試着が終わって、恒星くんが元の服に戻ったあとも、私はしばらく正常に戻れなかった。
資料を配る手が少し遅れる。
ペンを持つ指先に妙な力が入る。
ひまりがいない場でこれなのだから、いたら絶対にもっとひどかった。
片づけの途中、恒星くんが近くに来て小さく言った。
「栞」
「……何」
「今」
「……」
「だいぶ大変そう」
「……誰のせいですか」
小さく抗議すると、恒星くんは少しだけ笑った。
「俺?」
「そうです」
「そっか」
「……」
「でも、あの反応」
「……」
「かなり嬉しかった」
私は思わず資料の束を持ち直した。
そういうことを、こんな近い距離でさらっと言うのは本当にやめてほしい。
「……恒星くん」
「何」
「学校です」
「知ってる」
「文化祭準備中です」
「知ってる」
「……」
「でも」
少しだけ声を落とす。
「栞がああいう顔するの、好きだから」
その一言で、また心臓がだめになりそうになる。
好きだから。
好きな人が、ああいう格好をして。
しかも自分の反応まで好きだと言ってくる。
それはもう、どうしろというんだろう。
「……見すぎです」
「見てた」
「……」
「栞が、ちゃんと困ってたから」
「……ほんとに最悪」
「褒め言葉?」
「違います」
そう言ったのに、たぶん声にはちょっとだけ笑いが混ざっていた。
◇ ◇ ◇
片づけが終わって、校門を出る。
学校の外へ出た瞬間、空気が少しだけ変わる。
それだけで、私はようやくまともに息ができるようになった。
「……疲れた」
思わず本音がこぼれる。
「うん」
「何でそんな普通なんですか」
「何が」
「執事服」
「いや、試着しただけだけど」
「試着しただけであれは反則です」
そう言うと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「そんなに?」
「……」
「うん?」
私はしばらく黙って、それでも結局認めるしかなかった。
「……かなり」
小さく答えると、恒星くんがほんとうに嬉しそうに笑う。
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって本当に」
「……」
「栞、今日ずっと大変そうだった」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺?」
「そうです」
「そっか」
その“そっか”が、どうしようもなく機嫌のいい人の声で、私は思わずため息をついた。
でも、そのため息の奥に、少しだけ笑いが混じる。
困る。
恥ずかしい。
でも、嫌じゃない。
むしろ、ああいうふうに揺さぶられてしまう自分を、少しだけ好きになってきている。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「文化祭当日、本当にあれ着るかもしれない」
「……」
「どうする?」
その問いに、私は一瞬だけ言葉を失った。
どうする、って。
私が決めることじゃない。
でも、もし本当にあれを着るなら、文化祭当日の私はたぶんかなり大変なことになる。
「……理性を捨てないように頑張ります」
そう答えると、恒星くんは声を立てずに笑った。
「うん」
「笑わないでください」
「ごめん」
「全然ごめんって思ってない」
「うん」
「……」
「でも、そういう栞、かわいいから」
私はもう、それ以上何も返せなかった。
彼氏の執事服なんて、文化祭前に見せられたら理性がもちません。
そしてたぶん、これで終わりじゃない。




