第85話 文化祭準備で一緒になったら、放課後より甘くなるに決まってる
文化祭準備委員に追加で入ることになってから、学校の時間が少しだけ変わった。
授業が終わったあと。
クラスメイトがそれぞれ部活や帰り道へ散っていく時間に、私は恒星くんと同じ理由で校内に残る。
それだけのことなのに、不思議なくらい胸がそわそわした。
今までも、放課後は特別だった。
学校の外へ出た瞬間、空気が少しだけやわらかく変わって、名前の呼ばれ方すら甘くなる。
でも、文化祭準備はまた少し違う。
学校の中にいるのに、一緒にいられる理由がある。
そのことが、思っていた以上に危なかった。
「……だめだなあ」
朝、教室の自分の席に鞄を置きながら、私は小さくつぶやいた。
何がだめかというと、今日の放課後を、もう少し楽しみにしている自分がいることだ。
先生の目もある。
クラスメイトの視線もある。
だから堂々と甘くはできない。
でも、同じ準備委員として並んで作業するだけで、たぶん十分に嬉しい。
そう思ってしまっている時点で、もうかなり深いところまで来ている気がした。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、ひまりがすぐに私を見た。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は何」
「何が」
「“放課後、文化祭準備で一緒にいられるの楽しみです”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は思わずため息をついた。
どうしてこの親友には、こうも全部見えるんだろう。
「……そんなに分かる?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に座って、頬杖をつく。
「昨日の会議のあとから、ちょっと機嫌いいし」
「……」
「学校の中で一緒にいられる理由が増えたの、嬉しいんでしょ」
私は少しだけ視線を落とした。
図星だった。
「……うれしい」
「うん」
「でも」
「うん」
「危ない気もする」
「何が」
「だって」
私は小さく息をついた。
「放課後ってだけでも特別なのに」
「うん」
「そのうえ“ちゃんと一緒にいていい理由”まである」
「うん」
「それ、絶対ちょっと甘くなる」
ひまりは少しだけ笑った。
「なるね」
「即答」
「だって、ならないわけないじゃん」
あまりにも当然みたいに言われて、私は返す言葉をなくす。
「しかも」
ひまりが続ける。
「学校の中だから、逆にあんまり露骨にはできない」
「……」
「その“抑えてる感じ”が余計に危ない」
「……」
「完全に読者が好きなやつ」
「私の学校生活を勝手に読者目線で整理しないで」
そう言い返したものの、少しだけ笑ってしまった。
たしかに、そうなのだ。
今の私たちは、甘くなれるのに甘くしすぎられない場所にいる。
その微妙な距離が、余計に心を騒がせる。
◇ ◇ ◇
午前中、恒星くんはいつも通りだった。
でも、“文化祭準備で放課後また会う”という事実があるだけで、私の受け取り方が違ってしまう。
朝の挨拶。
プリントを回すときに一瞬だけ触れた指先。
休み時間に遠くから合った目。
それだけでも、今までより少しだけ意味が増える。
一時間目のあと、私は黒板消しを持って教卓の近くにいた。
そのとき、恒星くんがプリントの束を持って通りかかる。
「それ、こっち?」
「……うん」
たったそれだけのやり取り。
でも、“放課後また会う”が前提にあると、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
「今日」
恒星くんが小さく言う。
「……何」
「放課後、遅れないでね」
その一言に、胸がどくんと鳴った。
「……」
「文化祭準備」
彼が少しだけ口元をゆるめる。
「分かってます」
「うん」
「……その言い方、ずるいです」
「何が」
「なんか」
私はうまく言えなくて、黒板消しを持ち直した。
「待ち合わせみたい」
そう言ってしまってから、少しだけ後悔する。
でも、恒星くんは笑わなかった。
むしろ、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「うん」
「……」
「そう思ってた」
その返しに、私はもう何も言えなくなった。
学校の中だ。
でも、その学校の中で、放課後にまた会う約束をしている。
それはたしかに、少しだけ待ち合わせに似ていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私はひまりに、朝のその会話を話してしまった。
「無理」
ひまりは即座にそう言った。
「何が」
「“遅れないでね”はだいぶ強い」
「……」
「しかも一条くんが、でしょ?」
「……」
「それで“待ち合わせみたい”って思う栞もかなり強い」
私はお弁当箱の卵焼きを見つめた。
何かもう、最近ずっと心臓に悪い。
「……ねえ」
ひまりがストローをくるくる回しながら言う。
「何」
「放課後、たぶんもっとくるよ」
「何が」
「学校の中で一緒にいるのに、学校の外の空気になる感じ」
その表現が絶妙すぎて、私は少しだけ黙った。
たしかに、そんな気がする。
完全に二人きりじゃない。
でも、ただのクラスメイトでもない。
その曖昧な位置で、少しずつ恋人っぽい空気がにじむ。
それはたぶん、普通のデートよりずっと危ない。
◇ ◇ ◇
授業が全部終わって、放課後。
私はいつもより少しだけ急いで鞄をまとめていた。
教室の中にはまだ何人か残っている。
部活へ向かう人、友達と話している人、文化祭の話題で盛り上がっている人。
そのざわめきの中にいるのに、私の意識だけが“これから”へ向いていた。
「朝比奈さん」
クラスの女子に呼ばれて、私は振り向く。
「これ、準備委員の資料、持っていっていい?」
「あ、うん」
「ありがと」
そうやって普通に返しているあいだも、どこかで少しだけ気が急いている。
ひまりがそれを見て、にやっとした。
「早く行きたい顔」
「違う」
「違わない」
「……」
「行ってらっしゃい」
「何その言い方」
「いやあ、文化祭準備という名の放課後デート」
「ひまり」
「半分冗談、半分本気」
私はもう、それ以上何も言わず教室を出た。
◇ ◇ ◇
準備委員の作業場所は、特別教室の一つだった。
文化祭で使う看板やポスター、備品の確認表が机の上に広げられている。
すでに何人か来ていて、空気は思ったよりちゃんと“仕事”だった。
そこに少しだけ安心して、少しだけ拍子抜けする。
「あ、来た来た」
「朝比奈さん、こっちの表お願い」
「一条くんは備品チェック班で」
「分かりました」
私たちは自然に役割を振られて、それぞれの机へ向かう。
恒星くんは、少し離れたところでダンボールの中身を確認し始めた。
私は文化祭当日の当番表を整理する。
ちゃんと学校の仕事だ。
デートではない。
当たり前だけど。
でも、ふとした瞬間に目が合う。
すると向こうの口元が少しだけゆるむ。
それだけで、胸の奥がふっとあたたかくなる。
やっぱり、だめだ。
仕事をしていても、ちゃんと特別だ。
◇ ◇ ◇
一時間くらい経ったころ、委員の一人が言った。
「ポスター貼る位置、現地で見た方が早くない?」
「たしかに」
「じゃあ二人ずつで回る?」
その流れで、何となくペアが決まっていく。
そして、気づけば私と恒星くんが同じ廊下側の確認担当になっていた。
「……」
「行こうか」
恒星くんが言う。
「……うん」
並んで廊下を歩く。
学校の中。
まだ先生もいる時間。
でも、“文化祭準備”という理由があるだけで、こうして自然に並んでいられる。
それが、やっぱり少しだけ嬉しい。
「ここ」
私が壁を指差す。
「去年のポスター、たしかこの辺だった」
「うん」
「じゃあ今年も似た感じかな」
会話はちゃんと準備の話だ。
でも、足音の距離が近い。
放課後の静かな廊下が、その近さを余計に意識させる。
「ねえ」
恒星くんが小さく言う。
「何」
「今」
「……」
「学校の中なのに、ちょっとだけデートみたい」
私は思わず足を止めそうになった。
「……」
「同じこと思った?」
聞かれて、私はしばらく黙った。
でも、この人にはもうごまかしてもあまり意味がない。
「……少しだけ」
そう答えると、恒星くんが少しだけ笑った。
「やっぱり」
「……」
「でも、そういうの」
「うん」
「言わないでください」
「どうして」
「余計に意識するので」
「俺はしたい」
さらっと返されて、私は言葉をなくした。
学校の中だ。
文化祭準備中だ。
なのに、この人はこういうところだけちゃんと恋人の顔をする。
◇ ◇ ◇
廊下の端、ポスター位置の確認をしていたとき。
向こうから生活指導の先生が歩いてきた。
私は一瞬で背筋を伸ばした。
恒星くんも、何でもない顔に戻る。
でも、その“切り替え”が少しだけ悔しいくらい自然だった。
「お、準備委員か」
先生が言う。
「はい」
「しっかり頼むぞ」
「……はい」
それだけのやり取りで終わる。
でも、先生が通り過ぎたあと、私は小さく息を吐いた。
「……緊張した」
「うん」
「何か」
「うん」
「悪いことしてるわけじゃないのに」
「分かる」
恒星くんの声はやわらかかった。
「でも」
「うん」
「今の栞、ちょっと可愛かった」
「何で」
「急に“ちゃんと委員です”の顔になるから」
私は思わず恒星くんを見た。
からかわれているのに、声が甘い。
そのせいで怒りきれない。
「……恒星くん」
「何」
「文化祭準備中です」
「知ってる」
「……」
「でも、そういう栞を見る時間でもある」
その言葉に、私はまた胸がうるさくなった。
学校の中で、理由があって一緒にいる。
でも、その理由の隙間から、ちゃんと恋人の顔がのぞく。
やっぱり、放課後より甘くなるに決まってる。
◇ ◇ ◇
作業が終わって、ようやく校門を出るころには、もう空が少しだけ暮れ始めていた。
「疲れた?」
恒星くんが聞く。
「……少し」
「でも」
「うん?」
「楽しかった」
その一言に、恒星くんの表情がふっとやわらぐ。
「俺も」
「……」
「学校の中で、あんなふうに一緒にいられるの」
「……」
「思ってたよりだいぶ嬉しい」
私は少しだけ笑ってしまった。
「それ、私もです」
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
恒星くんが少しだけ目を細める。
「文化祭準備、これからもっと楽しくなるね」
その言葉に、私は小さく息を止めた。
これからもっと。
そうだ。
今日だけじゃ終わらないのだ。
準備は続く。
ということは、この危ない放課後も、まだ何回も来る。
「……」
「栞?」
「何でもないです」
「何でもない顔じゃない」
「……ちょっとだけ」
「うん」
「先が怖い」
そう言うと、恒星くんが少しだけ笑った。
「俺は楽しみ」
「それがずるいです」
「知ってる」
私は小さくため息をつきながら、でもちゃんと笑っていた。
文化祭準備で一緒になったら、放課後より甘くなるに決まってる。
そしてその予感は、たぶんもう外れない。




