第84話 恋人同士の噂は、先生の目だってごまかせない
“公認っぽい”。
その言葉を聞いてから、私は学校の空気を少しだけ違うものとして感じるようになっていた。
大げさな変化じゃない。
誰かに面と向かって何かを言われるわけでもないし、教室に入った瞬間にざわっと視線が集まるほどでもない。
でも、たしかにあるのだ。
目が合ったときの一瞬の笑い。
ひそひそと止まる会話。
そして、恒星くんと私の距離を、なんとなくみんなが知っているような空気。
それは前なら、すごく怖かったと思う。
でも今は、怖さだけではなかった。
恥ずかしい。
そわそわする。
どうしたらいいか分からなくなる。
でも同時に、“なかったこと”にはしたくない。
その気持ちが、私の中で少しずつ育っている。
だからこそ、次に来た“外側からの視線”は、クラスメイトよりも少しだけ重かった。
◇ ◇ ◇
その日の朝は、いつもより少しだけ慌ただしかった。
担任がホームルームで、文化祭準備の話を少し長めにしていたからだ。
教室の中は、文化祭という言葉だけで妙に浮つく。
模擬店とか、衣装とか、準備委員とか。
そういう単語には、高校生をちょっとだけ無敵にする何かがある。
「今年は例年より準備期間が短いからな」
担任が黒板の前でプリントを揺らす。
「委員になったやつらは、放課後に一回集まってくれ」
その声を聞きながら、私は何となく横の列に視線をやった。
恒星くんも、前を向いたままプリントを受け取っている。
その横顔を見るだけで、私の胸はまだ少しだけ落ち着かなくなる。
昨日の放課後に言われた、“今の、かなり好き”の余韻が、まだ胸のどこかに残っているからだ。
好きって、何度言われても慣れない。
でも、慣れないまま嬉しい。
「……」
そんなことを考えていたら、担任が急にこっちを見た気がして、私は慌てて顔を戻した。
「朝比奈」
「……はい」
「一条」
「はい」
「お前ら、あとで職員室来い」
え、と心の中で声が出た。
隣の列からも、わずかに空気が動いたのが分かる。
何で。
私たち二人だけ。
その瞬間、妙に教室の空気がざわついて感じられた。
ただの用事かもしれない。
でも、“朝比奈”のあとに“一条”が続いただけで、変に意味を持ってしまう今の状況が、少しだけ怖い。
ひまりが前の席で、振り向かないまま、ほんの少しだけ肩を揺らした。
たぶん、“落ち着け”の合図だ。
私は小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
ホームルームが終わったあと、私はできるだけ普通の顔をして立ち上がった。
でも、普通の顔ってこういうときどう作るんだろう。
教室を出るとき、恒星くんが少しだけ歩幅を合わせてくる。
学校の中だから距離は控えめだ。
けれど、その控えめな近さが今の私には逆にありがたかった。
「何だろう」
小さく私が言うと、恒星くんも少しだけ声を落とす。
「文化祭関係じゃない?」
「……かな」
「たぶん」
その声は落ち着いている。
だから私も少しだけ落ち着ける。
でも、職員室の手前で生活指導の先生が立っているのが見えた瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。
生活指導。
その肩書きは、どうしたって“怒られる”とか“注意される”とか、そういう想像を呼びやすい。
「失礼します」
恒星くんが先に声をかけて、私たちは職員室に入った。
担任と、生活指導の先生がいた。
そして、机の上には文化祭の委員名簿らしき紙が広がっている。
「二人とも、座らなくていい」
担任が言う。
「すぐ終わる」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
少なくとも、ものすごく重い話ではないらしい。
「今年の文化祭準備委員、クラスからもう一人追加で出したいんだが」
担任が紙を見ながら言う。
「朝比奈と一条、二人とも割と真面目に動くから」
そこで生活指導の先生が、私たちを見た。
私はその視線に少しだけ背筋を伸ばす。
「ただ」
先生が言う。
「校内での距離感には少し気をつけろ」
その一言で、喉の奥がすっと冷えた。
やっぱり。
そういうことだ。
「別に、何か決定的なことを見たわけじゃない」
先生は続けた。
「だが、最近ちょっと周りがざわついている」
「……」
「高校生なんだから恋愛自体を否定するつもりはない」
そこまで言ってから、先生は少しだけためを置く。
「でも、学校の中では学校の中の立場がある」
私は何も言えなかった。
怒鳴られているわけじゃない。
禁止だと言われたわけでもない。
でも、“見えている”とはっきり示されるだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
「文化祭は人も集まる」
担任が補足するように言う。
「余計な噂でやりにくくならないように、そこだけうまくやれ」
余計な噂。
その表現が少しだけ刺さる。
私たちにとっては余計ではない。
でも、学校という場所ではそう整理されるのだ。
「……分かりました」
先に答えたのは恒星くんだった。
落ち着いた声だった。
「気をつけます」
私は少し遅れて頷く。
「……はい」
先生たちはそれ以上何も言わなかった。
ただ、最後に担任が「文化祭準備、頼むぞ」と軽く言って、話は終わった。
◇ ◇ ◇
職員室を出て、廊下の角を曲がったところで、私は小さく息を吐いた。
思っていたより苦しかった。
別に悪いことをしたわけじゃないのに、“見えている”と言われるだけで、こんなに落ち着かなくなるなんて。
「栞」
恒星くんが静かに呼ぶ。
「……何」
「大丈夫?」
私はすぐには答えられなかった。
大丈夫じゃないわけじゃない。
でも、少しだけ痛かった。
私たちのことが、恋人としてどうこう以前に、“校内での距離感”として管理される対象になったことが。
「……ちょっとだけ」
「うん」
「刺さった」
正直にそう言うと、恒星くんは少しだけ目を伏せた。
「ごめん」
「何で」
「たぶん、俺が分かりやすすぎた」
その言い方が、あまりにも真面目で、私は思わず少しだけ笑ってしまった。
「……それは、否定しないです」
「うん」
「でも」
私は深呼吸してから続ける。
「私も、前より顔に出てると思う」
「……」
「だから、どっちかだけのせいじゃない」
そこまで言うと、恒星くんは私を見た。
少しだけ驚いたみたいに。
「……そっか」
「うん」
「栞、最近ちゃんと“二人のこと”で考えるね」
その言い方に、私は少しだけ胸の奥が熱くなった。
前の私は、こういうときすぐ“私なんかが”に寄っていたと思う。
でも今は、少しだけ違う。
これは私たち二人のことなのだと、前より自然に思える。
「でも」
私は言う。
「やっぱり、学校って難しい」
「うん」
「恋人だからって、どこでも同じようにはできない」
「……」
「でも、だからって」
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「全部なくしたいわけじゃない」
恒星くんはすぐに頷いた。
「うん」
「俺も」
「……」
「そこは一緒」
その返事が、今の私には何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
昼休み、私はひまりにその話をした。
「うわ、来たか」
ひまりが眉を上げる。
「先生ルート」
「……うん」
「でもまあ、早いか遅いかだけで、来るとは思ってた」
彼女はストローを指先で回しながら続ける。
「で?」
「何」
「どうだった」
私は少しだけ目を伏せた。
「怒られたわけじゃない」
「うん」
「でも」
「うん」
「学校の中では、やっぱり“気をつける対象”なんだなって」
「……」
「ちょっとだけ、現実だった」
ひまりは少しだけ黙ってから、やわらかく言った。
「そりゃそうだよ」
「……」
「学校ってそういう場所だもん」
「うん」
「でもさ」
ひまりがこちらを見る。
「それで終わりじゃないでしょ?」
私は小さく首を振った。
終わりじゃない。
たしかに少し苦しかった。
でも、それで恒星くんとの距離をなかったことにしたいとは思わなかった。
「……前よりは」
私は小さく言う。
「うん」
「そういう現実も込みで、考えられてる気がする」
「おお」
「何」
「前進」
「またそれ」
「いやでもほんとに」
ひまりは笑った。
「“見られてる”“注意された”で即終了しない」
「……」
「恋人としてちゃんと地面に降りてきてる感じ」
その言葉は少しだけ照れくさい。
でも、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わって、放課後。
文化祭準備委員の追加メンバーとして、私と恒星くんは一緒に呼ばれた。
会議室に行くと、既に何人か生徒が集まっている。
文化祭のパンフレット案、出し物の進行表、係分担。
学校独特の、少しざらついた忙しさがそこにあった。
「朝比奈さん、こっちの表まとめてもらっていい?」
「……はい」
「一条くんはポスター班と確認お願い」
「分かりました」
仕事が始まると、少しだけ気持ちが落ち着く。
やることがはっきりしている方が、余計なことを考えなくて済むからだ。
でも、会議が半分ほど進んだころだった。
「そういえば」
委員の一人の女子が、何気ない顔で言った。
「文化祭って、仮装接客とかもありだよね?」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「え、いいじゃん」
「メイドとか執事とか?」
「うちのクラス、似合いそうな人いるし」
そんな会話が広がっていく。
私は何となく顔を上げてしまって、そこで恒星くんと目が合った。
そしてその瞬間、会議室の向こう側で誰かが笑い混じりに言う。
「一条くんとか、絶対執事似合うじゃん」
そのひと言に、場が少しだけ盛り上がる。
私は何も言っていないのに、心臓だけが変に跳ねた。
文化祭。
仮装。
執事。
その単語だけで、嫌な予感と、少しだけ別の意味の落ち着かなさが同時に来る。
きっとひまりなら、こういうのを“読者が喜ぶやつ”とか言うのだろう。
そして、私の予感はたぶん外れない。
◇ ◇ ◇
会議が終わって外へ出ると、空はもう夕方だった。
恒星くんが隣に並ぶ。
今日は少しだけ疲れたけれど、隣にその気配があるだけで、変に安心する自分がいた。
「文化祭」
恒星くんが言う。
「うん」
「一緒になったね」
「……うん」
「嫌だった?」
私は少しだけ首を振った。
「嫌じゃない」
「そっか」
「むしろ」
「うん?」
「学校の中で、一緒にいる理由が増えるのは」
「……」
「少しだけ、うれしい」
そう言うと、恒星くんの表情がふっとやわらいだ。
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって本当に」
私は少しだけ笑いながら、でも胸の奥があたたかくなるのを感じた。
学校の中では気をつけなきゃいけない。
先生の目もある。
噂だって広がる。
でも、文化祭準備という“理由”があれば、今までより自然に近くにいられる。
それはきっと、今の私たちにとって悪いことじゃない。
「でも」
恒星くんが続ける。
「執事はちょっと嫌かも」
「え」
「どうして」
私が思わず聞くと、彼は少しだけ目を細めた。
「栞が絶対、困る顔するから」
その返事に、私は一瞬で言葉を失った。
図星だった。
たぶん、すごく困る。
そして、すごく見たい。
「……」
「その顔」
「何」
「もう困ってる」
そう言われて、私は少しだけ顔を背けた。
文化祭準備で一緒になったら、放課後より甘くなるに決まってる。
そしてその気配は、もう始まりかけている気がした。




