第83話 “公認っぽい”なんて言われるだけで、恋はまた秘密じゃなくなる
頬にキスをした翌朝の余韻は、思っていたより長引いた。
――いや、長引いたというより。
たぶん私は、昨日までと少しだけ違う場所へ来てしまったのだと思う。
自分から触れたこと。
それを恒星くんが、あんなふうに嬉しそうに受け取ってくれたこと。
その記憶が、ただ甘いだけじゃなく、ちゃんと“今の私たちの関係”として胸に残っている。
だからこそ、学校で向けられる視線の意味も、前より少しだけ重くなった。
これまでは“なんとなく仲がいい”とか、“最近距離が近い”くらいだったかもしれない。
でも今は違う。
私の中でこの恋が深くなったぶん、外から見える輪郭まで少しはっきりした気がしてしまうのだ。
「……考えすぎかな」
朝の登校途中、私はそうつぶやいた。
でも、今日はそれがただの考えすぎでは終わらない気がしていた。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、空気が少しだけざわついていた。
何か大きな事件が起きているわけじゃない。
でも、女子たちの小さな笑い声とか、視線の集まり方とか、そういうものがいつもより少しだけまとまっている感じがする。
「……」
私は一瞬だけ立ち止まりそうになって、それから何でもない顔をして自分の席へ向かった。
ひまりが、私の顔を見た瞬間に少しだけ眉を上げる。
「おはよ」
「……おはよう」
「来たね」
「何が」
「“公認っぽさ”」
私は鞄を机に置く手を止めた。
「……え」
「いや、まだ完全にではないけど」
ひまりは前の席に座って、頬杖をつく。
「今日の空気、昨日より一段進んでる」
「……そんなに?」
「そんなに」
彼女はあっさり頷いた。
「何かあったの?」
小さく聞くと、ひまりは少しだけ肩をすくめる。
「朝、私が来たときにね」
「うん」
「女子何人かが、“もうあの二人、ほぼ公認じゃない?”って話してた」
その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。
公認。
その単語が、胸の真ん中に落ちる。
付き合ってるの? ではない。
最近近いよね? でもない。
ほぼ公認。
それは、秘密が秘密のままではいられない段階に入った、という意味に近かった。
「……」
「びっくりした?」
ひまりが聞く。
私はすぐには答えられなかった。
びっくりした。
たしかに。
でも、それだけじゃない。
恥ずかしい。
そわそわする。
逃げたくなる気持ちも少しある。
でも、そこに前ほど強い拒絶はなかった。
「……どうしよう」
ようやく出たのは、そんな弱い言葉だった。
「うん」
「何か」
「うん」
「もう、秘密のままって感じじゃない」
そう言うと、ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「そりゃね」
「……」
「一条くんの顔、めちゃくちゃ分かりやすいし」
「……」
「栞も前よりだいぶ顔に出るし」
「……」
「それで昨日の余韻まで乗ってるなら、そりゃ“公認っぽい”って言われる」
あまりにも冷静な分析で、私は返す言葉をなくした。
でも、ひまりの言うことはたぶん正しい。
私はもう、完全に“何もありません”の顔なんてできない。
恒星くんの方も、たぶんする気がない。
「……嫌?」
ひまりが、少しだけ声をやわらげて聞く。
私はその問いに、しばらく黙った。
嫌じゃない。
でも、怖くないわけでもない。
秘密みたいに大事にしていたものが、少しずつみんなの知るものになっていく感じ。
それはやっぱり、少しだけ落ち着かない。
「……まだ、慣れない」
小さく言うと、ひまりは頷いた。
「うん」
「でも」
「うん」
「前よりは、逃げたくない」
そこまで言えた自分に、私は少しだけ驚いた。
そうだ。
前の私なら、こういう空気そのものから逃げたくなっていたと思う。
でも今は、“どうしよう”とは思っても、“なかったことにしたい”とは思わない。
「それなら大丈夫」
ひまりが言う。
「何が」
「ちゃんと前に進んでるってこと」
その言葉を、私は少しだけ胸の中で繰り返した。
◇ ◇ ◇
ホームルーム前。
教室の扉が開いて、恒星くんが入ってくる。
その瞬間、女子たちの会話がほんの少しだけゆるむのを感じた。
露骨ではない。
でも、見ている人は見ている、そんな空気。
私は反射的に恒星くんを見る。
目が合う。
その瞬間だけ、彼の目元がやわらぐ。
――ああ、これだ。
たぶん、こういう一瞬なのだ。
“公認っぽい”と言われる理由は。
恒星くんは席に鞄を置いてから、いつものようにこっちへ来る。
でも今日は、その数歩のあいだに、自分が見られている感覚が前より強かった。
「おはよう」
「……おはよう」
私が返すと、恒星くんは少しだけ首をかしげる。
「今日、なんか違う」
「……何が」
「周りの空気」
私は思わず目を見開いた。
やっぱり、この人も気づくのだ。
「……うん」
小さく答えると、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「何か言われた?」
「……」
「栞?」
私は少しだけ視線を落として、それから正直に言った。
「……公認っぽい、って」
その言葉を聞いた瞬間、恒星くんは一拍だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「そっか」
「……うん」
「嫌だった?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
嫌じゃない。
でも、恥ずかしい。
その両方がまだうまく整理できない。
「……びっくりした」
ようやくそう言うと、恒星くんは小さく頷いた。
「うん」
「でも」
「うん?」
「前みたいに、全部なかったことにしたいとは思わなかった」
そこまで言った瞬間、恒星くんの表情がふわっとほどけた。
「……そっか」
「うん」
「それ、すごくうれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私は少しだけ息を吐いた。
この人は、こういうときに変に気を遣って逃がしたりしない。
でも、無理に“平気だよね”とも言わない。
ただ、私の変化をうれしいと言ってくれる。
そのことが、今日の私にはありがたかった。
◇ ◇ ◇
二時間目の休み時間、私はプリントを持って廊下へ出た。
歩いている途中で、向こうからクラスの女子二人が来る。
そのうち一人が、少しだけ気まずそうに笑った。
「あ、朝比奈さん」
「……うん」
「さっきごめんね」
「え」
「いや、別に悪口とかじゃないから」
私は一瞬だけ意味が分からず、でもすぐに察した。
さっきの“公認っぽい”の話だ。
「……」
「なんか、最近いい感じだなって」
その子は悪意なく言う。
「お似合いっていうか」
私は一瞬、何も返せなかった。
お似合い。
その言葉は、いまだに私には少し重い。
でも前みたいに、“そんなわけない”と心の中で即座に否定する感じも薄れていた。
「……ありがとう」
気づけば、私はそう返していた。
女子二人の方が少しだけびっくりした顔をする。
「ううん」
「じゃ、また」
彼女たちはそのまま行ってしまった。
私は廊下の真ん中で立ち尽くしそうになって、それから小さく息を吐いた。
“ありがとう”なんて。
前なら、絶対に言えなかった。
でも、今の私は少しだけ違う。
恥ずかしくても、まんざらでもない。
その変化を、自分ではっきり感じた。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりにそのことを話すと、案の定かなり大きく反応された。
「え、待って」
「何」
「“ありがとう”って言ったの?」
「……うん」
「栞が?」
「……」
「すご」
「そんなに?」
「そんなに」
ひまりは本気で感心した顔になる。
「前だったら絶対、しどろもどろになって終わってた」
「……」
「しかも“お似合い”に対してでしょ?」
「……」
「それ、かなりでかい前進」
私は少しだけ目を伏せた。
自分でも、そう思う。
完全にはまだ受け止めきれない。
でも、受け取ろうとする自分がいる。
「……ねえ」
私は言う。
「何」
「これ、たぶん、この先もっと増えるよね」
「うん」
「……」
「でもまあ、避けられないと思う」
ひまりはストローをくるくる回しながら続ける。
「一条くんも栞も、もう“ちょっと距離が近い”の域は越えてるし」
「……」
「だったら、どう見られるかじゃなくて、どういたいかで決めた方がいい」
私はその言葉に小さく頷いた。
どう見られるか。
それを気にしすぎると、また自分を見失う。
大事なのは、私たちがどういたいかだ。
それを、最近ようやく少しずつ分かり始めている。
◇ ◇ ◇
放課後。
校門を出たところで、恒星くんがいつものように私の隣へ並んだ。
学校の外へ出た瞬間、少しだけ距離がやわらかくなる。
その変化が、今日はいっそう愛おしかった。
「今日」
恒星くんが言う。
「うん」
「ありがとう、って言ったんだって?」
私はびっくりして顔を上げた。
「何で知ってるんですか」
「廊下の端にいた」
「……」
「聞こえた」
私は顔が熱くなるのを感じた。
最悪だ。
でも、恥ずかしさの中に、変な後悔はなかった。
「……言った」
観念して認めると、恒星くんは少しだけ目を細める。
「うれしかった」
「またそれ」
「だって」
「……」
「栞が、お似合いって言葉から逃げなかったんでしょ」
その指摘は、あまりにも正確だった。
そうだ。
私は今日、逃げなかった。
まだ自信満々ではない。
でも、否定しなかった。
「……少しだけ」
私は小さく言う。
「何」
「前より、受け取れるようになったかも」
「うん」
「恥ずかしいのは変わらないけど」
「うん」
「でも」
私は少しだけ笑った。
「秘密じゃなくなるのが、前みたいに嫌じゃない」
その言葉に、恒星くんはしばらく黙っていた。
それから、本当に嬉しそうに笑った。
「……だめだ」
「何が」
「今の、かなり好き」
「そういうのすぐ言う」
「本当だから」
私は少しだけ視線を逸らしたけれど、ちゃんと笑えていたと思う。
“公認っぽい”なんて言われるだけで、恋はまた秘密じゃなくなる。
でも、その変化はもう、私にとって怖いだけのものではなかった。
恥ずかしい。
落ち着かない。
それでも、この恋を外の世界の中で少しずつ持てるようになってきている。
そのことが、今日は少しだけ誇らしかった。




