第82話 彼氏に頬キスした翌朝、もう普通の顔では学校へ行けません
翌朝、私は目が覚めた瞬間に布団を頭までかぶった。
「……むり」
最近そればっかり言っている気がする。
でも今日の“むり”は、かなり具体的だった。
昨日。
私は、自分から。
恒星くんの頬に。
キスをした。
思い出した瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。
いや、熱くなるどころではない。
心臓が、ちゃんと生きているか確認したくなるくらいうるさい。
「何であんなことしたんだろう……」
小さくつぶやいてから、私はすぐに首を振った。
違う。
したくなかったわけじゃない。
むしろ、したかったのだ。
澄香さんに会って。
自分の口で“それでも隣にいたい”と言えて。
そのあと、恒星くんが迎えに来てくれて。
抱きしめられて。
頑張ったね、と言われて。
あの流れの中で、何かひとつ、自分から返したくなった。
それで、頬にキスをした。
だから、後悔はしていない。
していないけれど。
「……今日、どういう顔して会えばいいの」
それが分からない。
恒星くんは絶対、覚えている。
というか、あの人が忘れるわけがない。
しかも、かなり嬉しそうだった。
最後の、あの困ったみたいに幸せそうな顔を思い出すだけで、私はまた枕に顔を押しつけたくなる。
頬。
自分のじゃない。
恒星くんの頬。
そこに、自分から触れた。
「……ほんとにむり」
もう一度つぶやいてから、私はようやく布団をめくった。
逃げるわけにはいかない。
今日は学校があるし、当然、恒星くんもいる。
会わないわけにはいかないのだ。
◇ ◇ ◇
洗面所で顔を洗っても、まるで落ち着かなかった。
眼鏡をかけて。
髪を整えて。
制服のリボンを結んで。
鏡の中の私は、見た目だけならいつもの私だ。
でも、中身が全然いつもじゃない。
昨日までの私は、“される側”で慌てていた。
今日は違う。
自分からした側だ。
その違いは、とんでもなく大きかった。
「栞ー」
母の声が下からする。
「朝ごはん冷めるわよー」
「今行くー」
食卓につくと、母が私の顔を見てすぐに言った。
「今日はまた、すごい顔してる」
「何その言い方」
「赤くなりそうなのを必死で抑えてる顔」
「お母さん」
父まで新聞の向こうから顔を出す。
「昨日なんかあったな」
「何で」
「分かる」
私は味噌汁の椀を持ったまま、少しだけうつむいた。
家族にまでそんなに分かりやすいのか。
だとしたら、学校で恒星くんに会ったら、たぶん一瞬で見抜かれる。
「……今日は静かに過ごしたい」
小さく言うと、母が楽しそうに笑った。
「それ、たぶん無理な日ね」
「何で」
「顔に出てるから」
私はそのまま何も言えなくなった。
たぶん母は正しい。
今日は、静かには過ごせない。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、ひまりが私を見た瞬間に、盛大に顔をしかめた。
いや、しかめたというより、笑いをこらえて失敗しかけた顔だった。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい、来ました」
「何が」
「“昨日、彼氏に自分から頬キスした女子高生”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置いて、深くため息をついた。
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
「何で」
「顔が昨日のままだから」
ひまりは前の席に座って、頬杖をつく。
「で?」
「何」
「寝れた?」
「……あんまり」
「だよね」
「何で」
「その顔」
全部それで片づけられている気がする。
でも、否定できないのが悔しい。
「……ひまり」
「何」
「普通に接する方法を教えて」
「無理」
「即答」
「だって、あの一条くん相手に“自分から頬キスした翌朝”でしょ?」
「……」
「普通でいられる方が怖い」
それは、たしかにそうかもしれない。
「しかも」
ひまりがにやっとする。
「今日の一条くん、絶対機嫌いいよ」
「……」
「たぶん朝からずっと思い出してる」
「ひまり」
「何」
「やめて」
「でも事実でしょ」
私は机に突っ伏したくなった。
それは本当に事実な気がする。
そして、その事実が私の心臓に悪すぎる。
「……ねえ」
ひまりが少しだけやわらかい声になる。
「何」
「嫌じゃないんでしょ」
私は黙った。
それから、小さく答える。
「……嫌じゃない」
「うん」
「むしろ」
「うん」
「かなり引きずってる」
ひまりは机に額をぶつけそうな勢いで笑いをこらえた。
「無理。今日も糖度高い」
「何で」
「その状態で学校来てるのがまず強い」
私はもう反論する気力もなかった。
◇ ◇ ◇
ホームルーム前。
教室の入り口が少しだけざわつく。
私は反射みたいに顔を上げて、すぐに後悔した。
恒星くんがいた。
いつも通り整っていて、いつも通りきれいで。
でも、目が合った瞬間だけ、その表情がはっきり変わった。
やわらぐ、なんてものじゃない。
明らかに嬉しそうだった。
「……っ」
私は一瞬で視線を逸らした。
だめだ。
あの顔はだめだ。
昨日のことを全部分かった上で、しかもかなり嬉しい側の顔をされると、本当に無理だ。
でも、恒星くんは当然みたいにこっちへ来る。
「おはよう」
「……お、おはよう」
声が少しだけ上ずった。
終わった、と思った。
絶対に気づかれている。
恒星くんは私の机のそばで立ち止まって、少しだけ首をかしげる。
「今日」
「……何」
「分かりやすすぎる」
「……」
「昨日のこと、引きずってる顔」
私は思わず眼鏡の位置を直した。
図星だった。
「……恒星くん」
「うん」
「朝からそれ禁止です」
「どうして」
「心の準備が」
「ごめん」
そう言いながら、全然反省していない顔をしている。
「……」
「でも」
「何」
「俺だけじゃなかった」
その声が少しだけ低くて、私は一瞬だけ息を止めた。
「……」
「昨日のこと」
「……」
「栞もちゃんと引きずってるんだって分かって」
「……」
「かなり嬉しい」
私はもう、本当に顔を上げられなかった。
やっぱりそうだ。
この人、絶対に今日一日ずっと昨日のことを思い出してる。
「……っ」
「栞?」
「……無理」
「何が」
「朝から強すぎます」
そう返すと、恒星くんは少しだけ困ったように笑った。
「抑えてるつもりなんだけど」
「抑えてないです」
「ばれた?」
「かなり」
そのやり取りだけで、胸がいっぱいになる。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
困るくらい嬉しいのだ。
それがまた困る。
◇ ◇ ◇
一時間目が終わったあと、私はプリントを持って廊下へ出た。
教室の中にいると、ひまりにも恒星くんにも顔を読まれすぎて、少しだけ呼吸が苦しかったからだ。
でも、逃げた先の廊下でも、すぐに見つかる。
「栞」
後ろから呼ばれて、私は小さく肩を揺らした。
振り返ると、恒星くんがいた。
「……何」
「逃げた?」
「……少し」
「そっか」
怒らない。
ただ、少しだけ笑っている。
それが余計にずるい。
「ねえ」
恒星くんが声を落とす。
「何」
「昨日のこと」
「……」
「今朝から何回思い出した?」
私は本気で固まった。
「……何でそんなこと聞くんですか」
「気になるから」
「……」
「俺はかなり思い出してる」
あまりにも正直で、私はもう何も言えなくなる。
「……」
「栞は?」
聞かれて、私はしばらく黙った。
でも、嘘はつけない。
「……いっぱい」
小さくそう答えると、恒星くんが一瞬だけ息を止めた。
それから、ほんとうにうれしそうに目を細める。
「……だめだ」
「何が」
「今の、かなり効いた」
「……」
「昨日の栞」
「……」
「何回思い出しても嬉しい」
私は思わず顔を逸らした。
廊下だ。
学校だ。
なのに、この人は平然とそういうことを言う。
「……恒星くん」
「何」
「ほんとに」
「うん」
「今日、すごく機嫌いいですよね」
「うん」
「認めるんですね」
「だって、昨日のことあるし」
その返しがあまりにも当然みたいで、私は完全に負けた気分になった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
ひまりとお弁当を食べながら、私はもう一度深くため息をついた。
「はいはい」
ひまりが言う。
「今日の一条くん、完全にご機嫌なんでしょ」
「……うん」
「だよね」
「何か」
「うん」
「ずっと嬉しそう」
「そりゃそうでしょ」
「何で」
「彼女から自発的に頬キスもらった翌日だよ?」
言い直されると、余計に恥ずかしい。
私はお弁当箱の隅を見つめるしかなかった。
「……」
「で?」
「何」
「栞は嫌じゃない」
「……うん」
「でも、恥ずかしすぎる」
「……うん」
「でも、あの反応見たら」
「うん」
「ちょっと、してよかったとも思う」
そこまで言うと、ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「いいじゃん」
「……」
「そうやって少しずつ、栞の方からも渡せるようになってる」
その言葉に、私は小さく頷いた。
そうだ。
怖いし、恥ずかしい。
でも、もう私は“されるだけ”じゃない。
自分から触れたいと思うことが増えてきている。
それはたぶん、昨日までの私より大きな変化だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
学校の外へ出た瞬間、恒星くんの空気が少しだけやわらかく変わる。
それを感じるだけで、私の胸も少しだけ落ち着いた。
「……今日」
私が小さく言う。
「うん」
「ずっと楽しそうだった」
「うん」
「否定しないんですね」
「しない」
恒星くんは少しだけ笑う。
「だって、本当に嬉しかったから」
「……」
「今も」
私はまた少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「……そんなに?」
「そんなに」
「……」
「栞が、自分からしてくれたの」
「……」
「思ってたより、ずっとだめだった」
「何が」
「理性」
私はもう、言葉をなくした。
でも、その“だめ”が嬉しい意味なのも分かるから困る。
「……恒星くん」
「何」
「昨日のこと」
「うん」
「一生分は引きずらないでください」
「無理かも」
「即答」
「だって、たぶん一生覚えてる」
その一言に、私は立ち止まりそうになった。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ、そんなふうに大事にされることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ずるい」
小さく言うと、恒星くんが少しだけ近づく。
「何が」
「そういうこと、さらっと言うとこ」
「本当だから」
「……」
「栞」
「何」
「またして」
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
でも、次の瞬間、意味に気づいて顔が熱くなる。
「……むりです」
「即答なんだ」
「今はほんとに無理です」
「そっか」
恒星くんは少しだけ笑って、それ以上は言わなかった。
でも、その笑い方は、待っている人の顔だった。
急かさない。
でも、嬉しかったから、また欲しいと思っている。
それが分かるから、余計に心臓が落ち着かない。
私は小さく息を吐いた。
たぶん今日の私は、まだ昨日の余韻の中にいる。
でも、その余韻は苦しいだけじゃなかった。
ちゃんと幸せで、ちゃんと甘い。




