第81話 恋人のままじゃ足りない夜が、少しずつ増えていく
カフェを出たあと、私はすぐに恒星くんへメッセージを送った。
『終わった』
返事は一瞬で来た。
『今どこ?』
『駅前』
『迎えに行く』
その短いやり取りだけで、少しだけ胸があたたかくなる。
今日は、ちゃんと自分で一歩進めた。
だからその先で、恒星くんに会いたかった。
◇ ◇ ◇
夕方の駅前。
人の流れの向こうに、恒星くんの姿が見えた瞬間、私は少しだけほっとした。
彼はこちらへ真っ直ぐ歩いてくる。
目が合う。
その表情には、心配と、会えたことへの安心と、いろんなものが混ざっていた。
「お疲れさま」
「……うん」
「どうだった?」
私は少しだけ迷った。
でも、今日はちゃんと全部話したかった。
「……怖かった」
「うん」
「でも」
「うん」
「行ってよかった」
その言葉に、恒星くんの表情がふっとやわらぐ。
「そっか」
「うん」
「ちゃんと話せた?」
「……うん」
「何を」
私は歩きながら、少しずつ澄香さんとの会話を話した。
恋敵じゃないと言われたこと。
覚悟を見られていたこと。
怖いけれど、隣にいたいと答えたこと。
そして、“強いのね”と言われたことまで。
全部話し終わるころには、駅前の雑踏も少し遠く感じられた。
恒星くんはしばらく黙っていた。
でも、その沈黙はちゃんと受け取っている沈黙だった。
「……栞」
「何」
「すごい」
「何が」
「今日のこと」
「……」
「ひとりで行って」
「……」
「ちゃんと自分の言葉で言って」
「……」
「戻ってきて、今こうして話してくれてる」
そのひとつひとつを数えるような言い方に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……」
「俺」
「うん」
「今、かなり好きが更新されてる」
「……最近そればっかり」
「でも本当に」
そこで、私は少しだけ笑ってしまった。
この人はほんとうに、そういうところが変わらない。
◇ ◇ ◇
駅から少し離れた、人通りの少ない道に入ったところで、恒星くんが立ち止まった。
「栞」
「何」
「来て」
そう言われて、一歩近づく。
次の瞬間、やわらかく抱きしめられた。
少し強い。
でも、苦しくない。
むしろ、今日一日の緊張がその腕の中で少しずつほどけていく感じがした。
「……頑張ったね」
耳元でそう言われて、私は少しだけ目を閉じた。
「……うん」
「逃げなかった」
「……うん」
「えらい」
「……」
「ありがとう」
その“ありがとう”に、私は少しだけ喉の奥が熱くなる。
守られてきたと思っていた。
でも今日、少しだけ違った。
私も、自分の足でこの恋を守ろうとしたのだ。
「……恒星くん」
「何」
「私」
「うん」
「まだ、こわいことはある」
「うん」
「でも」
私は腕の中で小さく言う。
「恋人のままじゃ、足りない気がしてきた」
その瞬間、恒星くんの腕がほんの少しだけ強くなった。
「……それ」
「……」
「かなり危ない」
「何が」
「理性」
私は思わず少しだけ笑ってしまう。
「……そういうの、今言います?」
「だって本当だから」
「……」
「でも」
彼は少しだけ身体を離して、私を見る。
「俺も同じこと思ってた」
その言葉に、胸がまたぎゅっとなる。
恋人のままじゃ足りない。
それは、今すぐ何かを急ぐという意味じゃない。
でも、ただ付き合っているだけでは収まらないくらい、お互いの存在が深くなってきているということだ。
「……」
「栞」
「何」
「これからも、ちゃんと一緒に進もう」
私は小さく頷いた。
「……うん」
「怖いことが来ても」
「うん」
「そのたび、一緒に」
「……うん」
その約束は、今までのどの“好き”より少しだけ未来に近い気がした。
◇ ◇ ◇
別れ際。
今日は私の方から、一歩だけ近づいた。
「……栞?」
恒星くんが少しだけ驚いた顔をする。
でも、その驚きが嬉しさに変わるのはすぐだった。
私は少しだけ背伸びをして、彼の頬に、やわらかくキスをした。
「……っ」
今度固まったのは恒星くんの方だった。
私は顔が熱いまま、小さく言う。
「……今日のお返しです」
その一言のあと、数秒の沈黙。
それから、恒星くんがほんとうに困ったように、でも幸せそうに笑った。
「……だめだ」
「何が」
「今日、一生忘れない」
「それ、最近多いです」
「でも本当に」
私はもう顔を上げられなかったけれど、心の中はふしぎなくらい満たされていた。
恋人のままじゃ足りない夜が、少しずつ増えていく。
たぶんそれは、恋がただ甘いだけのものから、同じ未来へ歩いていくものへ変わり始めているからだ。
そして私は今日、その未来へ向かう一歩を、自分から踏み出せた気がした。




