第80話 それでも隣にいたいと答えた瞬間、私は少しだけ変わった
湯呑みの湯気が、静かに立ち上っていた。
私はその白い揺れを見ながら、自分の鼓動を整えようとした。
澄香さんの問いは、たぶん正しかった。
そして、痛かった。
私は何度も怖がってきた。
家のこと。
世界の違い。
未来のこと。
でも、そのたびに恒星くんは逃げなかった。
だったら、今度は私が答える番だ。
「……怖いです」
私はゆっくり言った。
澄香さんは何も挟まない。
「正直に言うと」
「……」
「今も、まだ」
「……」
「あなたみたいな人を見ると、私はやっぱり場違いなんじゃないかって思う」
そこまで言って、少しだけ息を吸う。
「でも」
「……」
「それでも」
私は顔を上げた。
「隣にいたいです」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が少しだけ震えているのが分かった。
「……」
「完璧に平気なわけじゃない」
「……」
「家のことも、未来のことも、たぶんまだ全部分かってない」
「……」
「でも」
私はもう一度言う。
「怖いからやめるんじゃなくて」
「……」
「怖くても、逃げたくない」
カフェの静かな空気の中、その言葉だけが少し重く落ちた。
澄香さんはしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じられて、私は湯呑みに触れていた指先に少しだけ力を入れる。
やがて、彼女はふっとやわらかく笑った。
「そう」
「……」
「あなた、思っていたより強いのね」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
強い。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
私はただ、怖くても逃げたくないと言っただけなのに。
「……強くないです」
小さく返すと、澄香さんは首を振った。
「いいえ」
「……」
「強い人って、最初から怖くない人のことじゃないもの」
その言葉が、胸に静かに落ちる。
「怖いって分かっていて」
「……」
「それでも隣を選ぶ人は、十分強いわ」
私は何も言えなかった。
でも、胸の奥で何かが少しだけほどけるのを感じた。
ああ、と思う。
私はここに来てよかったのかもしれない。
怖かったけれど。
でも、自分の言葉で言えたから。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、澄香さんは少しだけ目を細めた。
「恒星は」
「……」
「昔から、ああいうふうに本気になると周りが見えなくなるの」
「……」
「だから、たぶんあなたをかなり本気で好きよ」
その言い方に、私は少しだけ頬が熱くなった。
「……」
「だからこそ」
澄香さんは立ち上がりながら言う。
「逃げないでいてあげて」
私はしっかり頷いた。
「……はい」
「なら、もう十分」
そう言って、彼女は静かに会計を済ませに行った。
私はその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
怖さが全部消えたわけじゃない。
でも、自分で“それでも隣にいたい”と口にしたことで、昨日までの私より少しだけ変われた気がした。




