第77話 “きれいだった”の一言が、今まででいちばん深く刺さる夜
その夜、私はベッドの上で何度も「きれいだった」の一言を思い出していた。
可愛い、は何度も言われてきた。
うれしい、もたくさんもらってきた。
好きだよ、も何度も聞いた。
でも、“きれいだった”は少し違う。
それは今日の私の服装だけを指していたわけじゃない。
怖くても戻ったこと。
逃げたくても、隣に立つ方を選んだこと。
そういう全部を含めて、きれいだと言われた気がした。
「……ずるい」
小さくつぶやいて、私は枕に顔を埋める。
こういうところだ。
この人はいつも、私がいちばん報われたい場所に言葉を落としてくる。
しかも、そのあと。
帰り際に抱きしめられた腕の強さが、いつもより少しだけ強かった。
苦しくはない。
でも、“今日の私を離したくない”みたいな感情がそのまま伝わってくるくらいには強かった。
思い出すだけで、胸が熱い。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室に入った瞬間、ひまりが盛大にため息をついた。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい来ました」
「何が」
「昨日、完全に落とされた顔」
「ひまり」
「だってその顔」
私は鞄を置いて、少しだけ視線を逸らした。
図星だった。
「……言われた」
「何を」
「きれいだった、って」
そこまで言うと、ひまりは机に突っ伏した。
「無理」
「何で」
「それ最強じゃん」
「……」
「しかも一条くんでしょ?」
「……」
「で?」
「何」
「どういう意味の“きれい”だったの」
私は少しだけ息を吸ってから答える。
「……逃げなかったことごと」
ひまりは顔を上げて、少しだけやわらかい目をした。
「うわ」
「だからその反応」
「いや、もう」
彼女は苦笑しながら言う。
「ちゃんと見てくれてるね」
私はその言葉に、小さく頷いた。
そうだ。
ちゃんと見てくれている。
それが、何よりうれしい。
◇ ◇ ◇
放課後、私たちは少しだけ遠回りをして帰った。
日が落ち始めた道は静かで、人通りも少ない。
「栞」
恒星くんが言う。
「何」
「昨日のこと、まだ引きずってる?」
「……」
「顔で分かる」
「……恒星くんのせいです」
そう返すと、彼は少しだけ笑った。
「知ってる」
「……」
「でも、昨日の栞」
「うん」
「ほんとうにきれいだったから」
また言う。
そんなふうに、何度も。
それだけ本気だということなのだろう。
私は歩きながら、少しだけ目を伏せた。
「……嬉しいです」
「うん」
「すごく」
「……」
「だから、まだ引きずってる」
そう言うと、恒星くんの表情がふっとやわらぐ。
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって」
「……」
「栞が、俺の言葉でちゃんと揺れてくれるの」
「……」
「好きだから」
その言葉に、私はもう何も返せなくなる。
しばらく歩いたあと、人がほとんどいない角で、恒星くんが立ち止まった。
「……栞」
「何」
「今、抱きしめたい」
私は少しだけ息を止めた。
でも、昨日までの私よりは落ち着いて頷けた。
「……少しだけなら」
その返事に、恒星くんが少しだけ笑う。
「うん」
やわらかく腕の中に包まれる。
でも、その抱擁には昨日の余韻が残っていた。
大事にするみたいな、でも少しだけ熱のある抱き方。
「……好き」
耳元でそう言われて、私は目を閉じた。
「私も」
小さく返す。
「……好き」
言ったあと、胸がどくんと鳴る。
でも、今日はその“好き”をちゃんと置いていい気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、知らない番号から一通のメッセージが届いた。
『朝比奈栞さんへ』
『少しだけお話ししたいの』
『もし嫌でなければ、時間をもらえないかしら』
差出人名はない。
でも、文面を見た瞬間に分かった。
澄香さんだ。
胸の奥がまた、少しだけざわつく。




