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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第76話 私が場違いでも、あなたの隣だけは譲りたくない

 窓の外は、やわらかい夕方の光に染まり始めていた。


 私はその光を見ながら、ゆっくり呼吸を整えた。

 胸の奥はまだ少しだけざわざわしている。

 でも、さっき会場を出たときよりは落ち着いてきた。


 逃げたいわけじゃない。

 ただ、自分の足で戻りたいだけだ。


 そのことに気づいた瞬間、私は少しだけ笑ってしまった。

 前の私なら、ここで“やっぱり無理”と言っていたかもしれない。

 でも今は、違う。


「……戻ろう」


 小さくつぶやいて、私は窓から離れた。


 会場の入口へ向かう途中で、恒星くんがちょうど出てくるのが見えた。

 たぶん、私を探しに来たのだろう。


「栞」

「……ごめん」

「ううん」

 彼はすぐに首を振る。

「大丈夫?」

「……うん」

「ほんとに?」

「……完全ではないです」

 正直にそう言うと、恒星くんは少しだけ息を吐いた。

 でも、困った顔はしない。


「戻れる?」

 その聞き方が、やさしかった。

 無理に戻らせるわけでもなく、でも逃げ道だけを残すわけでもない。


 私はしっかり頷いた。

「……戻りたい」

 その返事を聞いた瞬間、恒星くんの目が少しだけ揺れた。

 嬉しそうに。

 でも、それを今はあまり表に出さないようにしている顔。


「うん」

「……」

「一緒に戻ろう」

 彼がそう言ってくれるだけで、足元の不安定さが少しだけ減る。


   ◇ ◇ ◇


 会場へ戻るとき、私は自分の中ではっきり思っていた。


 私は、たしかに場違いかもしれない。

 少なくとも、今の時点では自然には馴染めない。

 緊張もするし、比べてしまうし、息苦しくなる瞬間もある。


 でも、それでも。

 あなたの隣だけは譲りたくない。


 その気持ちが、今日いちばん強かった。


 会場に戻ると、澄香さんがこちらを見て、少しだけ驚いたような顔をした。

 たぶん、私はそのまま帰ると思われていたのかもしれない。


「戻ってきたのね」

 彼女が言う。

「……はい」

「えらいわ」

 その一言が少しだけ意外で、私は瞬きをした。


「……」

「嫌味じゃないの」

 澄香さんは小さく笑った。

「こういう場所、息苦しいでしょう」

「……少し」

「でしょうね」

 あっさり認められて、私はかえって少しだけ肩の力が抜けた。


「でも」

 私は小さく言う。

「逃げたくはなかったので」

 澄香さんの目が、ほんの少しだけ変わった。

 からかうような余裕の奥に、少しだけ本気のものが見えた気がした。


「そう」

「……」

「それなら、十分かもしれないわね」

 その言葉の意味はよく分からない。

 でも、前より少しだけこちらを見る目がやわらかい気がした。


 恒星くんは何も言わなかった。

 ただ、その沈黙の中に、強い感情があるのが分かった。

 さっき私が戻ると答えたときと同じような、どこか熱いもの。


   ◇ ◇ ◇


 会場を出るころには、私はもう朝ほど固くはなかった。


 完璧ではない。

 でも、最初よりちゃんと呼吸はできている。

 そしてなにより、自分から戻ったという事実が、少しだけ背中を支えていた。


 帰り道、恒星くんはしばらく黙っていた。

 その沈黙は重くない。

 でも、何かを強く抱えている感じがある。


「……何」

 私が聞くと、彼は少しだけ困ったように笑った。


「今日」

「うん」

「ほんとうにきれいだった」

 私はその言葉に、一瞬だけ息を忘れた。


「……」

「服とか、そういうのももちろん」

「……」

「でも」

 彼の声が少しだけ低くなる。

「逃げなかったことが」

「……」

「自分で戻ってきたことが」

「……」

「すごく、きれいだった」

 私は目の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 外見だけじゃない。

 今日の私の、怖くても立とうとしたところごと見てくれている。

 そのことが、たまらなくうれしかった。

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