第68話 隠したいわけじゃない。ただ、あなただけの顔でいたいだけ
次の日の朝、私はずっと昨日の“いっそ隠さない方が楽?”という言葉を考えていた。
たしかに、一理ある。
変に隠そうとするから不自然になるし、周りの視線を余計に意識してしまうのかもしれない。
でも、それがそのまま答えになる気はしなかった。
私は隠したいわけじゃない。
恋人であることをなかったことみたいにしたいわけでもない。
ただ――。
「……全部は、見せたくないのかも」
小さくつぶやきながら、私は駅へ向かう道を歩いていた。
たとえば、放課後の甘いやり取り。
あの少しだけ低い声。
名前を呼ばれるときのやわらかい目。
二人きりになった瞬間、空気が少し変わる感じ。
そういうものは、まだ私の中では“あなただけに見せたい顔”なのだ。
みんなの前で堂々と恋人でいることと。
二人だけの甘さをそのまま外へ広げることは、たぶん違う。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりが私を見るなり、すぐに察した顔になった。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は考えまとまりかけてる」
「分かるの」
「分かる」
ひまりは前の席に座って頬杖をつく。
「で?」
「何」
「昨日の答え」
私は少しだけ息を吐いて、正直に言った。
「……隠したいわけじゃない」
「うん」
「でも」
「うん」
「全部、みんなに見せたくはない」
ひまりが少しだけ目を細める。
「それ、かなり分かる」
「……」
「何ていうか」
「うん」
「恋人っていう事実は別に隠さなくてもいい」
「うん」
「でも、あの甘い空気は」
「うん」
「……あなただけに向けたい」
そこまで言って、自分で少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
でも、これはかなり本音だった。
ひまりは一瞬黙って、それから机に突っ伏した。
「無理」
「何が」
「その独占欲、めちゃくちゃいい」
「独占欲?」
「そうだよ」
ひまりは顔を上げてにやっとする。
「一条くんが栞を独り占めしたいのと同じで」
「……」
「栞も、“その顔は私にだけ向けてほしい”って思ってるってことじゃん」
私は言葉に詰まった。
でも、否定できない。
たしかにそうだ。
私は、恒星くんが誰かに優しくするのが嫌なわけじゃない。
でも、あのやわらかい恋人の顔は、自分だけのものであってほしいと思っている。
「……それ」
私は小さく言う。
「ちょっと、わがままかな」
「全然」
ひまりは即答した。
「むしろ恋人らしい」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
◇ ◇ ◇
放課後。
私は自分から恒星くんを呼び止めた。
「……昨日のこと」
「うん」
「答え、少しだけある」
そう言うと、恒星くんはすぐに表情をやわらげた。
「聞く」
私たちはいつものベンチへ向かった。
座って少しだけ黙ってから、私は小さく言う。
「……隠したいわけじゃない」
「うん」
「恋人なのに、なかったことみたいにしたいわけじゃない」
「うん」
「でも」
私は少しだけ視線を落とした。
「全部をみんなの前に出したくもない」
「……」
「特に」
「うん」
「放課後の顔とか」
「……」
「二人きりのときの空気とか」
「……」
「そういうのは」
喉が少し熱くなる。
「あなたにだけ向けたい」
言い切った瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。
これはたぶん、かなり女の子っぽいわがままだ。
でも、今の私にはそれが一番近かった。
恒星くんはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ目を伏せて、困ったように、でもとても嬉しそうに笑った。
「……だめだ」
「何が」
「今の、すごく好き」
「……」
「それ、独占欲だよ」
「……」
「知ってる?」
「……ひまりにも言われた」
そう返すと、恒星くんは少しだけ笑った。
「うれしい」
「またそれ」
「だって、本当に」
彼は少しだけ前を向きながら続ける。
「俺も、放課後の栞は俺だけのものみたいで好き」
「……」
「だから、栞が同じこと思ってくれてるの」
「……かなり嬉しい」
その“かなり”が、妙に深く聞こえて、私は少しだけ目を伏せた。
「……じゃあ」
私は小さく言う。
「学校では、少し控えめ」
「うん」
「でも」
「うん」
「二人だけの顔は、ちゃんと二人だけ」
恒星くんはすぐに頷いた。
「それがいい」
「……」
「栞がそうしたいなら、俺もそうしたい」
その返しがやさしくて、私は小さく笑った。
恋人であることを隠したいわけじゃない。
でも、恋人にしか見せない顔は大事にしたい。
そのわがままを、ちゃんと受け止めてもらえることがうれしかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
人通りの少ない道へ入った瞬間、恒星くんが自然に私の手を取る。
もう、それだけで学校の外だと分かる。
「……早い」
「我慢してた」
「またそれ」
「だって本当だから」
その言い方が少しだけ子どもっぽくて、私は思わず笑ってしまった。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「みんなの知らないデート、しようか」
「……え」
「もっと、二人だけって感じの」
私は一瞬だけ言葉を失った。
みんなの知らないデート。
その響きだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
秘密みたいで、でもいやらしくなくて、ただ大事なものを大事にする感じがした。
「……どういうの」
小さく聞くと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「静かなとこ」
「……」
「人に見つからないっていうより」
「……」
「二人でちゃんといられる場所」
その言い方があまりにもやわらかくて、私はもう断れる気がしなかった。
「……行きたいです」
そう答えると、恒星くんが嬉しそうに笑った。
「うん」
「……」
「そう言ってくれると思ってた」
「何で」
「栞、そういうの好きそうだから」
図星だった。
悔しいけれど、嬉しかった。




