第66話 隣を選んだ翌朝、世界は少しだけ変わって見えた
翌朝、私は目が覚めた瞬間に、胸の奥が少しだけ静かなことに気づいた。
ここ最近ずっと、朝は落ち着かなかった。
好きだから苦しくて、近づいたぶん不安も増えて、目を開けた瞬間から心臓が少しうるさい日が多かった。
でも、今日は少し違う。
昨日、私はちゃんと言ったのだ。
分からなくても隣にいたいと。
守られるだけじゃなく、自分からその隣を選びたいと。
未来のことはまだ全部分からない。
家のことも、外の世界のことも、きっとこの先また怖くなる。
それでも、“怖いから離れる”のではなく、“怖くても隣を選ぶ”と決めたあとの朝は、思っていたより静かだった。
「……不思議」
小さくつぶやいてから、私は布団から起き上がった。
洗面所で顔を洗い、黒縁眼鏡をかける。
鏡に映る自分は、いつもの私だ。
でも、その奥にあるものだけが少し変わっていた。
迷いが消えたわけじゃない。
けれど、昨日までの私より、少しだけ自分の足で立っている感じがする。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、ひまりがすぐにこちらを見た。
そして、いつものからかう顔ではなく、少しだけやわらかい顔で笑う。
「おはよ」
「……おはよう」
「うん」
「何」
「昨日より、ちゃんと前向いてる」
私は鞄を机に置きながら、小さく息をついた。
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に腰を下ろして、頬杖をつく。
「昨日までの栞って、“好きだけど怖い”の比率が高かった」
「……」
「今日は、“怖いけど好きでいる”の方が強い顔」
その言い方が、妙にしっくりきて、私は少しだけ笑ってしまった。
「……ひまり、たまにすごい」
「たまにじゃない」
「調子に乗らないで」
「でも図星でしょ」
図星だった。
たぶん今の私は、そういう顔をしている。
そのとき、教室の入り口が少しだけざわついた。
私は反射みたいに顔を上げる。
恒星くんがいる。
目が合う。
その瞬間、彼の表情がほんの少しだけやわらいだ。
私は今までなら、そこで少し慌てていたかもしれない。
でも今日は違った。
ちゃんと、その視線を受け止めて、小さく笑えた。
恒星くんが席へ鞄を置いてから、こちらへ来る。
学校の中だから距離は控えめだ。
けれど、その控えめな近さすら、今日は少しだけあたたかい。
「おはよう」
「……おはよう」
私が返すと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「今日」
「……何」
「昨日と違う」
「そんなに」
「うん」
「何が」
「ちゃんと、隣に立ってる顔」
その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。
昨日のことを、向こうもまだちゃんと持っている。
そのうえで、こんなふうに言う。
「……恒星くん」
「何」
「朝からそれ、ちょっと強いです」
「うん」
「認めるんですね」
「だって、嬉しいから」
私は少しだけ視線を落とした。
でも、その“嬉しい”が今日は前より深く届く。
たぶん、世界は急には変わっていない。
でも、私の受け取り方は少し変わった。
それだけで、こんなにも違うのだと思った。
◇ ◇ ◇
一時間目のあと、先生に頼まれてプリントを配っていたときだった。
教室の後ろの方で、女子の小さな声が耳に入る。
「……やっぱり、ちょっと雰囲気違うよね」
「うん」
「前より近いっていうか」
「わかる」
その一言に、私は手を止めそうになった。
でも、止めなかった。
恥ずかしい。
それは本当だ。
私たちの空気が外に見え始めているのを意識すると、やっぱり胸が少しだけそわそわする。
でも、嫌だとは思わなかった。
むしろ、少しだけくすぐったい。
昨日の私なら、ここでまた“どうしよう”の方へ傾いていたかもしれない。
でも今日は、ほんの少しだけ違う。
見られるのはまだ慣れない。
それでも、“だから遠くなりたい”とは思わない。
その変化が、私には少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
昼休み、中庭のベンチでひまりにそのことを話すと、彼女は少しだけ満足そうに笑った。
「うん、いいじゃん」
「何が」
「気づかれて、恥ずかしいとは思う」
「うん」
「でも、そこで“嫌”に行かない」
「……」
「栞、ちゃんと前に進んでる」
私はジュースのパックを持ちながら、小さく息をつく。
「……まだ全然、慣れてないけど」
「慣れなくていいよ、いきなりは」
「……」
「でも、恋人であることに少しずつ自分の心が追いついてきたんでしょ」
その問いに、私は小さく頷いた。
「……たぶん」
「なら十分」
ひまりはあっさり言う。
「その“たぶん”が増えていけば、そのうちちゃんと自分のものになるよ」
私はその言葉を、少しだけ大事に胸にしまった。
◇ ◇ ◇
放課後。
校門を出たところで、恒星くんが自然に私の隣へ並ぶ。
昼間より少し近いその距離に、私はもうほっとするようになっていた。
「今日」
恒星くんが言う。
「うん」
「見られてたね」
「……うん」
「嫌だった?」
私は少しだけ考えてから、正直に答える。
「恥ずかしかった」
「うん」
「でも」
「うん」
「前より、大丈夫」
その言葉に、恒星くんは少しだけやわらかく笑った。
「そっか」
「……」
「じゃあ、少しずつ慣れていこう」
「……うん」
「二人で」
その“二人で”が、今日は妙に沁みた。
恋が外へにじんでいくのは少し怖い。
でも、そのにじみ方まで二人で調整していけるなら、たぶん大丈夫なのかもしれない。




