第62話 好きでいたいのに、未来を考えると少し怖い
その夜、私はベッドの上でずっとスマホを握っていた。
恒星くんからのメッセージは、いつも通りやさしかった。
『今日は疲れてそうだったけど、大丈夫?』
『無理してないといいな』
それを見て、胸の奥が少しだけ痛くなる。
だって、私はいま“疲れている”わけじゃない。
怖くなっているだけだ。
婚約者候補。
家柄の合う相手。
そういう言葉を聞いてしまったせいで、今までなんとか見ないふりをしていたものが、一気に現実味を持ってしまった。
好きだ。
ちゃんと好きだ。
でも、好きでいることと、未来まで一緒にいられることは同じではないのかもしれない。
その考えが頭から離れなくて、私は何度もスマホの画面を消してはつけた。
『大丈夫』
そう返すのは簡単だ。
でも、今はその言葉が嘘になる気がした。
結局、その夜は短く『少しだけ考えごとしてる』とだけ返した。
恒星くんからは、すぐに返事が来た。
『そっか』
『話したくなったら聞くから』
それがあまりにも彼らしくて、私は少しだけ目を閉じた。
やさしい。
でも、そのやさしさにすぐ飛び込めない自分がいる。
たぶん私は今、恋人としていちばん怖いものを想像し始めている。
好きなのに、未来を信じきれないこと。
今の幸せが、今だけのものかもしれないと思ってしまうこと。
「……だめだな」
小さくつぶやいて、私は枕に顔を埋めた。
好きでいたい。
ほんとうに、そう思う。
でも、好きだからこそ失う想像が痛い。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室へ入ると、ひまりが私を見るなりすぐに真顔になった。
「おはよ」
「……おはよう」
「それ、昨日より深いやつだ」
「何が」
「落ち込み」
私は鞄を机に置いて、少しだけため息をついた。
「……そんなに?」
「そんなに」
ひまりは前の席に座って、珍しく最初からふざけなかった。
「昨夜あんまり眠れてないでしょ」
「……ちょっと」
「一条くんのこと?」
私は小さく頷いた。
「……婚約者候補って」
「うん」
「まだ何も決まってない話だって分かる」
「うん」
「でも」
喉が少し詰まる。
「その“まだ”が、逆にこわい」
ひまりは少しだけ目を細めた。
「そっか」
「……」
「今の幸せがあるぶん、失う想像も強くなる」
「……うん」
「分かるよ」
その一言に、私は少しだけ救われる。
分かる、と言われるだけで、今のこの感情が少しだけまともになる気がする。
「……私」
小さく言う。
「好きでいたいのに」
「うん」
「未来を考えると、少し怖い」
そこまで言うと、ひまりはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「じゃあ、聞きなよ」
「……」
「本人に」
「……」
「栞」
ひまりの声は静かだった。
「勝手に想像して、勝手に一番悪い未来に行くの、もうやめな」
その言葉が、思っていた以上に胸に刺さった。
「……でも」
「うん」
「こんなの聞いたら、重くない?」
「重くていいんだよ」
「……」
「だって恋人でしょ」
ひまりはまっすぐ私を見る。
「今だけじゃないかも、って怖くなるくらい好きなんでしょ」
「……」
「だったら、その怖さを本人に見せるの、重いとかじゃない」
私は何も言えなかった。
でも、心の中では、その通りだと分かっていた。
私がいま怖いのは、ただの家柄の話じゃない。
恒星くんの未来に、自分がいないかもしれないことだ。
それを聞かないまま、自分の中だけで結論にするのは、やっぱり違う。
「……聞く」
小さく言うと、ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
「逃げる前に」
そう言えたことで、胸の奥の苦しさがほんの少しだけ形を持った気がした。
◇ ◇ ◇
その日の午前中、私は何度も恒星くんの方を見てしまった。
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
いつも通り、私に向くときだけ少しやわらかくなる目元。
その全部が好きだ。
だからこそ、聞くのが怖い。
もし私の聞きたい答えじゃなかったらどうしよう。
もし、彼の中ではまだそこまで考えていなかったら。
もし、“好き”と“未来”が別の場所にあるのだとしたら。
そんなことを考えてしまうたび、胸の奥が少しずつ重くなる。
昼休みの少し前。
休み時間に廊下へ出たとき、恒星くんがすぐに私を見つけた。
「栞」
「……何」
「今日」
「……」
「ちゃんと話したい」
やっぱり、そう来る。
私は少しだけ唇を結んでから頷いた。
「……放課後」
「うん」
「私も」
それだけ言うと、恒星くんの表情がほんの少しだけ真剣になる。
でも、追及はしなかった。
「待ってる」
静かなその一言が、今日は少しだけ怖くて、でもありがたかった。
◇ ◇ ◇
放課後までの時間は、やけに長く感じた。
ひまりが「大丈夫」と小さく言ってくれたこと。
自分で「聞く」と決めたこと。
その二つがなければ、私はきっと逃げていたと思う。
でも今日は逃げない。
怖くても、聞く。
だって私は、もう“勝手に諦める側”には戻りたくなかったから。




