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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第61話 彼氏の婚約者候補なんて、聞いてません

 その日の放課後、私はひとりで図書室へ寄っていた。


 委員会の資料を返すための、ほんの短い立ち寄りだった。

 閉館前の図書室は静かで、少しだけ夕方の匂いがする。


 返却棚へ向かう途中、奥の司書カウンター近くで、数人の女子が小声で話しているのが耳に入った。


 別に盗み聞きするつもりはなかった。

 でも、その中のひとつの名前に、足が止まる。


「……一条くんって、やっぱり家でいろいろあるのかな」

「そりゃあるでしょ。あのレベルの家なら」

「婚約者候補とか、もう決まってたりして」

「ありそう」

 喉の奥が、ひゅっと狭くなる。


 婚約者候補。


 その単語が、耳の奥でいやにはっきり響いた。

 冗談半分なのかもしれない。

 ただの想像かもしれない。

 でも、“あのレベルの家ならありそう”という言い方が妙に現実味を持っていた。


「家柄の合う相手とか、絶対見られるよね」

「ていうか、一条グループなら普通にそういう話ありそう」

「やだ、少女漫画じゃん」

 そんな軽い調子の会話が、今の私には全然軽く聞こえなかった。


 私は持っていた本を棚へ戻して、そのまま静かに図書室を出た。

 足音が、自分でも分かるくらい少しだけ不安定だった。


   ◇ ◇ ◇


 校舎の階段を下りながら、頭の中で言葉が何度も反響する。


 婚約者候補。

 家柄の合う相手。


 まだ何も決まっているわけじゃない。

 ただの噂かもしれない。

 でも、それが“完全な絵空事”には思えなかった。


 だって恒星くんの家は、たぶんそういう世界と無関係ではいられない。

 私は昨日まで、彼の世界を少しずつ見始めたばかりだ。

 その一番こわい形を、今日は急に見せられた気がした。


「……」

 胸の奥が、すうっと冷たくなる。


 私はまだ、“遠い人に戻らない”という言葉に安心していたかった。

 でも、その安心の先に、もっと大きな現実があるのだとしたら。


 恋人でいることと。

 未来まで一緒にいられることは。

 もしかしたら全然別の話なのかもしれない。


 その考えにたどり着いた瞬間、息が少しだけ浅くなる。


「栞?」

 不意に名前を呼ばれて、私はびくっとした。

 顔を上げると、昇降口近くで恒星くんがこちらを見ていた。


「……お疲れさま」

「うん、お疲れさま」

 彼はやわらかく笑った。

 でも、私はその笑顔にすぐには戻れなかった。


 好きな人。

 恋人。

 隣にいたい人。

 その全部は本物だ。

 でも、今の私は、その先を急に怖く思ってしまっている。


「どうしたの」

 恒星くんが少しだけ近づく。

「……何でもない」

 反射的にそう答えた。

 でも、その声が少しだけかすれていたのかもしれない。


「栞」

「……」

「顔、違う」

 私は視線を逸らした。

 だめだ。

 今日はまだ、うまく言葉にできない。


「……少し、疲れた」

 それだけ言うと、恒星くんは一瞬だけ黙った。

 それから、小さく頷く。


「そっか」

「……」

「じゃあ、今日は無理しないで」

 そのやさしさが、今の私には少し痛かった。


 無理しないで。

 そう言われるだけで、余計に“何かを隠している自分”が際立つ気がしたから。


   ◇ ◇ ◇


 帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。


 婚約者候補なんて、聞いてません。

 そんな子どもみたいな言葉が、頭の中に浮かんでは消える。


 でも、実際の私はもっと静かに揺れていた。

 怒っているわけじゃない。

 泣きたいわけでもない。

 ただ、足元が少しだけ不安定になる。


 好きな人の未来に、自分が本当にいるのか。

 そこに“家柄の合う誰か”が割り込む可能性はないのか。


 まだ何も知らないくせに、勝手に怖くなっている。

 分かっている。

 でも、その怖さは簡単には消えなかった。


「……一時的な恋人、なのかもしれない」


 小さくつぶやいた瞬間、その言葉の痛さに自分で少しだけ息を止めた。


 一時的な恋人。

 そんなふうに思いたくない。

 でも、もし本当にそうだったら。


 その想像だけで、胸の奥がきゅっと縮む。


 私はスマホを取り出して、恒星くんから届いていた「気をつけて帰ってね」のメッセージを見つめた。

 返そうとして、止まる。

 何を返せばいいのか分からない。


 やさしい。

 変わらない。

 でも、その変わらなさだけでは、今の怖さに追いつけない気がする。


 結局、私は短く「うん」とだけ返した。

 それがいつもよりずっと冷たく見えたことに、自分で少しだけ傷ついた。

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